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sosoの素(14)

家庭料理 後編

僕は愛知県で生まれて育ち、大学から10年くらい大津や京都をうろうろしいた。愛知は赤味噌文化で味付けも結構しっかりしている。それに比べると関西とりわけ京都は薄味。一人暮らし初めてすぐの時に京都駅のホームにある立ち食いうどんを食べてびっくりした。全く味がしない。絶対調味料(醤油)を入れ忘れてるなと疑うほど味がしなく、せっかく外食したのになんだか一食分損をした気分だった。その後学食で食べたうどんも同じような感じじで、同級生も普通に食べてるところをみて調味料の入れ忘れではなく「これが関西風なのか!」と衝撃を受けたのです。のちに通勤のために京都駅を頻繁に使うようになった時は味を感じれなかったホームの立ち食いうどんでたまに朝食としてうどんを食べるのが楽しみになるくらい自分の味覚に馴染んでいて、今でもたまにホームのうどん食べたいなーと思う。(いつも車で京都に行くのでホームの中に入ることがないためそこらのお店よりも敷居が高い)

愛知と京都は100キロちょっとの距離で味付けの違いがこれだけはっきりしている。特に東海地方と関西地方のギャップが大きいのもあるけど実はこれってすごいことらしい。というのも数年かけて海外を放浪していた知人夫婦に食いしん坊の僕は世界中の料理が食べれていいね、なんて話してると、結構どこも似てて南米なんて数千キロ離れたところでも同じ豆と肉の煮込んだものがでてくるよ、だから日本みたいに違う地域に行けば異なった食文化に触れれることなんてまずないよと言われた。確かにそうかもしれない。日本はちょっと離れるだけで全然違う料理があるし、同じ県でも海側と山側ではまた違う。つまり多様性に富んでいる。出張のたびにご当地グルメを食べるのは僕の楽しみの一つ。

その味付けのルーツはどこからかと考えると地形や風土や気候や菌やその他目に見えるものも見えないものも含めてその全てであって、それが脈々と意識的あるいは無意識的に継承してきたものの積み重ねが食文化であって、その積み重ねは遠い遠い祖先から命を受け継いできた歴史でもある。
古典的な仕込み方をしている醤油も味噌もみりんも酒も全てが目に見えない常在菌の働きを促して生まれる。その促し方や調整のやり方でも個性が出てくるし、その調味料をどう使うかでも味付けは変わってくる。
視点をもう少しググッと身近なところに持ってくると、お米は炊く前に30分くらいはお水につけとくといいとか味噌汁は一煮立ちしたら火を止めるなんてことも同じで、昔の人たちが色々やって良い方法が残って口伝で今の僕たちも知っている。野菜もきんぴらにするなら繊維そって切ったり、ぶり大根の大根はぶつ切りして角を面取りするといいよなんてことも当たり前のようにしている。その当たり前が僕らが自然と受け継いでいる文化だから僕ら全員が文化人だね。

長々と書いたけど、割烹や高級レストランがお金をもらうためにすごいことをしてるけど、僕らが生きながらえていくための料理ではなくて、健康で元気であるためにはたまには味付けを失敗するくらいのちょっと気の抜けた家庭料理が不可欠。それは気取ったものではなく慈愛に満ち足り、なんとなくあいまいだったり、変な取り合わせの時だったり僕らの日々と同じでいろんな料理であればいいし、今日1日食べなくったって死なないし、味付けの失敗で変なものが出来上がってご飯にふりかけだって日があってもいいのです。その積み重ねがまた僕らの子孫に伝わり、残るものが残り継承されていく。
毎日の食事の調理を担ってくれてる人は神様みたいなもの。みなさんは文化継承者で僕はそんな方々のちょっとしたお手伝いができてるなんて本当に幸せなんです。

毎日のことも少しだけ視点を替えるだけで違った世界が顔を出す。
作れて当たり前と思われる毎日のご飯。当たり前が一番難しいからこそ、苦悩する。でも大丈夫。みんなのしてることはいつだって誰かの手助けになったるから。

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