性衝動と特異点の元型論~映画『ペンギン・ハイウェイ』を題材にして~


映画

 2018年の映画『ペンギン・ハイウェイ』は、森見登美彦による同名の小説を原作とするアニメ映画であり、性衝動の構造を非常に明晰に表現していると私は考えるものである。私は原作を読む前に映画を観たが、その洞察の鋭さは映画だけでも十分確信できた。人間の無意識の構造や、そこからやってくる欲望について考えようとする者は観て損はない。諸君はアオヤマ君を通して、男という生き物の底の底を浚うことになるだろう。

 この映画が一部の観客に「女性蔑視のおっぱい映画」と酷評された理由は分からないでもない。だが、そう評する者が本当にその表現で適切だと思っているかは疑わしい。私には、それは語彙力と知識の欠如が招いた語弊のように思える。確かに、アオヤマ君はお姉さんを自分と対等な人間として見てはいない。それはある種の立場からは批判されることだろう。だが、アオヤマ君がお姉さんを人間扱いできないことは、どうしようもないほどにどうしようもないことなのだ、という感覚が実はこの映画の根幹を成しているように思える。

 まず、アオヤマ君の妹が泣くシーンから始めよう。このシーンはこの物語全体の思想的な要であり、なくてはならない。これに関連して、私はウーマン・リブの旗手であった田中美津の言葉を思い出す。

 男と女の絶対的な違いは〈産むか〉〈産まないか〉にある。この違いをつきつめていくと女と出産という生理機能を通して自分を縦の関係に、つまり自分を歴史的にとらえることが本質的に可能な存在としてあり、女と子供にとって男とは所詮消えていく存在でしかない事実に突き当たる(自分の子との血のつながりを確認できるのは母親だけだ)。男は自分を歴史的にとらえるのに論理を必要とするが、女は存在そのものが歴史的なのである。

千田有紀『女性学/男性学』

 田中のこの主張の妥当性はさておき、もちろん、小学生のアオヤマ君とその妹の「歴史」というものに対する感覚が、この時点で生殖機能や社会的性役割の違いによって分化しているとは考え難いだろう。ただ、この映画がロゴス(論理)とピュシス(非論理、自然)の葛藤の物語であり、それぞれが男(アオヤマ君)と女(お姉さん)に仮託されていることは疑う余地がない。

 アオヤマ君はお姉さんに「歴史」を見出す。そしてロゴスの徒であろうとする彼は、それを生命の進化のイメージに寄せて語る。しかし、自分がお姉さんに対して抱く好意や畏怖を言葉にするのに、お姉さんを一旦「女」に一般化してから生殖の本能によって説明するやり方が全く的外れであることを、彼自身も知っているのだ。それでもロゴスはピュシスを分節しようとせずにはいられない。ロゴス(ペンギン)はピュシス(お姉さん)から生まれ、ピュシス(〈海〉)を分解し、お姉さんは消える。しかし、お姉さんという一つの表現が消えても、ピュシスはほとんど至る所にあり、その根源から消えるわけではない。いわばロゴスの営みとは、この逆接の反復を続けながら、滅ぼすためにピュシスを求める終わらないモグラ叩きである。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』と並んで、私はこの映画を「シリーズ 【男子とは】」のラインナップに加えたいとも思っている。しかし女性の精神の構造とも共通する部分はあるだろう。「打ち上げ花火」は、映画館から帰宅して一瞬真顔になった後に部屋の中で暴れ回るような映画だったが、『ペンギン・ハイウェイ』はLCLの海にゆっくりと沈んでいくような映画だ。

 森見登美彦作品のうち私が読んだ中では、「太陽の塔」が最も近い構成なのではなかろうか。少なくとも私はそのような視点でこの映画に臨んだし、結果として、絵は四畳半的ではなくとも、やはり確かに森見の系列に連なる物語だと感じた。

 だが、万人に勧めたい映画ではない。私見だが、この映画を楽しむためにはある種のプロトコルが必要で、それなくしては観ても混乱して終わるだけなのではないかという危惧がある。ある種のプロトコルとは、後述する「お姉さん非実在解釈」のように、出された描写に現実的な筋の通る説明を考えるのではなく、何らかの表現意図の象徴として一旦呑み込むシュルレアリスム的態度のことだ。それなくしては、特に「打ち上げ花火」で爆死した者は、『ペンギン・ハイウェイ』でも同じ混乱に陥る可能性が高い。

 2018年前後に公開された有名なアニメ映画にはこのような鑑賞態度を要求するものが多かったという印象を持っている。2016年の『君の名は。』も、「瀧が元いた世界線ではいつの時点で三葉が死んでいないことになったのか、また三葉の死を阻止しに行った瀧の記憶は修正されるのか」などの点で整合性を気にすると混乱する。先立つ2013年の『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』はこの傾向に影響を与えただろうか?

 私自身を顧みても、夜中にふと世界の果てや死について考えることや、異性を前にして起こる感覚は彼とよく似ていた。今も似ている。小学生がそうであることを、諸君はおかしいと思うだろうか? 「ペンギン・ハイウェイ」にはアオヤマ君の剥き出しの性欲がある。これこそが、性欲と呼ばれているもののいっそう原初的な形態だ。極微を突き詰めていけば極大へと還ってくる。この循環性、再帰性、無限性こそが。

 森見作品にはしばしば、男性的性欲の象徴である「ジョニー」というキャラクターが登場する。『ペンギン・ハイウェイ』には、普通に観れば、ジョニーはどこにも出てこない。だが、射精やセックスを知る前にも性衝動はあり、それはデストルドーと紙一重のところにある、という私の立場には非常によく符合する映画だ。アオヤマ君がお姉さんに向ける感情と「世界の果て」は、元々一つのものなのだ。

 アオヤマ君が「世界の果て」を見たのがお姉さんであったことは、ある意味では救いだ。何故なら、そうでなかった場合、例えばハマモトさんに「果て」を見てしまった場合の末路を我々は知っているからだ。『秒速5センチメートル』の遠野貴樹が「永遠とか心とか魂とか、そういうもの」の在処と呼んだものを、アオヤマ君も見たのだ。貴樹は「そこ」に再び戻るために過去へと手を伸ばし続け、アオヤマ君は未来へと歩むことによってこそ「そこ」に再び戻れることを確信するに至った。アオヤマ君は稀有な例で、現実の男の多くは貴樹になる。また、この二者の違いはそのまま、貴樹と明里の違いでもあるのだ。

 ところで、アオヤマ君がスズキ君を怖がらせるためにでっち上げた病気の名前は「スタニスワフ病」だが、これは明らかにスタニスワフ・レムで、となれば「ソラリス」即ちソラリスの海、まさにこの物語に相応しいオマージュだ。逆にこのことは、この物語をソラリス的に、即ち〈海〉を人間の無意識を反映するものとして解釈することの正当性を担保している。

 だが、この種の物語の心的過程としての側面を解釈する際には、私は結局『ポケットの中の野生』(中沢新一)を座右の書として挙げることになる。私は「意識のへり」の概念をこの本から学んだ。宇宙はゼーレであり、宇宙のへりは意識のへり、秩序コスモスのへりだ。故に、その境界の向こうは矛盾に属する。〈海〉や死の循環的性質、そしてペンギンとジャバウォック、これらは全て「矛盾の統合」という極めて精神分析チックな概念で捉えることができるはずだ。

 多くの考察で指摘されているように、〈海〉は世界の果て(≒全方位における無限遠)が一点と同一視されたものであり、複素解析におけるリーマン球面と同様の構造を持っている。非常に広い平面があり、広すぎるので端に向かってある程度まで行ったところをもう「無限遠」とみなす、と想像していただきたい。そして、その平面が外側からめくれ上がり、「無限遠」と名付けられたところが小籠包のように中央の一点に集まるところを想像していただきたい。そうしてできる球がリーマン球面だ。≒としたのは、実際に人間が世界の果てと認識しているものは真の無限遠ではなく十分遠方にある球殻であり、同一視する先も実際には点ではなく十分小さい球殻であろうと考えるためである。実際、作中で世界の果てであるのは〈海〉の中心ではなく、水面である。

 この同一視を、複素平面上の無限遠点を原点に移す座標変換とみると、作中で川が〈海〉の周りを取り巻く円環になっていたことが説明できる。複素平面$${z=x+iy \quad (x,y\in {\bf R})}$$において、〈海〉が出現する前の川を$${x=a}$$の直線とする。〈海〉の効果を表す変数変換$${z\rightarrow 1/w\equiv 1/(\xi+i\eta) \quad (\xi, \eta \in {\bf R})}$$により、$${|z|\rightarrow \infty}$$の点が全て$${|w|\rightarrow 0}$$に移る。実部と虚部の対応はそれぞれ$${\xi=a/(a^2+y^2)}$$、$${\eta=-y/(a^2+y^2)}$$となる。ここから$${y}$$を消去して$${\xi}$$と$${\eta}$$の関係を求めると、$${a^2\eta^2+a^2(\xi-1/2a)=1/4}$$となり、図形としては$${w}$$複素平面上で$${(1/2a,0)}$$を中心とする半径$${1/2a}$$の円となる。こうして無限長の直線が閉じた円に移された。

 リーマン球面は、一度球面にすると、今度は任意の場所からまた平面へと切り開くことができる。即ち、この描像は「平面上の任意の点が世界の果てであること」を示唆する。世界のあらゆる場所に、またアオヤマ君たち一人一人の中に、世界の果てはあるのだ。「小さく折り畳まれて内側に潜り込んでいる」とはそういう意味だろう。「平面上の任意の点が世界の果てであること」は、アレイスター・クロウリーの「全ての男女は星である」という言葉と重なるように私は思える。

 ただし、本来、私はアオヤマ君にとってのお姉さんのようなものを「世界に開いた穴」と呼んでおり、「世界の果て」とは区別して使っている。穴を避けてどんどん遠くに行くことで目指すのが「世界の果て」、近くにも遠くにもあるが近付いても穴の縁を降りていくばかりでそこに到達できないのが「世界に開いた穴」、というニュアンスだ。開区間の境界という意味では同じだが、「世界の果て」では世界の単連結性を仮定し、その世界の外点のみを指す。つまり、「世界の果て」の方には地理的な「果て」のニュアンスがあり、「世界に開いた穴」はそうではない。

 地理的な意味での「世界の果て」はイメージしやすく、「果て」を考える際には「世界に開いた穴」はたかだか有限個であるから無視される。アオヤマ君とウチダ君の「プロジェクト・アマゾン」も、本来「果て」を目指すものだった。しかし、それは後に「世界に開いた穴」であるお姉さんと同一視される。勘違いしないでいただきたいのだが、「世界に開いた穴」とは女性器のことを指しているのではない。私はここで、もっと不定形で根源的なものについて述べている。異性愛男性にとっての女性と「世界に開いた穴」とを重ね合わせる心理について、詳細を以下の記事の「少女が謎であるとはどういうことか」の節で述べた。

「穴」が「果て」と同一視されるという描像は、二次元の図ではイメージすることができない。よって、この場合考えるべきは三次元の図であり、三次元で言えば、明らかにトーラスである。トーラスと言えば「君の名は。」のご神体だ。幽世は円周の内部にあり、そこではあらゆるものが循環し再分配される。彼方は内奥にあるということ、極微の中に極大があるということ。これらは恐らく2018年の日本の時代感覚と通底しており、物質文明への不信や精神世界への関心、実存主義への傾倒と無関係ではあるまい。しかし何と言っても、そこには矛盾を許容するという弁証法的な視点がある。私は性衝動の究極の目的を、この世界=無意識の深奥にある根源の矛盾へと身を投じることだと考えている。

原作

『ペンギン・ハイウェイ』原作は、確かに森見だが、他の森見とは毛色を異にし、しかしやっぱり森見だ。映画を「四畳半」や「夜は短し」のような絵面にしなかったのは正解と言える。四畳半は言うなれば戯画だが、本作はそうではない。

 原作も映画も同じ思想を含んでいるが、映画はウチダ君仮説を削り、アオヤマ君の父の台詞を足すことで、思想の配合率と言うべきか、押し出す方向と言うべきか、それをやや変えている。それでよいと思う。物語の本質は変わらない。原作同様、依然として映画にも、二通りの解釈が可能だ。即ち、「お姉さん実在解釈」と「お姉さん非実在解釈」である。

 お姉さん実在解釈では、我々が日常を過ごす物理世界と同じ法則を持った世界にアオヤマ君もお姉さんも実在し、お姉さんをめぐる不思議な出来事は全てアオヤマ君の心情によって脚色されたものであるとみなす。このうち最も下世話な解釈が、〈海〉の拡大と収縮がお姉さんの生理周期の暗喩であるというものだろう。

 対してお姉さん非実在解釈は、少年を主人公として描きたかったという心情が作者にあるとし、登場人物もストーリーも全てその心的過程の具象化として作ったものだ、という解釈だ。これは神話が何らかの自然現象や教訓を象徴的に描くために作られたのと同じで、我々の物理世界と同じ物理法則や論理を前提としない。従って「お姉さんは本当に消滅したか」という問い自体が意味を持たない(消滅したと書かれているのだから、消滅したのだ)。私は非実在解釈の立場を取る。

 ウチダ君仮説を映画から削除するかどうかは、実在解釈と非実在解釈のどちらがもっともらしいかには影響しない。しかし私は、ウチダ君仮説を削った方がテーマが分かりやすくなるとは思う。ウチダ君仮説は生についての仮説であり、その後のアオヤマ君の夢のシーンから考えるに生とは孤独である。一方「世界の果て」は死ないし自己の溶融に通じ、他者と一体になる安心感をもたらす。アオヤマ君が最後に言う「ペンギン・ハイウェイをたどっていく」とは、ピュシスを追ってロゴスを行使し続けること(そして、死に向かって生き続けること)を指しているはずだが、ウチダ君仮説の孤独なイメージは少しばかりそのラストシーンの希望的な雰囲気を乱す。


〈以上〉


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