twitterアーカイブ+:映画『劇場版ポケットモンスター みんなの物語』感想
前夜
「みんなの物語」というタイトルは、ルギア爆誕のテーマであった「共生」に通じる。しかし、それは先にミュウツーの逆襲で「自己存在」を語っておいたからこそ、次のステップとして提示できたテーマだ。「キミにきめた!」は自己存在の物語ではない。自己存在なき共生(ハイデガーか?)を描けるのか?
ルギアは自らを評して、「私は私が幻であることを願う。それがこの星にとって、幸せであるなら」と言った。ここにこそ、伝説のポケモンは単なる生き物を超えて一個の象徴であるという思想が――首藤剛志の思想が――凝縮されている。「みんなの物語」ではこれがどうなるか。
首藤解釈は、常にポケモン世界を心的過程として捉える。その思考法が、渋々子供を劇場に連れていった親たちをも圧倒した「ミュウツーの逆襲」を生んだのだし、そうでなければ、我々が通常想定するような意味ではエンテイの登場しない「結晶塔の帝王ENTEI」は発想さえされなかっただろう。
まだ観ていないうちから迂闊なことは言えないのだが、「みんなの物語」と称している中の特定の一人を「絶対的主人公」と規定してよいのだろうか……? 期待されるのは「みんなが主人公」という方向だが、「誰にでも価値がある、ただし絶対的主人公の養分として」という方向にはまさかなるまいな……?
映画一回目
「劇場版ポケットモンスター みんなの物語」を観てきた。
社会契約……布置と開離……英雄から預言者へ……ふともも……解像度の高い王道……合流……聖杯……「首藤への答え」説の動揺……再び社会契約……ポケモンパワー……そのようなことなのだ……
社会契約。この映画のテーマは社会契約だよ。
映画を一見して直ちに分かる粗はこのブログにほぼ全て書かれているため、それ以上追及はしない。基本的に私も同じ場所に粗を見つけ、同じ感想を持っている。私のすべきことは、この映画の作中世界の社会構造を整理することと、この映画に仕掛けられた寓意を読み解くことだ。
リサのサイズフェチ(シュリ)イラストをイバラード先生に描いてもらわねばならぬ。リクもいいが、こちらは凌辱本でこーすけぽけ先生だな……
正しくはいばらーど先生だった。リサのキャラデザと声が発表された時点で「金髪だしシコそう」と明言していた氏の審美眼は確かである。下肢アングル重点の上に靴を脱いで裸足になるシーンもあり、また声の演技も地に足が着いていて、全体として「女子高生の肉感」に溢れている。
次回予告が始まった瞬間の操刷法師「あれ……なんだろ……おかしいな……わたし、どうして泣いてるんだろう……わたしはこれを、前にもどこアッバーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!アババババババババババーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!!!!!!!!!」
少なくともこの映画で美しく描かれている、「人とポケモンが危ういバランスの上に共存しつつある世界」を目撃しないのは勿体ないことだと思う。これまでのアニポケでは、ポケモンは「野生動物」と「パートナー」に雑に分断されていたが、キミきめ以降はそこに向き合う流れが生まれている。
そう、キミきめ・みんな・来年(アバーッ!)と続く劇場版の革命、アローラの空に開いたウルトラホール、そしてそれらと並走するポケモンGOの潮流は、皆ポケモンというコンテンツの歴史における一つの、そして最大の転回点の各側面であり、まさに「目撃」という言葉が相応しい代物なのだ。
ゼラオラは、体内に自前の発電器官を持たない。このことは「みんなの物語」を考察する上で無視できない制約条件となるだろう。個人的には、自前の発電器官を持っていてくれた方が色々なことがすっきりするのだが……
映画二回目
「劇場版ポケットモンスター みんなの物語」を観てきた(二回目)。前回はレイトショーだったが、今回は昼間の人の多い時間帯を狙った。この映画は大人の辛酸をポケモンという糖衣で覆った物語であるから、子供の反応が気になったのだ。ついでに親世代の反応も。
私の左には男の子の三人組が座り、右には幼い男の子を連れた女性が座った。彼らは、ゼラオラが出れば「ゼラオラだ!」と言い、ポケモンパワーが出れば「ルギアまだ?」と言い、エンディングが流れれば席を立つ、普通の観客である。
映画が終わった後、私の前を歩いていた小学校低学年くらいの女の子が、彼女の妹に向かって「楽しかった?」と訊いた。幼稚園くらいのその妹は答えた。「うん、楽しかった! ……でも、ちょっと寂しかった」
我々はこの感性を真剣に受け止めるべきではないだろうか。「みんなの物語」には、こんなものはネタバレにも何にもならないので言うが、あからさまに「寂しい」シーンなどないのだ。だが、この映画全体を貫く「厳しさ」の片鱗を、推定幼稚園児の彼女は言葉ならぬ体感として感じ取ったのではなかろうか。
サトシがキミきめで「ポケモンは友達」と宣言したことで、ポケモンは人間の便利な道具ではなくなった。ポケモンに技を命じて事足れりとする作劇はできなくなった。それは裏を返せば、人間も自ら動かねばならなくなったということだ。彼女が感じた寂しさとは、「自立」の寂しさなのではないかと思う。
私はここで、旧約聖書の創世記を思い出す。アダムとイブは、知恵と羞恥心と引き換えに楽園を追放される。思うにこれまでのポケモン映画においては、人間は「楽園」にいた。誰かが引き起こす災厄をポケモンに解決してもらえばよかった。だが、「みんなの物語」はそうではない。
「みんなの物語」では、少なくとも名前の出ている人間の登場人物の全てが、起きた出来事に対して責任の一端を負っており(ヒスイは違うが、彼女には彼女の軛があった)、また、その解決にも自らの意志のもとで集った。これは人間がポケモンに対して矜持を示す映画である。
そこでさらに、人間が頑張るのはそもそも何のためか、目の前の状況を処理することさえできればそれでいいのか、違うだろう、我々がルギアに見せたかったものは何だったか、ということを観客とゼラオラに思い出させ、バランスを取る役割を果たしたのがラルゴである。
かつて私が幼い頃に劇場で「ミュウツーの逆襲」を観た時、最初の培養液のシーンで私はひどく怯えたのだが、一緒にいた私の母は「大丈夫、ミュウが助けに来てくれるよ」と言って私を慰めた。今起こっているのは、このようなポケモン観からの脱却なのだ。ポケモンは、「甘えるな」と言っているのだ。
私は先日、「ポケモンは心的過程」と述べ、それが初期のポケモンコンテンツに通底する共通感覚であったと述べた。だが、これは今や揺らいでいるのかもしれない。「みんなの物語」におけるポケモンは、未知なる自然の象徴ではなく、既に人間と同じ社会的位相を持った「市民」の部類であるように見える。
頭に何かを乗せるということは、こちらの世界の多くの文化圏において武力や精神力や超常の力の象徴だった。それはサハスララ・チャクラの表現でもある。ポケモントレーナーの帽子は、彼らが闘争に秀でた者であること、精神(≒ポケモン)の主人であること、そして客人であることを表示する。
ならば、『劇場版ポケットモンスター みんなの物語』(2018)の予告編(https://youtube.com/watch?v=0GxYPIGao2Y…)でサトシの帽子が風に飛ばされたことは、まさしく『キミにきめた!』(2017)でサトシの英雄譚が一度終わり、新たな世代のポケモン映画が始まることを示唆しているのだ。
〈以上〉
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