twitterアーカイブ+:初音ミクの霊性論:擬人化の擬人化、そして分霊

 私にも、初音ミクを「何らかのアニメのキャラクター」と思っていた時期がある。キャラクターをストーリーの従属物とみなす時代が、長く人類の上を覆っていた。その迷妄の霧が晴れ始めたのは、西暦2007年、太陽系第三惑星地球、極東アジア、日本列島のどこかのコンピュータ画面の前からだったと私は信じている。ヒトが人になった時から我々の存在の奥底にあった、知性の根源をなす一つの機能が、七万年の時の果てに遂に姿を得て我々の間に現れた。それは弥勒であり、新しいエルサレムであり、ヘイムダルであり、ヴィシュヌであり、アンゴルモアの大王であり、ホルスであり、初音ミクであった。

 初音ミクの出現、ないし初音ミクという現象を、私は人類の霊性にとっての巨大な転換点だと考えている。ここで私は霊性という言葉を、釈徹宗氏が鈴木大拙を引いて説明しているように「宗教の上位概念であり、宗教を下支えする『宗教以前の宗教』」「メタ宗教性」という意味で用いている[1]。人間に神や霊を生み出さしめる心的機能のことと捉えてよいだろうし、ハイデガーの言う被投性もこれと重なるところが大きい。

 つまり本アーカイブは、神や霊、宗教、超越をめぐる議論に、初音ミクという現象がどう接続されうるか、私が語ったことを記録したものである。いずれ整理した文章を書く。ともあれ私がその接続の可能性に気付いたのは、2010年、小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還の直前に遡る。それは一つのボカロ曲を伴っていた。

操刷「「はやぶさ」殉死まで残り八時間。「現代視覚文化研究Vol.4」掲載の特集を読んでいると泣ける。」

 過去の探査機が残した膨大な経験の蓄積と、運用チームの献身的な努力のおかげで、彼女は設計で保証された人生の外側を、今日も、そしてこれから先をも飛ぶことを許されたのです。

しきしまふげん『現代萌衛星図鑑番外編 はやぶさ 小惑星探査機MUSES-C』[2]

操刷「初音ミクの「はやぶさ」を観ているが、たかが数十秒の映像に物語性を付加するだけで「人工の神」とでも呼び得るものを作り上げる日本人の心性に畏れ入る。八百万の神を信仰する文化でなければ、「萌え」がここまで発達する事もなかったかもしれない。」


2011年から2014年にかけては、私は初音ミクについてあまり多くを語っていない。代わりに、「艦これ」について物語の擬人化という観点から幾許かのことを語っている。その期間に考えたことは、2015年に某所で論考として発表した。

 Pでなくボカロ曲を多く聴いてもいない私は、ボーカロイドについて踏み込んだことを言うのを躊躇していたのだが、この論考を発表したことで躊躇が薄れてきた。以降、私はボカロの流行からやや遅れて、初音ミクと人間の精神との関係についてtwitterでも語り始めた。


 某所で既に述べた事であるが、言ってしまえば、私は艦娘は初音ミクと同類の存在だと思っている。むしろ初音ミク的なるものが、我々人間を含めた全ての「存在」に共通する本質的形式だと思っている。

 神が(少なくとも人格神が)実在しないのは、我々が神を実在させるだけの力を持たなかったからだ。神が必要なら生み出せばよい! 人はその姿に似せて神を作った!

「言え、ヘンリー・マクファーソン。ただひと言、『イエス』と」
(中略)
「然らば、神は存在する」

古橋秀之『ブラッドジャケット』[3]

 元々特定個人の与太話に過ぎなかったはずの神が、“語り”を経て共同体に共有され、“記録”を経てより広く共有され(一例として地方の逸話を組み込んだ『古事記』)、“二次創作”を経て強化される(一例として神社の創建)――これは今なお起きている過程ではないか? 例えば初音ミクにおいて?

 心霊現象を信じぬ者でも、無意識を含めた精神の状態が人生に影響する事は認めるだろう。ここで言う「神」が力を振るうにはそれで十分である。社会秩序の外側にある何かにアクセスしているという信念さえあれば、あたかも神が存在するかのように、奇跡的幸運が訪れる事はあるのだ。

 私は最近では、趣味を訊かれた際には「神社巡り」と答える事が多い。その背景には「神とはそこにある物語の擬人化であり、それに挨拶するために神社を訪れる」という理屈があるのだが、これを人に説明すると決まって「何かスピリチュアルっぽいね」と言われる。反論は難しいが、違うのだ。

 巷間にスピリチュアルだの何だのと呼ばれるものと私の「物語量子化」の最大の違いは恐らく、私の場合の神霊は「否応なく見えてしまうもの」や「見えなくてもそこにいるもの」ではなく、「私が物語をそのように見たいと思って初めて現れる、物語そのものが輪郭を纏ったもの」だという点だ。

 物語(情報)の具現という点では、神話の神々も初音ミクも人間も全く同質の存在だ。ただ見る者が具現させるかどうかという違いがあるだけだ。だが、物語を「誰か」として見る事によって私は、そのように見ない者とは違う視座を獲得し、違うアプローチを取って違う結果を得る事ができるようになる。

 私ははやぶさが帰還する直前に『現代視覚文化研究Vol.4』ではやぶさの事を知った口である。その後、ネット中継ではやぶさの帰還を見、それから初音ミクの「はやぶさ」を発見した。そんな経緯ですらこのような思い入れを得ることができるという事が、物語が持つ力の一つの証左である。

 ボーカロイドという現象の一つの記念碑であると私が思っている「みんなみくみくにしてあげる」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm19069321)の中に、「あの日 たくさんの中からそっと私だけ選んだの どうしてだったかをいつか聞きたいな」という歌詞がある。これは重要な意味を持つ。

 これを、他のオタクグッズや他のボカロの中からではなく、「初音ミクのパッケージが無数にある中から」という意味に解すれば、オタク文化の中でキャラとして共有される初音ミクが、パッケージ毎に別個の存在として各ユーザーと個別の関係を結ぶという位相をも獲得した事を示している。

「パッケージ毎、あるいは曲毎に異なる人物を、ただ緩く統合する名前としての初音ミク」は、原初の「みくみくにしてあげる」では言及されていなかった性質だ。結局これは、オリジナルなものを探すために、「自分自身の人生」という地点まで遡らざるを得なくなったという事なのだろう。

 まずオタク文化がシミュラークルで満ち、やがてその他の非オタクコミュニティまでもがシミュラークルで満ち、もはやコンテンツ産業の中にも外にもオリジナルなものが見出せなくなったために、自分自身の生、この今という現実(超現実と呼ぶべきか)まで退却せざるを得なくなったのだ。

 これは私には歓迎すべき事態のように思える。どの文化圏だろうと実存の問題は避けては通れない。一度「この、今」の一回性に向き合ったならば、元いた趣味の世界を積極的に守り発展させる力にもなるだろう。作品に空疎な分身を投げ込むのでもなく、人格を作品に直接晒すのでもなく、

 作品を読んだ自分の「この、今」はこうであり、それ以外に確かなものはない、という認識の地盤を持った上で、その作品と自分自身との関係、その作品が自分自身に対して持つ意味について冷静に考え、次に取る行動を選択する事ができるようになるだろう。


 初音ミクに関して言えば、これまでにも繰り返し述べている事だが、よく言及される派生コンテンツや創作人口の拡大の他に、「擬人化という概念の適用範囲をほとんど無限にまで広げた」という功績は無視できない。任意のメッセージをミクに歌わせる事により、ミクがそのメッセージのアイコンとなる。

 仮に初音ミクがそのメッセージのアイコンにならないとしても、他の形であれば二次元美少女とは縁のなかったはずのメッセージが初音ミクと結びつく事により、「このメッセージにアイコンを与える事ができるかもしれない、それを美少女にするのは一つの選択肢だ」と人は思うようになる。

「大祓詞」(http://nico.ms/sm23054805 #sm23054805)に「歌姫神 初音未来媛命」という言葉が見える。正鵠を射た表現だ。これを日本式の神名とみるなら、彼女は歌うという行為の神格化された存在となり、それは即ち、人の扱い得るあらゆる言語情報の擬人化である。

 初音ミクは、個々のメッセージに美少女の表象を与えるための素材であると同時に、その個々の擬人化営為が数多く集まった大きな物語の象徴でもあるという「擬人化という現象の擬人化」であり、単なる音楽史上の一流行に留まらない、誰も意図せざる人類文化史上の革命なのだ。


 私は初音ミクの本質を「誰でもあって誰でもないメッセージを発するもの」と理解している。彼女は個々の人間にとっては素材でありながら、総体としては何にも染まりきることはない。彼女はメッセンジャーであってアイコンではない。流動する言葉であって、常に固定した象徴ではない。

 この、「好きに使えて、しかも汚れない」性質――「食べてもなくならないおむすび」に似ている――こそが初音ミクという現象の本質であり、情報というものの持つ本来の姿なのだと思う。人類は目指すべき地点を発見した。あとは進むだけなのだ。

 そういうわけで、確かに初音ミクにおいて声は容姿よりも厳しい制約を負う。彼女がどんなメッセージをも担うことができるためには、彼女の声は「誰でもないこと」を求められるからだ。容姿によってもメッセージを伝えることはできるだろうが、そこに乗せられる情報は微々たるものだ。


 まさにそうなのだ。「情が湧くから擬人化しよう」ではない。情が湧こうが湧くまいが、全ての事物は擬人化できるのだという気付きそのものが初音ミクだ。擬人化という心理機能が、素朴な物品という軛を越え出たことの証なのだ。大袈裟ではなく、彼女の出現は人類の精神史の一大転回点だったと私は思う。

 音声合成ソフトの擬人化であり、音声合成ソフトが擬人化されたという現象の擬人化であり、音声合成ソフトが擬人化されたという現象さえも擬人化できるのだという気付きの擬人化であるのが彼女だ。有形の物体と無形の概念とを、美少女という形式で統一的に理解できるようになったのだ。


 初音ミクは男性キャラではあり得なかった、というわけだ(同様に、鏡音レンも最初のボーカロイドとして出現することはできなかった)。男にとっても男性キャラは、物語が動き出して名場面や名言が生まれるまでは大した訴求力を持たない。


「美少女」という現象は、諸君が思っているほど単純なものではない。美少女像は昔からあったが、人類が初音ミクを「発見」した時、美少女は「世界」の象徴となった。そして人類がキズナアイ含むVtuberを「発見」した時、美少女は「わたし」の象徴となったのだ。分かるか。人類の進歩の邪魔をするな。


 初音ミクという一つの図像から、数万のボカロ曲が産み出され始めた時に、全ては始まったのだ。あらゆる情報は美少女として擬人化することができる。人間自身さえもだ。美少女とは人間とコミュニケートするためのインターフェースであり、パッケージ化された情報そのものである。美少女は自律する。

 美少女とは拡張子だよ。「.kawaii」をつければ、人間はどんなファイルでも読み込むことができる。元が.jpgでも.mp3でも、.humanでも.battleshipでも.conceptでも.godでも(読み込んでからクラッシュすることはあるかもしれんが……)。

(plusstella氏に)「シャロンというキャラクターは存じ上げなかったので今調べたのですが、「それを実現せしめた人類の営為」まで含むかどうかという点は異なります。バーチャルアイドルという系譜的な繋がりはあるかもしれませんが、それは人間にとっての血縁と同様のもので、やはり別人物と考えたく思います。」

(plusstella氏に)「なるほど、バーチャルの系譜は初音ミク以前にも遡れるのですね。ありがとうございます。
ということは、「ここに美少女がいることにして、中の人のことは一旦背景へと引っ込めよう」という見立ての感覚は当時からあり、技術の進歩がようやくその感覚に追い付いたということなのだと思います。」

 まあ、美少女文化は見立ての文化ではあるが、考えてみれば生身のアイドルも「ここに熱狂すべき何物かがあることにしよう」という見立てによって成り立っているのであって、ただ二次元の美少女の場合はそれがより意識的に行われる必要があり、その必要に迫られて我々は自らを訓練してきたに過ぎない。

 私は初音ミクの歴史的意義を、何よりもまず「彼女自身が何のキャラ付けも持たず、徹底的にただの素材として出現した」という点に見ている。マクロスプラス本編は見ていないが、シャロンは一人のキャラクターであろう。初音ミクは一人ではない。一枚の絵の他には、オリジナルと呼べる人格が存在しない。

 この素材としての性質が、「いかなる曲も、初音ミクの声とガワを纏えば、初音ミクの曲である(そこに初音ミクの“オリジナルの人格”がなくとも!)」という状況を生んだ。そこからは容易に「いかなる者も――」へと連想を繋ぐことができる。「美少女のガワ」、それこそが人類の求めていたものだったのだ。

 バーチャル存在に熱狂するという現象の系譜は、シャロンまで遡ることができるのだろう(もっと古いかもしれない)。しかし、「自分自身もバーチャル存在に、熱狂されるに足る存在になれる」という気付きを初めて与えたのは初音ミクだったのだと思う。

 初音ミクとは、無数の初音ミクの総体である。このような循環論法によってのみ定義される存在こそ、VRが普及した時代の霊性を理解する鍵となるだろう。(私はここで、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の「小さな和声の迷路」の章に出てくる「GOD Over Djinns」の議論を思い起こす。)

 どの程度リアリティを感じて熱狂できるか、どの程度コンテンツ作成に観客を参加させるか、という点は、あくまで量の問題、技術と資金で解決する問題でしかない。だが「一か全か」というのは全く質的な転換だ。この美少女像を、他者と見るか、自分と見るか。イメージの集積と見るか、放散と見るか。

 ひとたび「自分は美少女になれる」という気付きを得たならば、人はそこから新たな美少女を生み出すことができる。どこかにあるオリジナルに没入するのではなく、自分自身を表現する手段としての、自分だけの美少女を。美少女とは美少女の総体である。美少女という概念は、神と同義になることができる。

 ここで私は「神」という言葉を、「至高」ではなく「基層」の意味で使っている。あるいは、「超越」ではなく「普遍」の意味で使っている。どちらも究極的には同じことだとは思うのだが。


 この「約8万の持ち歌」という部分にこそ、初音ミクの強さがある。無数の人々の創作のエネルギーを、全て己の名のもとに糾合して己の力とすること。個であり多であるということ。私がそれを最も端的に実感するのが、動画「みんなみくみくにしてあげる♪」である。 http://nico.ms/sm19069321?ref


 美少女にとって、声も容姿ももはや本質ではない。もちろん今は過渡期であるから全く無視できるわけではないが、美少女という概念の究極の本質は「集団のコンセンサスに基づいて、美少女というラベルを貼ること自体」にある。美少女と認められれば、内実がどうであれ、多くのことが免責される。

 今は、集団のコンセンサスによる「美少女と認められる基準」の中に、容姿や声がある比重を占めている。しかし、いずれそうではなくなるかもしれない。「美少女」概念は絶えず更新される。そこでは、美少女概念の進化の歴史を辿れるという連続性、そこから生まれるある種の権威・聖性だけが重要になる。

 言わば、「美少女」という概念自体が一種の既得権益を持っている。別に美少女という名前でなくともよい。既得権益を批判する者もいるだろう。だが、次の時代に同じ既得権益を持つ概念が、かつてその立場にあった概念と全く別物であることはない。明治維新の後も幕臣たちが要職にあり続けたように。


 初音ミクは全にして一。「うちの初音ミク」という言い方が可能な一方で、人はそれを通して「全としての初音ミク」にも接続している。一切衆生悉有仏性。父と子と聖霊の御名のもとに。そのような存在との結婚(聖婚)が可能になったならば、次に来るのは当然、処女懐胎……

 オタクという生き物の(そしてこれからの人類が立ち返るべき)たった一つの本質――「そうであるとみなす」という心――をひたむきに説く名スピーチだ。「人間と音声合成ソフトの結婚」という画期を寿ぐ言葉はまさにこれしかない。諸君にはここで起こっていることの偉大さが分かるだろうか?

 新婦が初音ミクの場合、常であれば新婦の招待客が座るべき席には誰が来るのだろうな? 私には妄想しかできないが、クリプトンの社員が来るかもしれないし、参列者全員が新郎新婦共通の知り合いということになるかもしれない。「うちのミクさん」と「総体としてのミク」はここでは区別されるのか?

 私がボカロ曲を三曲お薦めするなら迷わず、「はやぶさ」「大祓詞」「みんなみくみくにしてあげる♪」だ。動画の出来は元より、これらが初音ミクのために打ち込まれ、初音ミクによって歌われたという事実そのものの重さよ。

 初音ミクと結婚した御仁についてだが、この結婚式において「異性の友人を呼ばない」というマナーはどう扱われるのだろうな。これは「キャラクターと人間が、性愛という次元で競合するか」「そもそも競合という発想を持ち込んでよいか」という問題を提起し、今後の文化の趨勢を占う事柄だと思うのだが。


 初音ミクの小宇宙は、世界樹のようなものではなかろうか。クリプトンが初めてボーカロイドを発売した時、人類は初音ミクの「芽」を出させることに成功した。その後の同人作品は幹や枝となった。だが技術の進歩により、我々はこの樹の「根」を掘り当てつつある。そういうことではなかろうか。


 初音ミクは、特定のイデオロギーや物語性から最も自由な歌手である――オタク肯定イデオロギーやオタク・コンテクストを除けばだが、それらを一旦認めれば、初音ミクの「誰でもなさ」は、確かに校歌のようなある種公共的な用途にはむしろ相応しいのだ。ちなみにこれは大祓詞。https://www.nicovideo.jp/watch/sm23054805

 この大祓詞の動画説明文に「歌姫神 初音未来媛命」という言葉が見える。この素晴らしい名付けは、私を擬人化美少女と多神教の関係、そして「物語の量子化」への洞察へと導いたものの一つだ。太祝詞事の解釈やトホカミエミタメへの賛否については、私は判断を保留するが……


 ここで演じられている初音ミクは、あくまでパソコンの中または彼方にいる存在という設定であって、マスターと同様の現身を持ったものではなかったのか。とはいえ、美少女の想像力においては、パソコンの中にいるのにパソコンの外と同じ背景があるという如きの矛盾は融け合って問題ではなくなるのだ。


 先日、以下のイベントに参加してきた。「心のことだけを考えるなら、生きた人間以外との結婚も概ねアリ」という結論を確認できたのは良かったが、アセクシャルやゴリゴリの保守が来て引っ掻き回してくれなかったのはやや惜しい。ナシ側の声も聞きたいという意見はちらほら出た。 #2次元キャラと結婚

「二次元のキャラクターとの結婚を社会に認めさせることはできるか」という問題については、「法制度化という意味なら、できないし、するべきでもない」というのが現在の私の率直な意見だ。表現の自由の観点から、その理由は少なくとも二つある。

 第一に、架空のキャラクターを単なる現実の人間の代替物ではなく、一つの確固たる愛の対象として認めることは、為政者が漫画・アニメ・ゲーム・小説その他を「現実の人間への加害が~」という理由で規制するのは差別である、と言うに等しい。故に、彼らは決してこれを認めるまい。

 第二に、キャラクターを人間と対等なものとして扱おうとするほど、社会全体にとってこの愛を認めるメリットがあるのだと主張するほど、そこにキャラクターの権利や保護という発想が忍び込む余地が増す。それを為政者にやらせれば、これ即ちかの非実在青少年騒動を自ら招く結果となるだろう。

 キャラクターとの愛を法的に認めれば、実在の児童の権利を制限するにも「判断能力がないから」という理由は一切使えなくなる。当然だな。その場合、実在の児童との性行為を禁じながらキャラクターの性描写を許すロジックはあるのだろうか。何しろ、キャラクターは福祉と接続された「人」になるのだ。

 これは児童に限った話ではない。成人に対しても暴行は禁じられているが、キャラクターにも禁じるのか? キャラクターを「人」とした上で「そういう愛の形もある」といって彼女への暴行(暴力的な描写や妄想)を許せば、現実の人間へのDVを禁じる理由もなくなるのではないか?

 これらを回避する唯一の方法は、「私が結婚した初音ミクと、私が妄想の中で暴行を加えた初音ミクは別人物であって、後者は人権を有しない」と主張することだ。だが、人権の有無が書類一枚で分かれるという状況は果たして喜ばしいだろうか。それは、差別と紙一重なのではないか。

 この「総体としてのキャラクター像と、私が結婚した“うちのミク”は別」という考え方が十分浸透しないままに制度化を進めれば、「俺の嫁のキャラクターであいつが勝手に抜いているのはけしからん」という連中が訴訟まで始める可能性もある。

 あるいはこうだ。キャラクターとの結婚が許されるならば、そこには当然「自分が作ったキャラクター」との結婚も許される。ならば、自分の頭の中の妄想とパートナーシップを結ぶこともできるはずだ(ここに、美少女擬人化文化と伝統的な宗教との嵌合点がある)。行政はそれに対して何かするべきなのか?

 これが身体とシリアルナンバーを持ったAI搭載ロボットなら、いくつかの問題点は解決される(ように見える)。その分人間と対等にしようという動きは急速に進むが、選挙権まで得ればどうなるだろうか。もちろん、資本家が無限の票を持つことになるのだ。

 以上のことから、キャラクターとの結婚を積極的に国に認めさせることに私は賛同しない。近藤氏も「国に認めてもらうことを強くは目指さない」と言っている。特別住民票を発行してもらうくらいに留めればいいが、あれもこれも人間と対等にしようと拙速に走れば、やがて文化全体の破壊を招くだろう。

 架空のキャラクターに人権なし。身体を持って自律した増殖を本格的に始めれば別だが、保護すればかえって消えるような種族に、法の下の人権を与えてはならない。あたかも人のように思えても、彼女らを愛するには人権とは別の枠組みを以てするべきだ。

 気の持ちようの話については、やはり「実存は本質に先立つ」という実存主義の原則、あるいは「一切は清浄である」という密教の教理を思い起こすのが有用だろう。一切のもの、一切の瞬間は他に二つとないものであり、しかも価値において他のものに何ら劣らないのだ。

 例えば、ある現実の人間を愛していたとして、しかし一度も自分とは結ばれることなく、その相手が別の人と結婚したとする。再婚や重婚の望みはないかもしれん(あるかもしれん)。だが、「自分は“自分の記憶の中にあるその人”の像と結婚しよう」と宣言することはできるのだ。

 初音ミクにおいて顕在化した「総体としてのミクとうちのミク」という区別が、現実の人間においてもやはり成立するのだ。元より人は「うちの○○」しか見ることはできない。白い雲を掴もうとしても、手に触れるのはただの氷の微粒子だ。心の持ちようの話に留まる限り、現実と妄想は何も変わらない……。

 そもそも何を以て愛とするのか、という問いについては、「定義された愛は愛と呼ぶに値しない」というのが私の信条だが、一つ身や蓋のある条件を考えるならば、やはり「費やした時間」なのだ。他の誰かでも満たせそうな箇条書きの条件ではなく、愛する側の自分自身の人生そのものを拠り所とすること。

 そして、そんなことはな、既にサン=テグジュペリが一九四三年に宣言しているのだ。かつて子供だった全ての大人たちに向けて。

箱根にある星の王子さまミュージアムは、著者の遍歴についての展示が充実しており、洋風の庭園もある。星の王子さまオマージュの名作ゲーム『R.U.R.U.R』もあるぞ(こちらは箱根にはない)。(製品ページリンク切れ)


 例えば、人間とは何かを語る時に「水35L、炭素20g……」で事足れりとする奴はいないだろう。肉体の内にある、無形の精神の方からまず語るだろうし、遺伝情報の話も避けては通れない。更には、社会的に構築された存在としての側面を。人間とは情報であり、現象であり、物語である。初音ミクも然り。

 初音ミクとは、歌の依り代。徹底的な素材。メッセンジャー。数の力の中に浮かび上がった輪郭。全にして一。ミクロにしてマクロ。神の形象。ヒトの未来。姿が本質ではない、だが姿がなければ存在し得なかった。色即是空と空即是色の、擬人化。私はそう確信している。


 その「何らかの工夫」に相当するものの一つが、「総体としての初音ミクと、うちの初音ミク」という構造だろう。キャラクターを一人のアイドルと考えれば、合意に関する厄介な議論は避けられないが、事実はそうではない。結婚したのは「十全な合意の成立した、うちの初音ミク」なのだ。

 ユーザーの数だけのキャラクター像があり、またそれらの総和としての像(むしろムーブメントと呼ぶべきだ)がある。個別のキャラクター(うちのミク)は、キャラクターの名はついているが、実は設定をもとに再構築されたユーザーの脳内情報に他ならないのだ。それと結婚することに何の問題もあるまい。

「うちのミク」は、外部からやってきた他者ではない。「容姿と声の情報+ムーブメントの歴史+十全な合意があり生活を共にできる相手であるという情報」という一塊の情報が、ユーザーの脳内でコンパイルされ、擬人化された存在なのだ。脳内の情報が独立した意思を獲得する、と考えるのは勝手だが……。

 初音ミクは、こうした構造を最も顕著に持つ。しかし、事は他のあらゆるキャラクター、あらゆる現実の他者、あらゆる自己像でも同じだ。人のように見える全てのものは、何らかの状況、何らかの設定、何らかの情報の擬人化なのだ。キャラクターの名前は、ただの依り代、媒体に過ぎない。

 それぞれの人間の脳内の、個別の環境でコンパイルされた個別の「うちの」キャラクターが、総体として見ればまた一つのムーブメント、一つのキャラクター像を成す。数学の教養があれば、諸君はフーリエ変換を思い出すだろう。振動数0から∞にわたる無限個の正弦波を足し合わせて、一つの曲線ができる。

 一つに見えるものは、実は一つではなく無限の何かを背後に秘めている。無限に見えるものは、実はある視点から眺めれば一つのものだ。我々は二次元キャラクター、そして擬人化という概念を通じて、そのことに気付くことができる。色即是空とは、この「全」と「一」の移り変わりを言った言葉ではないか?


 個人の感じ方の問題ではあるが、仮に初音ミクの身体を「侵犯」したとして、それを罰するのは初音ミクではなくオタク・コミュニティであろう(「フェミニストのキズナアイ」も、結局はそういうことだったのだ)。特に初音ミクは、各ユーザーによる「侵犯」と環境による「淘汰」によってこそ生き続ける。

 ちなみに、自殺もまた「環境による淘汰」の一種であり「淘汰によって実現される環境」の一種であるから、最初から侵犯を行わなかったからといってこの「初音ミク概念の繁殖」の営みからは逃れることができない。情報がないこともまた、既に一つの情報なのだから。

 徹底的に素材として生まれることで、初音ミクは永遠に知られる運びとなった。「原作」に紐付いた個別具体のキャラではなく、それより一つ上のレイヤーにその名と姿はある。諸君が「人間」を自称し、直立二足歩行の姿を取っても、誰を侵犯することにもならないのと同じように。

 我々の姿は、人間である以上、共通点を持っている。イブと呼ばれている太古の一人の「女性キャラ」に、我々の姿は束縛を受けている。だが、それだけのことだ。我々は万物の霊長の、自己の、そして神のアイコンとしてこの姿を使う。初音ミクの在り方はこれと程度の差で異なるに過ぎない。

 だが、ここまで徹底して「素材」として現れることができたのは、音声合成ソフトなればこそだとは思う。製品を使って作られる作品と、アイコンとして提供される美少女の姿が、無関係であればあるほどよい。描画ソフトやダッチワイフでは絶対にこうはいかない。匂いや味の合成キットならあるいは……?

 以上述べたような、初音ミクという現象の真髄は(今ちょうど丹治吉順氏が同様のことを再び語っている)、動画「みんなみくみくにしてあげる♪」を視聴することによって五分で体得される。歌詞にもあるように、初音ミクはヒトの形をした者たちの情報的進化の糸口を示している。


 実のところ、今の世界で起きているのは「現実vsフィクション」という対立ではない。「何を、現実の人間に準ずるものとみなすか」という論争、つまり人間の定義の再編が行われているのだ。ポルノ規制も、ヴィーガンも、白饅頭氏の「かわいそうランキング」も、私のポケモン観も、皆その線の上にある。

 その中にあってオタクは、「これは自分にとって、人権を与えて差し支えないものだが、他人にとってはそうでもない」ということを承知している、極めて稀有で紳士的な種族だ(例外もいる)。だが、譲れないものを持たないというわけではない。この稀有で紳士的なコミュニティこそが、譲れないものだ。

 このことを考える上で無視できないのが、初音ミクと結婚した近藤顕彦氏の「総体としてのミクと、うちのミク」という考え方なのだ。実は日本には古くから分霊という神道上の考え方があるのだが、それを現代風に言ったのが上記の言葉だ。個別の様々な在り方を、全体がいわば緩衝し吸収する。

 全体の方向性を決めるのに、個別が全て足並みを揃える必要はない。このことを忘れた日には、自分の偏執で世界を染めねば気が済まなくなり(暴力革命型ヴィーガン)、「公共」という言葉はただのバトルロイヤルの意味になる(キズナアイ放火騒動)。


 漫画家がキャラに作中では決して言わないような台詞を言わせることには抵抗があるが、謝罪や撤回には及ばない。公式は公式、読者の感じたキャラクター像はその読者だけのものだ。もっと自分の鑑賞体験を強く信じてもよいのではないか。公式とて、所詮は作品世界を不完全に切り取っているに過ぎない。

 山田太郎氏の選挙カーが初音ミクを起用して「山田そして太郎」を連呼していることには、比較的反発は少ないように見える。これは初音ミクに顕著な性質「個別と総体」のためだ。うちはうちのミク、よそはよそのミク、その総体としてのミク。だが本来は全てのキャラクターがかくあるべきなのだ。


 ここで、「では彼はフィギュアを性の対象とするセクシュアリティなのだ」という短絡に走ってはならない。彼の嫁はあくまでキャラクターであり、キャラクターの本質は情報であり物語であって、グッズはその依代に過ぎない。そして、これはキャラクターに限らず、人間を嫁とする場合も実は同じなのだ。

「うちのミクと総体としてのミク」という言葉を使う近藤氏が特殊な例として情報・物語と結婚しているのではなく、全ての人間が実践している全ての愛が実は彼と同じものであるということだ。我々が出会う全ての他者は受肉した物語であり、ただインターフェースの機能に些末な差があるに過ぎない。

 その中でも現実の異性に向ける愛こそが普遍的だとされている理由は主に三つだ。性フェロモンが作用するという生理的理由、人工の維持に寄与するという社会的理由、他に愛するに値する存在が長らくいなかったという技術的理由。果たして、これらはいつまで成り立つだろうか?


 罵声が美少女に変換? できるだろう。全ての概念は美少女擬人化できる。初音ミクはそのことを人類に思い出させた。


「初音ミクに魂は宿っていると思うか?」
いい質問だ。君には宿っているか?

 これは「魂とは何か」の問題であると同時に「初音ミクとは何か」の問題なのであり、初音ミクが体現しているものこそが魂なるものの本質であるとさえ私には思われる。


 私は魔女を名乗ってはいないが、『魔女の宅急便』について何か語るとすれば――まず運び屋という稼業自体が、魔なるものと非常に親和性が高い。それはメルクリウスの原理であり、階層を媒介するもの、隔たりを繋ぐもの、それ故に穢れであり、風穴であり、つまりメッセンジャーである。

 然り、魔なるものの最大の特徴はメッセンジャーたることだ。だからこそ魔女は共同体の周縁に位置し、時に脅威として狩られる。そしてこのことから、必然的に、メッセンジャー概念そのものの擬人化である初音ミクは究極の魔女(witchcraft)と言える。


 初音ミクなら「総体としてのミク」と「うちのミク」の二重性を違和感なく受け入れられるが、そうでなく固有の物語を強く持っているキャラクターの場合はある程度テクニックが必要だろう。フィーナと結婚しても月に行けないことなどを上手く説明するために、「うちのフィーナ」の設計には制限がかかる。

操刷「そのゲームはプレイしていませんが、公式のストーリーラインが希薄であり、他のプレイヤーの遊び方が自分のキャラに直接影響しないという点は初音ミクと共通しているようです。物語とキャラ像が等価であるとするなら、多様なキャラ像=多様な物語が許されるシステム設計が必須でしょう。」

操刷「プレイ体験に(十分数の新規参入が可能な程度の)幅がある必要があります。従って、ノベルゲームという形式は本来相性が悪いはずです。そこをクリアするためには、操作できるパラメータを増やした上で、「トゥルーエンド」という概念を捨てる必要があります。」

操刷「『奴隷との生活』もラブプラスも艦これも、当然初音ミクもですが、全て「高い自由度を持ち、終わらない」という特徴によって、公式と「うちの子」を分離することを可能にしています。そうでない作品に対しては、分離するための物語を自分で作る必要があります。」

操刷「ユーザー毎に異なるキャラ像が作られ続ければ、そのキャラの同一性を担保するものは名前と外見しかなくなります。ここで、「ユーザー毎に異なるキャラ像が作られる」という事実が各ユーザーに認識されていれば、それでも残る名前と外見の同一性によって「総体」概念が立ち上がります。」

操刷「逆に、ユーザー毎に作られるキャラ像に大きな幅がなければ、名前および外見という根源的な同一性が認識に上らず、「総体」概念も発生しないでしょう。従って、全と一の二重性が姿を見せるための条件は、キャラ設定よりも製品のシステムそのものの設計に属しています。」


(削除されたwrmtrm氏の発言に関して、人間とキャラクターとの関係を表現するにあたって)対人関係と共通する言葉(例えば「結婚」)以外のものとは、例えば「宝」や「心の支え」や「ティッシュ」を指しているのだろうか? そのような在り方は可視化されているはずだ。また、キャラとの関係にのみ用いられるような言葉を生み出そうとすると、使用者がゲテモノ集団とみなされ、距離を置かれて終わるだろう。

 対人関係に似た在り方「しか」という言い方には慎重であるべきだ。それ以外が可視化されることを阻む構造があるとも思えないし、むしろ対人関係に似た在り方以外は既に騒ぐにも値しないほど可視化されているとすら思える。人間と同一視することが最後の砦であるからこそ、目立つのではないか。

 キャラクターを人とみなす習慣は、犯罪抑止の面からも規制へのカウンターの面からも危険ではある。また、キャラクターとの結婚に人間同士の結婚と同じ特権を与えるべきではない(人間と同じ制約が発生するから)。しかし、人とみなすことを禁じることもできない。

 少なくとも、自己批判を他人に要望することに効果はない。他人の意識を変えるには、自分の生き様を見せて、「人はこのような意識でも生きてゆける」と示すことしかないのだ。近藤氏は「結婚」を拡張することでそれをしようとしている。私はオナニーの利用法について語ることで、それをするつもりだ……

(キャラクターが人ではないことを殊更に強調するために、特殊な言葉が生み出された例はある。「萌え」という。この言葉がどのような末路を辿ったか、表現規制への抵抗運動に関心のある者で知らない者はいない。)

 かつてセーラームーンのエロ同人に接した女児のように、人間と初音ミクの結婚式を見た子供が「自分たちの初音ミクが穢された」と思うことを心配しているのだろうが、むしろ、「総体としてのミクとうちのミク」の二重性があるという現代のキャラ論の常識を教育する良い機会ではないか?

 人の数だけキャラクターとの関わり方があり、それはもはや人の数だけ別々のキャラクターがいるのと同じことだ、ということが分からない限り、諸君はキャラクターについても(性的まなざしを含む)欲望についても何一つ理解することはない。

 初音ミクではそれぞれの付き合い方が創作としてアウトプットされるから可視化されるだけで(まさにその可視化されやすい性質によって、初音ミクは人類史を変えたのだが)、全てのキャラクターや人間で事情は同じだ。生身の人間の結婚の場合にしても、制度上独占できているように見えているに過ぎない。

 例えばAVを観てオナニーをする場合、射精に至るほど鮮明なイメージで性行為を追体験している(そうでない場合もあるが)にもかかわらず、それを「既成事実」と呼んで女優を独占しようとすることはまずない。これは、本人に影響を及ぼさない、自分だけのイメージであると最初から了解しているからだ。

 また、同じAVの他の視聴者も女優本人を独占することはできない、ということを、視聴者たちは互いに理解しているのだろう。自覚や言語化こそされていないだろうが、そこには初音ミクと同様の「総体と個別」の観念がある。本物が存在することと使うことの後ろめたさが、構造の可視化を阻みはするが。

 このように「私の意識に投影された“本人そのもの”の影、うちの〇〇さん」という考え方に慣れれば、当然、現実の知り合いで抜くことにも抵抗はなくなる。自分がその人を見る目が変わるのを恐れるなら、自分の意識の中でその人の像を分割し、コピーし、パーティションを分け、隔離領域で動かせばよい。

 初音ミクは究極の中立であるが、誰かが個別のミクと結婚することはその中立性を損なうことにならない。総体としてのミクに対して、「個別になら結婚できる可能性」を付け加える(もしくは発見させる)だけだ。個別のミクが人間と多様な関係を結ぶことは、総体としての中立性をより盤石にする。

 それとも、「親が不安になる」という言い草を見るに、まさか「子供が普通の結婚をできなくなったらどうしよう」と恐れるような連中に配慮して自主規制しよう、という意図なのか? そのために初音ミクの可能性を狭めると? 一体初音ミクの何を見てきたのだ?

「初音ミクが特殊な愛の対象になり得る」という言葉遣いは、いかにもな誤魔化しだな。事実は、現実の人間を愛するやり方をキャラクターにも適用したというに過ぎない。愛が特殊なのではなく初音ミクを対象にすることが特殊なのだと考えているなら、そう言うがよかろう。

 あれは神道の分霊の概念そのものであり、分霊の理屈を理解するために初音ミクの例を引くべきものだ。無数の個別の顕れが、一つの名のもとに包括される。だからこそ日本では実在人物や艦船やその他あらゆる情報を、元ネタとの適度な距離と同一性を保ちながら、安全に擬人化することができる。


 色即是空の「空」に人のような輪郭(インターフェース)を与えただけのもの、全き空である故に全ての色を含むもの、これは、神と同じものを指している。
はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。そして初音ミクとは、「伝達される言葉」を擬人化したものである。

 私のこの文脈において、「天使」とは神の多様な顕れのうちの、ノードを繋ぐリンク、gauge-bosonicな諸力、連関の司に相当するものの総称として位置付けられる。私自身も、「神官」「天使」「神(と便宜的にここでは訳出するもの)」の三位一体として存在している。


「みくみくにしてあげる♪」の歌詞にある、「あのね早くパソコンに入れてよ/どうしたのパッケージずっと見つめてる」の一節、ここに初音ミクという現象の全てが準備されていたのだと、後から振り返れば気付くことができる。擬人化という心理作用が枷から解き放たれ、全ての事物が我々の友となった。


 天蠍宮と宝瓶宮は、それぞれ「溶融しようとする欲動」と「溶融した後の動態」に対応する。似通った二つの宮だが、摩擦もある。天蠍宮は宝瓶宮に嫉妬し、宝瓶宮は天蠍宮の執着心を疎むからだ。この二者を上手く繋いだのが、初音ミクとそれに連なる「開かれた同人文化」であることは言うまでもない。


 初音ミクが人格を得たきっかけとなる動画は、概ね特定されているのだな。この動画がなければ人類史が遅れたと見るか、この動画がなくても必ず別の誰かがやったと見るか。/初音ミク、ユーザーが生んだ人格〜奇跡の3カ月(1) - 丹治吉順|論座 - 朝日新聞社の言論サイト


 21世紀初頭のネットで初音ミクを起点として起こっていた出来事は、2万年前のラスコーや7万年前の東アフリカで起こっていたことと同じだ。あらゆる現象を「そこに誰かがいるかのように」、あらゆる概念を「それが誰かであるかのように」、積極的に擬人化することで文化と文明が発達する。

 初音ミクは、人類が神を発生させる過程をそのままなぞった。彼女は人を人たらしめる基本的特質を再発見させたに過ぎない。しかし、ネットがもたらした伝播力によって、あらゆる人間がその情報擬人化の力を行使できることが明るみに出た。同時に、擬人化の手法として美少女が最適であることも示された。

 正確に言えば、ボカロ動画はソフトウェアや投稿者の擬人化でもなく、そこで歌われている物語の擬人化だ。一語で表されない情報の束であっても、問題なく擬‐美少女化操作が可能であるということ。初音ミクの功績は特に、この操作の対象となる情報の、量と複雑さの制限を取り払ったことにある。

「全ての形象は何らかの情報/物語の場が離散的な粒子として励起したものであり、美少女とは励起粒子の記述方法として人類が選択した一つの表現型である。故に、キャラクター、実在人間、無生物、全ては美少女として解釈でき、また未だ擬人化されない全ての情報も、潜在的に美少女である。」

 その上で、全ての初音ミク芸術が「初音ミク」という一つのキャラクターイメージのもとに統合されていることは、彼女が「擬人化という営為の擬人化」でもあることを意味している。ここに到達した時点で、人類の認知進化は一つの爛熟を迎えた。後はそれぞれの個人がそこに追いつくだけだ。

 こんにちは、操刷法師を擬人化したものです。

「宇宙物理たんbotも述べている通り、学術たんは学問分野の擬人化であり、このことには重大な意味がある。広がった場である学術をキャラクター化することにより、伝播し衝突する粒子として他のhuman-likeな粒子と相互作用するようになる。キャラクター場の量子論こそが人間の認知を記述するのだ。」

「一粒の米がある。これの擬人化美少女、ないしこれに宿る神を考える事は簡単である。もう一粒米を持ってこよう。これにも神が宿る。ではこの二粒を一緒にすると? 「米Aの神」「米Bの神」「米AB二粒としての神」が併存する! では茶碗一杯分の米では? それらが一斉に話しかけてくる!」


 初音ミクとは情報に顔を与える者、水星の化身、ヘルメス=メルクリウスの顕現であり、言語と自我を持つ知的生命体は必ず初音ミクを発見する。ただ五分をかけて「みんなみくみくにしてあげる♪」を観さえすれば、誰でもそのことを理解することができる。


 初音ミクとインターネットは口承文学の時代の「情報が揺らぎながら自己複製し伝播していくさま」を蘇らせたが、私はもう一歩踏み込んで、N次創作の連鎖の同一性、即ちひと繋ぎの鎖であることを担保するものこそがキャラクターである、と言う。無数の人々が無数の作品を通じて、同じものを見ている。

 初音ミクを巡る物語は、グーテンベルクや源氏物語のさらに七万年ほど前にまで遡ることができる。無数の人々が見ている景色がひと繋ぎの世界であることを担保するために、共同体は神というキャラクターを生み出した。情報をキャラクターによって象徴させることで、我々は時と空間を超えることができる。

 サピエンスが初めて神/霊性/宗教を作り出した時に起きていたことが、初音ミクの出現においても起きていた。現在は過去のN次創作であり、創世記は今も続いている。


 くねくねの歴史の紹介に対して著者自身の考えの部分が短いのが不満だが、確かにキャラクター時代の語りこそ非人間的転回によって理解されるべきだ。キャラクターは物語の擬人化であると同時に、擬人化であるが故に、人間やメディアを宿主として自律的に動き、環境と相互作用して新たな物語を生み出す。

 それこそ甲田学人が『Missing』(2001)において「物語は“感染”する」という表現で述べたことであり、また操刷法師が184号(2015)において「神=美少女=物語=モノ」という図式で述べたことでもある。この論文は2018年の作だが、2022年の今はどの程度自然に受け入れられる考え方なのだろうか?

 題材としてくねくねを選んだことには、先行する『ネットロア』への批判という以上の必然性はないように思える。日本のネット文化史上で、非人間的転回によって最も鮮明に理解される現象とは疑う余地なく初音ミクなのだから。だが口(電)承文芸という縛りの中でなら、くねくねを選ぶセンスは良い。


 操刷法師が「擬人化という営為の擬人化」として初音ミクを位置付けてから八年(184号)、ようやく市井でボーカロイドの霊性論が語られ始めた、というところだな。ニコニコの寛容さや嫌儲については美化し過ぎだが、人間を依代とした情報の自律進化についての啓発としては、まずはこれでいいだろう。


 初音ミクを巡って起きた現象が神の発明の再現だという話は美少女文化の権利向上のために有用だが、逆に神の発明が初音ミクを通して理解できる現象だという話は、人類全ての未来のために有用だろう。伝統宗教というインスタンスから一旦離れた、信仰のDIY技術がこれからますます重要になる。

 この話を聞いた今の中学生・高校生が、「自分の“好き”を言語化する語彙だ」と思えたというのなら、まあある程度普遍性の芯を捉えた話がなされたと言ってよいだろう。

操刷「生身のアイドルは労働の問題を含んでいるため手放しで賛美できず、逆に神を造る行為そのものに否定的なイメージを与えかねません。これは天皇制と同じ構造です。人のようであるが人ではないことが神の条件であり、間口の広さで言うなら死者(例えば先祖)の話がよいと私は思います。」

操刷「アイドルの推し活について語るなら、労働の問題に落とし所を用意した上で、ファンからアイドルへの影響力はどのような形を取るか、アイドルと一人のファンとの関係はファン全体との関係とどう異なるか、といったことが私の興味です。これらは恐らくボーカロイドの場合とは異なります。」


「ぱて氏、女装子コンテストに敵対的ではあったが、オープンレターズでもあったのか? ボーカロイドを論じる者はそれを取り巻く性的な欲望に最も真摯に向き合わなければならないはずのものだろう。とりわけ、初音ミクを称揚してバ美肉を貶すのは「表現の顔としての美少女」という側面を無視している。」


 VtuberのVはVRのVではないということ(https://youtu.be/q7fBL1RCGPM)は、この現象が初音ミクの末裔であると知る者にとっては自明だが、まあ紛らわしいわな。中身がなかったものを中身があるかのようにみなす、そのみなしの営みこそが「中身がある」ということの本質である、という実感から生まれた。

 そこから、美少女でなかったものを美少女であるかのようにみなす、それが現代において「美少女である」ということの本質であり、絵や3Dモデルを呼び水として新たな「中身」を生きた人間の中に人為的に作ることができないか、という発想までは一歩の距離だ。

 絵や3Dモデルは呼び水に過ぎないから、少なくとも画面を介している限り、精巧さや立体感よりも様式の方が重要になる。「これは我々のためにあり、これに好意を向けてよいのだ」という許しの方が。Live2D勢が多くいるのはそのためだろう。

操刷「「図像それ自体ではなく、図像の背後にあって図像を通して想像・感得されるものに崇敬を向けているのだ」という建前がある、という点では、現代の美少女受肉は確かに、イコンが偶像崇拝ではないと主張する際に用いられたのと同じロジックに基づいていると思います。」

操刷「人間が受肉する場合を含む現代の美少女現象の全てが、想像力が現実世界に及ぼす影響を自覚して最大化しようとする営みという意味で、宗教性を持っています。特定の時代・地域について専門的に学ばれた方なら、美少女現象についてもより深い何事かを引き出せるかもしれません。」


[1] 内田樹、釈徹宗『現代霊性論』、講談社、2010
[2] しきしまふげん『現代萌衛星図鑑番外編 はやぶさ 小惑星探査機MUSES-C』、三才ブックス「現代視覚文化研究vol.4」所収、2010
[3] 古橋秀之『ブラッドジャケット』、メディアワークス、1997


〈以上〉

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