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sosoの素(20)

心と身体と頭のこと 5

いつ何時も自分の行動は全て頭が支配している。仕事に行こう、ご飯を食べよう、あの人のことが好き、お金がふってこないかなーなんて具合に。
そんなことから僕らは頭で考えてることが全てで、そこだけで成立しているような気分で頭至上主義とでも言ってもいいくらい頭に依存している。僕も今回のことが起きるまでまさにそんな状態だったし、自分のことをコントロールしなくちゃいけないと強く頭で考えていたけど、身体が頭の指示通りに動けなくなっちゃって初めて身体というもう一つの自分を発見した。

スポーツ選手が「考えるより先に身体が動きました」みたいなインタビューのようなことってほぼ日常では起こらないし、起きた時は結構大変な状況だったりするから起こらない方がいいなーと思う。大抵のことは考えて行動をしているのは間違いない。だからと言って全てがそうじゃないってこと。怪我をすれば痛みで動かせなくなるし、病気をすれば気力がなくなり動けなくもなる。頭で思い描いたことが全て実行できるわけじゃない。
よくよく考えれば健康で若い時であっても、サッカー選手のようにボールを落とさずリフティングを続けたり、ピアノを弾いたり、綱渡りをしたりと頭では明確なイメージが持てても簡単にはできない。それができるようになるには何度も何度も練習して少しずつコツを見つけてやっとできるようになる。身体に何度も何度も覚えさすように繰り返すことでその動きが自分のものになっていくことは頭と身体の関係をよく表している。

手首を痛めてから、身体の声を聞くようにし始めた。
朝起きて、今日も手首が痛い。背中も張ってるし、首も硬い。大きな工場での指差し安全確認のよう。日中活動していても同じで、痛めてる箇所は少し使うだけで疲労が増して重くなる。それをかばうから他の箇所も変な疲れがあるなー、気分も乗って来ない。よし、ちょっと休憩しよう。自分のことだけどじっくり観察して感じていくとたくさんのことが身体の中では起こり、それを痛みや重さ、心地よさとして教えてくれる。頭で勝手に老化と決めつけ不都合に蓋をしていたことはきっと自分に対して無関心に痛めつけ続けた虐待のようなことだったんだと恐ろしくなった。

頭ばかりで物事を決めつけ、判断していくと効率や効果、成果のことが中心になっていく。そこに数字という誰にでもわかるものが入るとなおさらそれらが強化されてプロセスよりも結果に重きが置かれる。そしていかにいい数字なのか、いかに知識があるか、どれだけ地位があるかなんて話ばかりになる。それはそれで面白い世界だけど、行き着く先が偉そうに話すおじさんなんじゃないかとよく思う。そんなもの1円の足しにもならない、誰のおかげでやっていけてるんだと思ってるんだとか。踏ん反り返って偉そうで不機嫌で脂ギッシュな顔をして話してる姿が眼に浮かぶ。そこには人の気持ちや想いを微塵も感じようともせずに自分だけが正しく弱音を吐くなんて役立たずののやることだ!なんて優しさの欠片もない搾取だけの不毛地帯。でもそれは身体が悲鳴をあげてるのに仕事がやってきたから、売上が、チャンスだ、なんて考えて身体の声を無視していた僕のと同じだった。脂ギッシュで偉そうなおじさんと同じか、、、いやだな。
頭だけの世界はきっとそんな世界なんだと一線を引くようになった。

空の広さに喜び、風の心地よさを感じ、花の綺麗さに魅了され、人の気持ちや想いに耳を傾け、寄り添う。それらは効率や効果、成果なんて言葉とはとても距離のある気持ちや想いの感覚の世界でとても豊かでそれでいて複雑な世界。一見や一言では理解や表現することももちろん難しく、特効薬やリセットもなく解決にも時間がかかり忍耐がいる。眼で見ることができないから蔑ろにされがちなこと、よくわからないけどそうなってることを大切にして持てる想像力をフル活用。草花の成長のようにゆっくりと確実に。そんな価値観で周りを見てみると月が綺麗なことや雨の恵など自然の世界が愛おしくなる。

考え方が変わってから身体に対する捉え方も少しずつ変わっていった。

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