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涙を誘う道具としての「悲劇のトランスジェンダー像」の枠を超えない。映画 #ミッドナイトスワン 感想

9月25日から公開されている映画『ミッドナイトスワン』、草彅剛さんがトランスジェンダー女性の役を演じていることで話題を呼んでいる。

映画を観て、私は本作が「マジョリティの涙を誘うために”かわいそうなトランスジェンダー像”が利用されてしまった映画」だと感じた。評価できる点もあるが、トランスジェンダーの表象をめぐる問題を多く含んでいると感じた点について書いていきたい。

(※この記事はネタバレを多く含んでいます。ご注意ください。)

直面する困難を描く

映画『ミッドナイトスワン』のあらすじは以下。

「故郷を離れ、新宿のニューハーフショークラブのステージに立ち、ひたむきに生きるトランスジェンダー凪沙。ある日、養育費を目当てに、育児放棄にあっていた少女・一果を預かることに。常に片隅に追いやられ てきた凪沙と、孤独の中で生きてきた一果。理解しあえるはずもない二人が出会った時、かつてなかった感情が芽生え始める。」

映画の評価できる点は、トランスジェンダーが直面するさまざまな困難を実直に描いている点だろう。

ニューハーフショークラブで日々客から受ける差別や偏見。トランスジェンダー女性の「凪沙」が「一果」の実母から”バケモノ”と恫喝される。こうした困難を”明らかに差別する側が悪い”と受け取れる描き方がされている点は、視聴者に訴えかけるものがあるのではないかと思う。

また、トランスジェンダーの直面する困難を、草彅剛さんという有名な俳優が演じることで、これまで関心のなかった層の人々の意識を向けさせる効果は大きいだろう。(一方で、シスジェンダーの男性がトランス女性を演じることの懸念については後述する)

他にも、会社の採用面接で男性の面接官が「最近LGBT流行ってますよね、自分は研修受けたんで...」と言い、隣に座る女性の同僚に注意されているシーンなども、昨今のLGBTをめぐる現状をリアルに描いているのではないかと感じた。

凪沙が一果を抱きしめ「うちらみたいなんは、ずっと一人で生きていかないといけない、強くならないと」と伝えるシーンや、二人がお互いに少しずつ心を開き、関係性を築いていく様子は良かった。

個人的に本作で最も印象的なシーンは、一果が通うバレエ教室の講師が、凪沙のことを”間違えて”「お母さん」と自然と呼び、凪沙とともに談笑するシーンだ。このバレエ講師は凪沙の性のあり方について終始何も言及することはなく、ただ一果とバレエのことについて話す。この自然さに好感を持った。

トランスジェンダー女性と母性

一方で、本作のトランスジェンダーの描き方について、公開前の報道から私は違和感を感じていた。

例えば、映画公開前の記事で書かれていた「性別を超えた愛情、母性」という点について、以下のツイートをした。

トランスジェンダー女性が育児放棄された幼い女の子を引き取り育てる、という構図は実は本作が初めてではない。例えば、2017年に公開された映画『彼らが本気で編むときは」でも、生田斗真さん演じるトランスジェンダー女性のリンコが、”母親"として少女トモを育てようと奮闘する。

本作では、トランスジェンダーの凪沙は当初、一果を育てる意思はなく、家事などは自分でするように冷たくあしらっていたが、徐々に一果を育てることに意欲的になる。

象徴的に描かれているシーンは、二人が食卓を囲み、凪沙が作った「ハニージンジャー」に対して一果が「生姜焼き」だと言い張るシーンだろう。映画の後半でも「ハニージンジャー」が言及されるシーンもあり、いわゆる”おふくろの味”的な演出と感じた。

こうしたトランス女性を描く上で”母性”を強調することは、そもそも”母性”を女性らしさの象徴として位置づける規範を強化してしまうのではないか。トランス女性がこうした「女性性の象徴としての母性」を獲得するーー”母”になる/なろうとしなければ、視聴者や社会から”女性”として認められというような規範を強化してしまう懸念があると考える。

マジョリティの涙を誘う”死”

本作監督は、物語の登場人物である元AV女優の一般女性に許可を取らず撮影されたことや、「不当な搾取が横行した時代の性産業を美化している」などの批判を集めた、NETFLIXのドラマ『全裸監督』の脚本・監督をつとめた内田英治氏だ。

監督の本作に関するインタビューをいくつか拝読し、30人ほどのトランスジェンダーの当事者への取材を重ねたことや、誠実に物語を作ったことは伺うことができた。

あるインタビューでは「トランスジェンダーの置かれた社会的立場はこんなに大変なんだと社会に訴えかけるような、堅い映画にはしたくありませんでした」と述べている。

しかし私は、本作が「トランスジェンダーの困難な状況を伝えること」には成功しつつ、マジョリティの涙を誘うための”かわいそうなトランスジェンダー像”としてのみ利用され、「大変だ」という枠を超えられてはいない作品だと感じた。

その大きな理由の一つに「非シスジェンダー・ヘテロセクシュアルの人間は最終的に死んでしまう」という点がある。

少々強引にだがストーリーを並べると、主人公の凪沙はトランスジェンダーであることで差別を受けつつ、一果を育てる中で”母性”が芽生え始めるが、結局実の母親に奪われてしまう。しかし、タイで性別適合手術を受け「女になった」「私は母になれる」と一果のもとへ戻るが、実母にバケモノと罵られる。

その後、手術の合併症で突然失明してしまい、死んだ魚が浮かぶ汚れた水槽に「餌をあげなければ」と目が見えない状態で餌をまき続ける凪沙。下半身は血だらけのまま一果の介護を受け、最終的に死亡してしまうのだ。(そもそもタイでの性別適合手術は技術力も高いと言われており、ゼロではないだろうが手術による事故が起こる可能性が低い社会的背景を無視し、極端な事例として表象されることにも違和感を持った)

さらに、一果と同じバレエ教室に通う「りん」は、裕福な家庭で育ちつつ親からの愛情を受けていない。親から都合の良い”人形”のように扱われている。りんと一果の関係は徐々に深まり、りんが一果にキスをするシーンがある。りんのセクシュアリティが明言されることはないが、最終的にりんは屋上で開かれた結婚パーティの最中に自ら飛び降りる。りんの死の文脈についてはほぼ回収されない。

このように、シスジェンダー・ヘテロセクシュアルの登場人物は生き残り、非シス・ヘテロの人物は死んでしまうという非対称性。私はこれが、単にマジョリティの涙を誘うための「死」としてしか文脈を受け取ることができず、必然性に疑問を感じた。

凪沙が手術に"失敗"し、さらには視力を失いつつ、やっと一果と一緒に暮らすことができ、一果に介護されながら息を引き取るのは”涙を誘う”だろう。しかし、ここに感動ポルノ的な、かわいそうな存在としてトランスジェンダー(かつ、”失明する”という点においては視覚障害者)という存在が利用されたという違和感を禁じ得なかった。

「身体の性」を本質とするような演出

さらに、本作が終始「身体の性」を本質主義的に語ることも問題だと感じた。

凪沙はホルモン治療を受ける際、医者から性別適合手術を進められるが、金銭的な理由から難しいことを伝えていた。しかし、一果を育てる中で”母親”になるため、決意をして”男性”の姿で就職活動をし、工場に勤務する。そしてタイで性別適合手術を受け「女になった」「私は母になれる」と一果を実家に迎えにいく。

しかしその際、一果の実父と口論になり投げ飛ばされ、なぜか突然胸部がガバっと大きく開き胸が露出する。その胸を見て、実母は「バケモノ」と恫喝し、その場にいた凪沙の母親も絶叫し崩れ落ちる。

胸をあえて露出させる「演出」は、まさに性別適合手術を受けたことで”本物の女性”になった、手術を受けたことで”母親”になれるという規範を強化するように捉えられ、違和感を覚えた。

また、凪沙の最期のシーンでは、凪沙と一果が海を訪れ、砂浜に座る凪沙が一果に踊るよう求める。凪沙は失明しているが、その踊りを見て綺麗だと褒める。そこで「はい、ここ泣くところですよ」と言わんばかりの二人の思い出の走馬灯が流れ、凪沙は亡くなっていく。

本作では「バレエ」というモチーフが扱われているが、ニューハーフショークラブで白鳥の衣装で踊る凪沙と、最終的にニューヨークの舞台にまで登りつめ美しく踊る一果が対照的に描かれていることにも指摘したい。

最期に砂浜で一果が踊るのを死際の凪沙が見つめるシーンは、凪沙が一果に想いを託すという捉え方もできるが、反対に、たとえ性別適合手術を受け”女”になり、”母"になったとしても、結局(シスジェンダーの)”美しい本物の女性”にはなれず死んでいく、という二項対立のような構図に疑問を感じた。

シス男性がトランス女性を演じることの懸念

昨今では、特にハリウッドなどの映画業界で、トランスジェンダー役を当事者ではないシスジェンダーの役者が演じることに対して疑問の声が上がっている。

シスジェンダーの男性がトランスジェンダー女性を演じることの弊害については、NETFLIXで公開されているドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして(原題:DISCLOSURE)』を観て欲しい。

ここでは、トランスジェンダーの俳優の機会が奪われてしまっていることに加え、多くの視聴者がトランスジェンダーの存在を身近に感じていない中で、「シスジェンダー男性が演じるトランス女性」のイメージを多くの視聴者に植え付けることの問題点を指摘している。

トランス女性としての役が評価されても、例えば映画が何らかの賞を受賞した際は「男性」の俳優がその賞を受け取る。あくまでもシスジェンダーの男性が「女装」をしたという域を超えない。

この構図は本作でも同じだろう。作中でも、凪沙は一果のために工場に就職するが、その際「男性」の姿になる。(もちろん当事者の中にはこうした経験を有している人もいるだろう)しかし、シス男性の草彅剛さんが凪沙というトランスジェンダーの役を演じる中で男性の姿になるのは、草彅剛さんに「戻る」ということを表している。

さらに、本作を報じる記事の中には、例えば「女装の草彅さんが色っぽくて切なくて。」や、「女でも男でもない“いちばん最後の顔”」といった記事が書かれている。

まさに、あくまでもシス男性の草彅剛さんが演じたのは「女性」ではなく「女装」という枠を超えられていないのである。

マジョリティの描く「トランスジェンダー像」

ここまで本作について問題だと考える点を中心に述べてきた。

そもそも日本にはトランスジェンダーを主人公とした映画が少ない中、制作サイドや報道記事、受け手を含め、ほとんどが本作の描くトランスジェンダーの存在について「肯定的」に語っている点や、社会に差別や偏見があることを描き、問題視している点については、社会の変化を実感する。

草彅剛さんがトランスジェンダー役を好意的に引き受け演じたことも、性の多様性に関する認識の”過渡期”という意味では評価できる部分もある。

しかし、いまだに報道では「トランスジェンダーという”難しい役どころ”に挑戦」など、映画制作陣や報道関係者も含めて、まだまだ多くの人にとってトランスジェンダーという存在を身近なものとして捉えられていないことは事実だろう。

リアルなトランスジェンダーというよりも、本作は「イメージ」としてのトランスジェンダー像を再生産してしまっていると感じた。

前述したドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド』でも、これまでトランスジェンダーが常にシリアルキラーや殺害されてしまう被害者、または病気によって死亡する悲劇の登場人物など、ステレオタイプに描かれ続けていることが問題だと指摘されている。

海外ではトランスジェンダーを描く良い作品も作られるようになった。まだまだ日本の映画業界では道半ばなのかもしれないが、2020年の現在に本作を観て、「まだこの地点なのか」という感想を抱かざるを得なかった。

この点については、監督もインタビューで「本当は、トランジェンダーの方々がごく普通に映画の中に登場しているというのがベストだと思っています。そういうバージョンの脚本も書きました(中略)でもいろいろ考えた末に、まだ日本はそこに至っていないという結論に至りました」と述べており、問題意識は持っているのかもしれない。

であれば、シスジェンダー男性視点の「マジョリティの涙を誘う”かわいそう”な存在としてのトランスジェンダー」ではなく、イメージとしてのトランスジェンダーを超えた、より社会の側のまなざしを揺さぶるような作品へと物語を展開してほしかったと思う。

本作を観た人がどう受け取るかはもちろん人によって異なるが、映画を観た上で、こうした批判的な視点についても考えてみてほしい。そして、今後はマジョリティの考える「トランスジェンダー像」ではなく、現実に生きるトランスジェンダーのリアルを描く作品が生み出されていくことを期待したい。

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