sosoの素(19)
心と身体の頭のこと 4
身体の話で必ず言われたのは身体は必ずサインを出してるということと何歳になっても地道に動かしていけば壊れてしまっていなければ必ず回復をしていくこと。
若い時におじさんおばさんたちの世間話で身体の話をしてるのが耳に入ってくると必ずみんな「歳だから」「老化」なんて言葉を使って身体のことを語っていた。年を重ねると人ってそうなっていくんだーと健康のボーナスタイムだった僕は深く考えることはなかったけど、いざ自分の身体に不都合が出てきたら30代にも関わらず「老化」だと捉えて動きが悪くなることは仕方がないものだと思い込んでいた。
その時は何も考えずに「老化」だと考えていたけど、よく考えればおかしいよね、まだまだ老け込んで寝たきりになるには早すぎる。よくも考えずになんとなく自分の不都合に蓋をするように「老化」という言葉を使い、治したいと思う気持ちとは裏腹に自分で自分のことを諦めたような気分で見ていたのです。
そもそもなぜそんな風に考えて(正しくは考えてなかったけど)しまったのか、そこが僕は不思議で仕方がなかった。
身体は痛いよー不調だよとサインを出して続けている。だけど全くそれを頭は認識できずに何もなかったかのような振る舞いや老化という言葉を使って無視をする。僕の身体がサインを出してるのに僕の頭が認識できていない。頭ってなんだ?「老化」なんてよく考えもしずに勝手に判断して身体が出してるサインを無視してる頭は本当に僕なんだろうか?手首が痛くなってやっと身体からのサインを受け取って、受け取ったはいいけどそのサインすら不都合に感じ、なんで身体はいうことを聞かないんだとパワハラ上司のようなことを思う頭は果たしてなんなんだろう?それが僕の本性なのか?僕の身体と僕の頭、どっちも僕でだけど本当の僕ってなんなんだ?そんなことも他の方に教えてもらえて初めて気づいた僕はなんなんだろう?そんな無理問答のような考えが僕の中で浮かんでは消え浮かんでは消えていった。
僕は昔から少し理屈っぽいというかひねくれたところがある。綺麗な花を見た時に素直に綺麗だなーと思えばいいところをこれを綺麗だと認識して綺麗だと思おうとしているんじゃないか?褒めてくれたけど本当は裏があるんじゃないかとか。素直に自分の気持ちと寄り添えばいいのに、どこか疑ったり理由がないと落ち着かなかったり。そんな根本があるから極端な言い方をすれば頭脳明晰で理屈が通っていれば他の意見を聞く必要がないんじゃないかと思ってもおかしくないくらい気持ちや想いといった感情の入った部分をノイズのように感じてる時期もあった。今の仕事をするようになってから段々そんな考えから人の気持ちや想いに対して柔軟な心持ちを得れてきたけど、自分に対してはないがしろにしていたのが手首の痛みという結果になって現れたのかもしれない。
その証拠にやっと忙しくなってきて今頑張らないといつ頑張るんだと思ったり、遅れをカバーしなきゃとか「社会」「仕事」「効率」と言った切り口でしか物事を捉えられず自分のことを考えれずにいた。だからうまく動かない身体に対して不満があったし、ストレスばかりを感じていた。このあたりのことは人によって捉え方が大きく別れるところ。やっぱり仕事なんだからって言えちゃう人もいれば仕事より自分や家族のことが大切だよねって人もいる。今の社会でも問題になってることが僕は自分の身体と頭が対立構造を作り起きていた。そして人に対して柔軟な心持ちになれてきたように自分にも柔軟な心持ちでありたいと思いうようになった。それは激痛でしか治せないと優越感に浸りながら言ってくれた接骨院と身体を労ってあげてと患部をさすりながら心配してくれた知人が導いてくれた気づきなんだと思う。
僕はこのことを機に、自分を労い、無理をしたら休ませ、歯磨きやお風呂のように毎日の習慣として体操を取り入れた。そして必要以上に頭のことを信用せず、自分を絶えず疑い、身体からのサインを意識的に感じながら心地よくあれるように努めている。
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