性癖分析シリーズ3「SM及びリョナの構造」

 私におけるSM趣味の歴史は古く、館淳一『姉と鞭』[1]を読んだ時に初めて嗜癖と既存のジャンル名が噛み合ったことから、公式にはこの時点を端緒とする。小学生の頃からのサイズフェチ嗜癖を含めればさらに古い。そして、その延長としてリョナにも関心がある。リョナとは猟奇オナニーの略だ。

 本来、リョナがSMの延長であることは自明ではない。リョナ愛好者はリョナを他の嗜癖の派生物とみなしたくないかもしれないし、SM実践者が猟奇行為実践者予備軍とみなされることは避けねばならない。しかし両者は確かに共通する欲望たちに支えられてもいる。

 サディズム及びマゾヒズムはフロイトによって精神分析の重要なテーマとして位置付けられ、私が現代の性癖を分析する際にもマゾヒズムの表れとして説明することが多い。私のサディズム・マゾヒズム観は実のところ、リョナやサイズフェチを考えることにより得られたものだと言ってよい。本稿ではさしあたり、一般的にSMプレイやリョナの範疇に含められているシチュエーション群から出発し、必要に応じて原始的な欲動に言及する。


総論:性癖分析の基本姿勢

 性犯罪と性的嗜好の関係を考える際に、「少数の特殊性癖の持ち主の存在を深刻に捉えて規制を強めるより、まず多数派の傾向をもとに考えるべき、多数派はそこまで危険ではない」という主張がなされることがある。しかし私は、「特殊性癖自体も悪ではないし、それを表明することが憚られるという規範も好ましくはない」と主張しておく。人がもっと欲望について語らなければ、欲望は発見されず、分析されず、対処されないままだ。そして欲望の普遍的な性質は、極端な例を分析することによってこそ理解される。それはちょうど、数学者が理論の当てはまる範囲を探るために、敢えて特殊な例を検討するようにだ。

 また、性的嗜好と性表現の関係を考える際に、「欲望を描いた表現を見なければ、そのような欲望が生まれることもない」という主張がなされることがある。これは、自覚された欲望という次元では正しいことがあるが、その背景にあるより抽象的な欲望という次元では正しくないことがある。我々は例えば「SMプレイがしたい」のような次元からもう一歩踏み込んで、「何故、SMプレイなのか」「そのプレイで充足される欲望とは一体何なのか」を探るべきだ。

 性癖は開発するものだとは言うが、ある行為や描写が心のどこかの琴線に触れなければ、それらを見ても単に慣れるだけで、「開発」されることはないはずだ。性癖を知らずとも、琴線はある。それを探るために、欲望は(実行はしない、という但し書き付きだとしても)大いに語られるべきなのだ。

 エロとは描くのも抜くのも発掘調査に似たものであり、「自分は何を望むか」を常に問い続けるのは決して易しい道ではない。特にSMは、掘り進めれば「主体となることの是非」「幸福であることの是非」という巨大な葛藤に行き当たる。その点、黒龍眼『僕の愛したフミカ』[2]は一つの金字塔だ。

 男女間かつ女性上位のSMにおいても、片方が女性である必要はないのではないか、「自分が考えた行為を自分がされてみる」というのが真に欲望されていることではないか、と思うことがある。そうであるなら、(男性上位のSMから)男女を逆転させるのではなく、「BLの片方を女にする」という発想でシーンを作る方が有用ではなかろうか。とはいえ、現に片方を女にする作り方には需要がある。もちろん現実の女性と重ね合わせて妄想する側面もなくはないが、それだけの話でもない。美少女という表現手法は、「顧みられるべき者/重んじられるべき者/愛されるべき者」の記号として機能する、という事情もある。

社会規範の侵犯

 まず、SMの求心力の一つに「タブーを破る快楽」が挙げられることは多い。実際、SMにはそのような側面がある。しかし、SMに限ったことではない。少数派の性癖には全てその側面がある(少数であること自体が人間にタブーを錯覚させるからだ)。暴力という、複数人で行う行為の中では最も分かりやすい禁忌が、SMでは分かりやすく演じられるというだけに過ぎない。

 これについては後述の「虚飾を剥ぎ取ること」の節でより正確に説明する。

役割の明示

 参加者がSとMという役割に明確に分かれることは、SMのタブー破り感を緩和し、「これは本心ではなく演技であるから、嗜虐的・被虐的な欲望を晒け出した咎で自分の人格面での責任を問われるものではない」という言い訳をしやすくする。現代日本では本心を積極的に表出することと男女関係との相性が悪く、性行為を伴わない恋愛の物語の中でも「契約」によって始まるものが増えていることはその表れだと私は考えている。この言い訳がしやすくなることは、実際にSMを行う場合に劣らず、自慰においてSMシチュエーションを想像する際の心理的抵抗を減らすことにも寄与している。

接触への希求

 特殊な行為のハードルを越えることや役割の縛りを通じてしか愛情を実感できない場合とは別に、相手の存在を強く感じるために強い生理的刺激(痛みや接触面積など)を求め、それがたまたまSMプレイのイメージの範疇にあるために被虐嗜好などと混同されている、という場合もあるだろう。

 例えばすぐに思いつくのは――相手の身体を五感で強く感じるために顔面騎乗は合理的だが、それを好むからといって他のSMプレイもしたいとは限らず、言葉責めや射精管理などをセットにされると困る、というようなことだ。圧迫によって相手の存在を強く感じたければ、M側に視点移入しての顔面騎乗や踏みつけなどが具体的なプレイとして挙がるし、汚れや陰部などの「普段表に出ないもの・秘密」を共有してもらえることを求めるならスカトロなどが挙がるだろう。これらは必ずしも痛みを伴わず特殊な器具も必要としないため、いわゆるソフトSMからハードSMにまで幅広く取り入れられる。SMに憧れる者が理由として最も意識しやすいのがこれらだろう。

 SMという大きな括りでは掬い取ることのできない、自分自身のそのような嗜好を把握しておくためには、性表現と自慰によって「自分が何に興奮するか」を日頃から試行錯誤することを私はお勧めする。性癖が各種ジャンルに分かれていることは、大雑把な把握や同好の士探しには有用だが、ある程度まで把握が進むと一般に共有されているジャンル分けの解像度では足りなくなる。より悪い場合は、一般に共有されている程度の解像度までの把握で十分なのだ、という錯覚を生じさせる。

 圧迫及び汚れのフェティシズムについては、以下の記事も参照されたい。

能動性の放棄

 SMに拘束は付き物だが、拘束の本質としては物理的な圧迫の感覚の他に、「自分の意思で動く場合に生じる責任から解放される」ということが挙げられる。動けないという免罪符があり、僅かに許される動作にもその免罪の効果が及ぶため(言い換えれば、「被害者だから仕方ない」)、普段は出さないような大声や暴れ方で抵抗することができるし、作品なら抵抗する描写に説得力が出る。

 このことは性的同意についての議論でも取り沙汰されることがある。性行為(典型的には男女間の性器挿入)を、当事者の被害申告を待つまでもなく危険な行為と捉える立場からは、危険な行為を同意のもとに実践している例として、格闘技と並んでよくSMが持ち出される。しかし、SMと同意との関係が真に厄介なのは、同意がないことこそが興奮と快楽をもたらすからだ。典型的な性行為においてさえもそのような側面がある。

 行為の内容に関する事前の同意と「意外性の興奮」との相剋は悩ましい問題だ。NGサインを決めておいても「NGサインを無視する/されることの興奮」は生じ得るだろう。暴力衝動(嗜虐と被虐の両方を含む)とは本質的に死に向かう欲動であり、それを演じるSMは死へのチキンレースであるから、ルールを定めて守るのは簡単ではない(実践者たちは上手くやってはいるが)。

 なお、この「被害者の免罪符」の要素は、「役割の明示」の節で述べた、演技であるから欲望が人格的に非難されることはない、という点とも通じる。さらにまた、物理的な動作でない言葉責めにもこの側面がある。ひどいことを言われている分、何かが免責されているような感覚が生じる、ということだ。逆に攻めの側は、受けが免責された分から「演技だから本心ではない」を引いた分の責任感を引き受けることになる。「SはサービスのS」というスローガンは、受けのしてほしいことを察することと、受けから失われた行為責任を引き受けることの二重の要求を含んでいる。

拘束を鑑賞すること

 拘束には、当事者として拘束する・拘束されるという以外に、拘束の技前や拘束された身体を芸術として鑑賞するという第三者的な楽しみ方がある。これは必ずしも鑑賞者がS側に立っていることを意味しない。

 縄をかけられた人体には、縛り方による造形美に加えて、外力に呼応して皮膚と肉が発揮する抗力が、「静のなかの動」として感じられる。これはラバースーツやタイツのような密着型衣装の魅力でもあり、また日本刀が持つ美しさにも近い。私はこれらを「暴力性の美」という類型として捉えている。拘束されているものが持つ暴力性が静的に顕れるということだ。

 ただし、私は今のところ、縄より金属製の拘束具の方を好んでいる。これは、私が拘束された身体の美よりも能動性の放棄の方を個人的に重視しているからだろう。例えば手錠は身体に密着しないが、それは私にとってあまり重要ではない。

虚飾を剥ぎ取ること

S

 私はジャンルとしてはリョナよりもハードSMを好むが、それはプレイ(愛がある・死なない)であってほしいという意味ではない。「相手の余裕を失った姿が見たい」という意味ではSMもリョナも全く連続的なものだ。プレイの範疇に収められるものがSMと呼ばれるに過ぎない。私がリョナを好まない理由には、①死んだ/損傷を受け入れた人間は騒がない、②持続可能でない、の二つがある。

 ①は簡単だ。余裕(理性による虚飾)がなくなった姿を見たいのであれば、死体や四肢欠損の美学などというものは眼中になくなる。四肢欠損の形自体の美しさではなく、欠損した者の反応を見ることの方が私にとっては優先される。例えば、手足を切られた後にその喪失感にショックを受けたり、手足があるものと思って動こうとして欠損を思い出して落ち込んだり、といったことだ。

 ②も難しくはない。刃物は鋭利過ぎるのだ。出血というカタルシスを、溜めも焦らしもなく与えてしまう。リョナがその本領を発揮した時には、既にヒロインには泣き叫ぶ気力が残っていない事も多い。反応を観察する時間が短くなってしまう。これは描写の技術ではなく行為自体に起因する制約だ。このような性質は、「ヒロインの“いつもと違う表情”をもっとたくさん見たい」という私の嗜好にとっては都合の悪いものだ。串刺しや内臓引き出しにもあまり関心がない。

 

 さて、「相手の余裕を失った姿が見たい」という欲望は、より抽象化した形で、「虚飾を剥がしてみたい」あるいは「世界の秩序の破れを見たい」と表現することもできる。私はこれこそがSMの根底にある欲望であり、そればかりか、全ての欲望と興奮の根底に共通しているものだと考えている。

 出血を伴わないプレイについても、同様にこの快楽がある。鞭や蠟燭のように痛みを伴うものも、あるいは射精管理のように欲求不満によって余裕を失わせるものも、相手が社会的要請によって取り繕っているものを剥がすことを通じて、自分にも浸透している社会的要請を一時的にであれ無効化したい、という欲望に支えられている。これを「タブー破りの快楽」「するなと言われるほどしたくなる」と呼んでも誤りではないが、社会的なタブーに限定されないありとあらゆる秩序からの逸脱という広い枠組みで捉えてから、その一部として社会規範の侵犯があるとした方が普遍性の高い説明になるだろう。

 シチュエーションではない、漫画などに見られる静画の記号表現にも、やはり虚飾を剥ぎ取ること・秩序を逸脱することの快楽に駆動されているものがある。例えばアヘ顔がそうだ。SMで「余裕のなくなった様子が見たい」というときでも、結局その様子は顔に最も強く表れるのだから、アヘ顔はその典型例の一つと言える。特に漫画やイラストなどの視覚記号を用いたメディアでは、現実よりも遥かに極端な表情を表現できる。

M

 性表現規制の文脈で、「ヒロインに暴力を振るう作品は規制されるが、女性上位のマゾ向け作品は規制されない」という言説が時々ある。これは確かに実態としてはそうだが、現生人類がサドマゾヒズムを正確に理解していないという不名誉な状況に依存したものでもある。サディズムの暴力性は分かりやすいが、マゾヒズムもそれに劣らず暴力性の発露である。

 受けの立場にも当然、自分が立っている世界秩序(国際社会の秩序ではなく、一人一人が見ている世界の規則正しさ)を揺るがすことの快楽がある。自分自身の命や精神の安定こそ、秩序の最たるものだからだ。一般にマゾ向けと銘打たれていない男性上位のSMやリョナにも、M側・リョナられる側に視点移入する読み方によって、マゾヒスト寄りを自認する男性からの需要が常に一定数ある。世界秩序を揺るがすこと、理不尽を体現すること、「この虚飾を剥いでみよう」という反抗的好奇心に支えられていることにかけては、サディズムとマゾヒズムは同じものであり、二次的な要因(攻撃性の向く先が自分か外界か)が両者の微妙な差を生むに過ぎない。

 同様に、被虐願望の中にサディズムを見出すこともできる。40原『嫌な顔されながらおパンツ見せてもらいたい』シリーズのコンセプトに顕著であるが、相手に言葉責めや拒絶をされるシチュエーションにおいては、「相手の本心が見たい、自分にしか見せない表情を見たい」という願望が、行為の見かけによってマゾやドMという言葉で表現されているのだ。他に、例えばヤンデレにもこの側面がある。


 エロティシズムが秩序侵犯の欲望である以上、必ずその範疇の中に死への欲望も含まれる。「エロは死の覗き窓」と私は呼んでいる。他者への没入、忘我の絶頂、子孫を残すこと、全て死の覗き窓だ。「死を見るぞ」ないし「この道は死へ続く道」という気分でエロを漁れば、大抵のジャンルには動揺しなくなる。SMもリョナもスカトロも、この軸から眺めればむしろ順当な前進とすら言える。

 死について述べたついでに、「一見欲望に反することへの欲望」という点で、射精管理についても今一度述べておくべきだろう。男性は射精さえできればいい生き物だと考えている者(男女共にいる)には理解し難い性癖に違いないが、射精管理には欲望の不条理が非常に鮮明に表れている。射精管理されることの快楽を、私は「(欲求不満と、身体の感度が上がることによって)自分の心身の制御を手放すこと」「(支配権を握られることによって)相手との間の境界を解除すること」「それらが日常生活の空間でも維持されること」にあると見るが、前二者はいずれも自分自身を形作る秩序を失うことに属する。快楽を得ないことによる苦痛が自分に及ぼす影響への期待が、別の快楽の源となる。それが元の快楽を上回るかどうかは二次的な問題に過ぎない。射精管理は、恐らくNTRと地続きの系として、別に稿を立てて論じたいと考えている。


 没入感の得られるメディアである催眠音声の中にさえ、鞭で打たれたり拘束されて感電させられたりする作品は既にある[4][5]。これは「ポルノグラフィには、受けの様子を見て楽しむサディスティックな消費の仕方だけしかない」という批判への強力な反証だ。

 また一例として、VRで斬首を体験して実際に心身に不調が出たという記録もある。体験者やそれを取材した記事ではVR斬首を勧めていないが、まず四肢切断のようなところからVR被リョナの可能性を開拓することには私は関心がある。ギロチンの場合はアングルや音が「決定的瞬間」を強化したために影響が強く出たのであろうから、異空間転送というシチュエーションにすれば切断よりマイルドになるだろう。とにかく「手足が見えず、動かせず、感覚もない」という状態を作れればよい。

 しかし、リョナは本質的に「取り返しのつかなさ」を楽しむジャンルであるため、「痛みも後遺症もないリョナ体験」というものはそもそも無意味だとも思う。本質は自分や他人の手足を切ることにあるのではなく、「一線を越えてしまった」「まともな人間の道から外れてしまった」「もう失うものは何もない」という、秩序からの脱出、根源的な自由の肌感覚を求めるところにこそある。それに最も近付ける具体的な行為が、今の我々の知る限りではリョナだというだけの話だ。


 ともあれSMとリョナにおいては、性衝動の根底を成している死と溶融の原理を、かなり明確に感じることができる。即ち、性器や挿入だけがエロなのではないということを。人間は最初から、自分と、自分を一部としている世界とを無に帰することを夢見て生まれてくるのであり、全ての性感はこの無からやってくる。

 そして、非同意やSMを含む広い括りとしての嗜虐モノは、自分が立っている世界の秩序を掘り崩すという意味でマゾヒズムだ。全てのサディズム、全ての身体的・情緒的快楽がマゾヒズムであるということ。

 なぜ人間にこのような欲望があるのかはまだ分かっていない。私は進化論的な説明を好まないが、どこかでは頼らなければならないだろうと思う。「恐怖を感じた時に自己保存の本能で興奮が起こる」という通俗的な説明も、完全に間違ってはいないのだろう。しかし私は、元々生殖とは独立にあった扁桃体の機能を、後から生殖に利用し始めたに過ぎないのではないか、とも思うことがある。そう思うようになったのは、蓮コラをはじめとするグロ画像を見た時の感覚が、性感とよく似ていると気付いた時からだ。

 精神分析風の言葉で言えば、秩序侵犯の欲望はタナトスないしデストルドーと呼べるだろう。だが、エロスとタナトス(リビドーとデストルドー)の目指す先に違いはない。どちらもナマの現実界を目指すという点では同じだが、エロスは最も迂遠な道を行き、タナトスは最も短絡的な道を行く、と私は理解している(映画『ペンギン・ハイウェイ』はこのことを巧みに表現していた)。社会秩序の象徴である顔を歪ませる行為への欲望は、自分を支える世界の秩序に擬似的に穴を開けるものとして、とりあえずはタナトスに属すると言える。

雑感

男性嫌悪

 館淳一『先生の淫笑』[6]とディビ『あなたが甘くねだるまで』[7]は、同じ女性上位SMモノではあっても、背景にある欲望は大きく異なる。『先生の淫笑』のヒロインたちは露骨な女尊男卑の価値観で動いているが(その設定の説明に紙幅を割き過ぎてプレイが薄くなっている。同著者の同系統の作品なら筆者は『女神のストッキング』を薦める)、『あなたが甘くねだるまで』ではあくまで合意のもと、社会生活を破壊しないまま、互いへの信頼と敬意の上に成り立つプレイが描かれる。

『あなたが甘くねだるまで』は全年齢で出ており、現代に必要な作品だと私は思う。そこでは、ミサンドリーは女性キャラクターによって担われるのではなく男性キャラクター自身によって内面化され、美少女はむしろそれ(男性によるミサンドリーの内面化)を否定せず受け止めてから時間をかけて癒す役割を担っている。あるいは現代のVRを含む美少女キャラクター文化全体が、そのような機能を担いつつある。

電流責め

 電流責めについては別に稿を立てるべきかもしれないが、備忘録として今考えることを書いておく。

 人間の感覚や運動指令は神経の伝える電気信号であることを誰もが知っており、その電気を直接流すことは皮膚のようなインターフェースを介さないハック行為のようにみなされる(この点で、ヘッドギアや脳寄生生物による洗脳にも似ている)。それはつまり、受けの抵抗力を無視でき、虚飾を剥ぎ取る効果がより高いということだ。この直接性と、もう一つ挙げるならデジタルに数字を調整できることの利便性が、電流責めの効用だと私は考えている。

 電流責めの神髄というのは、一回目に適当に電流を流して訳も分からないまま激痛に絶叫させた後で、スイッチにこれ見よがしに指をかけて二回目を流すぞ流すぞと脅している最中にあるのだと思う。三回目からはもう電圧を単調に上げて苦しんで死んでいくのを眺めるくらいしかない気さえする。ケチャップ味のマヨネーズという音声サークルに電気椅子作品があるが、ストーリー性はなく、ただ悲鳴のみが収録されている[8]。しかしその悲鳴の演技は声優の喉が心配になるほど良い。

 電気椅子モノにも微妙な方向性の違いがあり、例えば(手足に加えて)頭にも電極を着けるかどうかはその一つだ。頭に電極を着ければ「苦痛/害意の媒体として電気を使う」方向の記号になり、着けなければ「快楽/探求心の媒体として電気を使う」方向の記号になる、と私は見ている。

 電流責めというシチュエーションを、「残虐な暴力衝動」という思考停止ワードで一括りにするのではなく、「数字を増やすことの快感」+「人体の内側を覗き見ることへの欲求」+「神経を直接刺激することへの好奇心」+……といった要素に分解できると考えること。理性の行使はそこから始まる。

「逆リョナ」という言葉

 女性キャラから男性キャラに行う猟奇行為を指して、「逆リョナ」という言葉が時々見られる。本来、「リョナ」は性別非対称な概念であるべきではないはずだ。「逆レイプ」なら確かに、順と逆があることに現実の性行動の傾向を結びつけることもできなくはない。しかし、「逆リョナ」はどうだろうか。ここでは何に向きがあるとされているのか。リョなのか。そうではなく、実は「ナ」の方なのではないか。男が女に対してやるのが順だと思われているのは。つまりここには、「女性は性的快楽を求めることはない」という思い込みが働いているのではないか。確かに現状では、大学生のうち自慰をしたことのある割合は男子92.2%に対して女子36.8%に留まるが[9]、その状況が今後も続くべきだとは私は考えない。


[1] 館淳一『姉と鞭』、幻冬舎、2004
[2] 黒龍眼『僕の愛したフミカ』、『支配されてみる?』所収、茜新社、2019
[3] 御免なさい『あの娘は都市伝説。』、御免なさい、2013
[4] Yanh『ヴァーチャルSM催眠』、Hypnotic Yanh、2012(URL省略)
[5] Yanh『ヴァーチャル電気拷問催眠』、Hypnotic Yanh、2013(URL省略)
[6] 館淳一『先生の淫笑』、二見書房、2018
[7] ディビ『あなたが甘くねだるまで1』、白泉社、2021
[8] 『電気椅子』、ケチャップ味のマヨネーズ、2016(URL省略)
[9] 一般財団法人日本児童教育振興財団内日本性教育協会『「若者の性」白書―第8回 青少年の性行動全国調査報告―』、小学館、2019

〈以上〉

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