twitterアーカイブ+:映画『君の名は。』感想:時間と記憶と整合性

映画一回目

「君の名は。」を観てきた。オタク映画である。ただし日常系が台頭する前の、筋書きに主眼を置くがボーイ・ミーツ・ガールも欲しいという、所謂第三世代のオタク・ストーリー。それがデフォルメ表現を抑えカメラワークと音楽で一般人向けに偽装された、オタク・ムービー・ワクチンとでも呼ぶべきもの。

 それでも、最小限の箇所に象徴化の技法(モチーフや音やシーンに特定の意味を持たせて反復する技法)を明示的に用いている点がジブリ映画と決定的に異なる。この象徴化の技法こそが、読み手に強い感情を喚起し、深読みの切り口を与え、二十一世紀的オタク活動を可能ならしめる技法なのだ。

 ストーリーについて特に言う事はない。この部分が何の作品と似ている、というデータベース的な言い方をしても詮無い事であるし(だが一つ言うならばNOeSISと似ている)、実際目新しい所はそうない。展開は駆け足という印象を受けた。しかし音楽と映像美で許されているようなところがある。

 君の名は。が粘りの少ない納豆だとすれば、シン・ゴジラは納豆カレーである。そして前者の方が興行収入が高いということは、まあ、そうなのだろう。

 ちなみに、レイプ・サウンド・ガールやヒプノドラッグレディ(共に催眠音声)のような体験に慣れてから観ると、後半で瀧と三葉が入れ替わる際の「カシャーン」という音が前立腺にクる。

「君の名は。」でもう一つ気になったのは、三葉が瀧として生活して苦労する場面は長々と描かれているのに、逆の場面はほとんどない点だ。単なる尺の都合か、共感性羞恥は一人分でよいと考えたか、それとも口コミ要員である女性客の(男から見た女の生活、を語られる事への)反発を避けるためか。

 私は新海誠作品を過去に一つも見ていないため、かの悪名高き秒速5センチメートル(これで知己が何人も死んだよ)でも今度観てみようと思うが、これも実は「主人公と近い年齢の時に出会わなければ真の効果を発揮しない作品」の一つなのではなかろうかと疑っている。

 男女入れ替わりモノなのに頻繁に元に戻れるという設定は、異性の身体を体験するにあたり都合が良いため、古くからエロ漫画で頻出していた。翻ってこの映画では、入れ替わりは何ら本質的ではなく、ただ相手を知り好きになるプロセスのための極めて手っ取り早いギミックとして使われたに過ぎない。

 身体の入れ替わりは、相手の身体性と私生活に土足で踏み込むための強力な大義名分となる。これは太古から着目されてきた側面だが、現代において「それ」をする事への希求はますます高まっている。従ってこの映画が元の体に戻る事を目的としない点は、英断であり、また当然でもある。

 ハルヒの頃までは硬い時間軸の上に人が乗っているという描像が主流だったが(時間軸本位制)、まどマギ辺りからか複数の時間軸を統一的に見る視点が台頭し、時間とは人間の記憶の各部に付随する属性に過ぎない(記憶本位制)、という描像に変わった。

時間軸本位制と記憶本位制

 先日の「時間軸本位制と記憶本位制」の話の続きになるが、現代の「君の名は。」ではあからさまに未来と過去が干渉し合っており、タイムパラドックスの構造そのものが解消されたわけではない。むしろ、それをパラドックスと呼んでしまうような絶対的・俯瞰的な視点の方が排斥されている。

 これの意味するところは、所謂「俯瞰中毒」(自分が人からどう見えるかを過度に計算するがために動けなくなる現象)からの脱却の試み、及び意図的にパラドックスを美化する物語構造にする事で論理や因果性を超えた世界を知覚しようとする試み、が進行しているという事であろう。

 これには全面的に同意する。ゼロ年代をオタク――萌え豚ではなく、フィクションに恋々とする存在としての「オタク」――として生きて、物語の類型を多く知り、かつそれに疲れて「ちょっと深読みをやめて休憩したい」の段階に入った者でなければ、半端に思考力があるだけでは、このような陥穽に嵌まる。

 細かい因果的整合性が「そういうことになっている」ものとして不問に付され、自己目的化して前面に押し出された「情緒」を味わう――これは、まさにセカイ系作品の消費の構造に他ならない。セカイ系を特徴づける「社会領域の消去」とは、まさに因果的整合性の放棄と同義であり、

 またセカイ系においてマクロな領域(世界の存亡)はミクロな領域(個人の生死)に情緒的重みを与えるための舞台装置として存在しているからだ。「君の名は。」は物語の構造としては顕著なセカイ系的特徴を有していないが、作品の受容のされ方・させ方は(後期の)セカイ系に非常に近い。

 もっとも、深読みするだけ、批評するだけ、重箱の隅をつつくだけという鑑賞の仕方で果たして楽しいのか、オタクを名乗るほどその趣味を愛しているなら必ずや「作品の情緒をありのままに受け止め味わう」という姿勢が最初からどこかにあるはずではないか、とは思う。

 オタクは既に物語類型を多く知っているので、シン・ゴジラの前の番宣映像で声(特に清純さ)・背景美術の水準・テーマ曲(穏やかか激しいか)・ストーリー傾向(ロマンチックさ)の情報を得て、瞬時に「重箱の隅をつつくべきか、尊さに没入すべきか」という判断を瞬時に下して適切な鑑賞体制をとれる。

 重箱の隅をつつくという行動をそもそも知らない一般人であれば、尊さ(情緒)に没入するしかない。「君の名は。」はそれで楽しめるわけだが、その没入作用がゼロ年代オタク的記号化技法やボーイ・ミーツ・ガール類型をも吞み込ませてしまうという点で、オタク・ムービー・ワクチンと私は呼んだのだ。

操刷「ここでこよみの格言を再び……」(「NOeSIS2-羽化-」よりこよみの画像)

 まあ近年では、「オタク」というカテゴリは単なる珍しい生き物のことではなく、時代の最先端を表す記号にすらなっているようであるから(実態を持たない情報への親和性という意味では正しく、行動だけなら似たような存在が数世代前からいたという点では正しくない)、名乗りたくもなろう。

 私の三大聖典のうちの一つ(『イリヤの空、UFOの夏』)をまた最初から読み返しているのだが、やはりセカイ系は細かい因果的整合性よりも情緒を優先する傾向にあり、例えば十八時四十七分三十二秒などは「何故作戦行動中にそんな真似ができたのか」と突っ込むだけ無粋である。

 先日述べたように、因果的整合性を不問に付す、或いは読者の知る一般常識の範囲では説明しきれないように設定する事により、主人公の日常空間と対になるマクロな領域(「世界」)の底知れなさを強調している(これによって「セカイ」及び主人公の行動の重みが増す)のだ。

 最近「君の名は。」について因果的整合性の話をしているが、冷静になって考えてみれば、この作品に関して「ここが変」と言われている点の多くは、作品内部の矛盾点ではなく、「現実世界と照らし合わせて変」というものだった。それならば、結局「お前はフィクション鑑賞に向いていない」で終わる話だ。

 考察や深読みの類とは、原則的に「公式が出している情報は全て作品世界内の真実」として進めるものだ。その上で、公式情報を上手く整合的な世界観や時系列にまとめ上げる事が自分では難しい、という意味での分かりにくさはある。だが列車の音が現実と違うなどは、そういう世界観だとして観るべきだ。

 セカイ系についても私は「因果的整合性の放棄」と述べたが、あからさまに作中の記述の間で矛盾が生じていないのであれば、単に「セカイに直接現れない細部の記述については飛躍を許している」のような表現を選ぶべきであった。

 フィクションがフィクションである事を非難せずにはいられないのなら、劇場になど来ずに家に帰って『空想科学読本』でも読んで溜飲を下げたまえ。(私もかつて熱心に読んだ。教科書に載っていない問題を自分で考えヒントを探し計算して一応の答えを導く、という行為の訓練にはなる。)

映画二回目

「君の名は。」を観てきた(二回目)。やはり映画として作られた映像はDVDを当てにせずに劇場で見るのが最善である。

 瀧と三葉は、入れ替わりによって互いに恋愛感情を育んでいたのではなく、奥寺先輩とのデートで初めて、それまで積み上げてきた記憶が恋愛感情を「発生させた」のだ。だがその積み上げが鑑賞者には上手く共有されていないのは否定できないとも思う。(『神のみぞ知るセカイ4』より画像一枚)

 接触するはずのない二つの領域が、象徴によって駆動された奇跡(繋がりを象徴する物や符合があると、人は案外奇跡を受け入れやすくなる)によってほんの僅かだけ接続されるというシーンが実は私は大好きなのだ(私はこれをコンデンサになぞらえて「絶縁破壊」と呼んでいる)。山頂のシーンも然り。

 ここで言う「絶縁破壊」のうち私が最も気に入っているものは、ニンジャスレイヤーの「アンエクスペクテッド・ゲスト」であるが、反復される象徴というものは下手な理屈よりよほど人の心に強い印象を残す。作品を作る場合に、展開を筋道立てる事にこだわり過ぎるのは損だと言わざるを得ない。

小説版

『小説 君の名は。』、良く言えばあとがきにある「映画の華やかさとは別の切実さ」が強調されており、瀧の心情や作品のテーマをより明瞭に言葉で把握したい読者にとっては有難い。文章の修辞表現も風景の美しさを思い描かせるには十分。

 悪く言えば、語りの構成に関しては、練ったのではなくシーンを繋いで水増ししたという印象(局所的修辞のレパートリーはあるが、大域的な構成の妙はない)。映画を原作にしてこれを書いたならまあ仕方ないし、これを原作にして映画を作ったなら小説家を目指さずにアニメ製作を選んだのはとても正しい。

 文章のこのライトさは意図的なものだろうか。本気を出せばもっと洗練された文章が書けるのならば、それを角川文庫で出して今ある方をそのまま角川つばさ文庫で出せばよいのではないか。小学生(のうち、文庫の小説を買い与えてもらいそれを読める境遇にある者)をあまり舐めるものではない。

 私はゼロ年代からラノベに入った口で、当時の電撃文庫はありとあらゆる文体が覇を競って文章表現の一大実験場の様相を呈していたため、もはや「何がラノベであるか」を判定する基準をレーベル以外に有していないのだが、『小説 君の名は。』の文体は私の感覚ではラノベである……。

 しかし司と高木に関して、これがリミテッド・オタクである新海誠の考えるさいきょうの「東京の男子のうちイケてる側」像だと思うと胸が熱い。
三葉「男子がこんなにスマートで優しいなんて! 東京ってすごすぎる!」
私「お気に召しましたか。ではお次に東京大学の男子をご覧いただきましょう」

小説版外伝

『君の名は。Another Side:Earthbound』、良いラノベだった。久々に「ちゃんとしたゼロ年代後半ライトノベル文体」を読んだと思う。適切な改行があり、空白行があり、読者をナメた言葉遣いをせず、思索的な記述を厭わず、伏線を張る、古き良き形式を保った凡庸なラノベだ。

 映画のストーリーの良い補完になっている。特に(俊樹の目を通した)二葉の人物造形が秀逸で、前半のインタビューのシーンだけで既に二葉のイメージを確立させているのは注目すべき点。

 本編小説版のどうしようもなさに対して、Another Sideは気分良く読めるぞ。文章もまともで、「四人の人物の視点から三葉の姿を浮かび上がらせる」というコンセプトも面白い。特に三葉の父とテッシーの話は本編の重要な補完ではないか(あくまでこの本は一つの二次創作という立ち位置ではあるが)。


幕間

「君の名は。」のストーリーを解釈するに際し、硬くて絶対的な時間軸の上を動く人間という観念を一旦放棄する事に抵抗のある向きは、飛騨から帰るまでが全て瀧の夢でしたという事にしても一向に問題はないのだ。そうしても、「まだ会った事のない君を、探している」という言葉の切実さは変わらない。

 だってそうであろう。「会うはずはないけど会っていたのだ、ただし記憶の整合性はない」という解釈と、「会っていたのは実は夢だった」という解釈の間にどれほどの違いがあるというのか。普段「現実と虚構は紙一重」などという言説を自信満々に語っている者は、かくの如くして信仰心を試されるのだ。

 時間とは記憶であり命であり主人に対して嘘を吐くのだと断言するのがNOeSISであり、誇り高きNOeSIS勢である私は「結局どういうことだったのか」という些事に心惑わされずに映画を鑑賞できたわけだが、NOeSIS的世界観に基づけば瀧の高校の生徒は半分ほどゾンビになっているはずだ。

 いや、糸守町の住民がゾンビでもいいのか……? カルテブランシェは既に死んだ人間の命を取引する事ができないと思うのだが、そこは幽霊となった宮水二葉が直前に……? しかし個人の権限で三年も遡らせる事は一般に不可能……

(『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の共通点についての記事、リンク切れ)

 共通点については同意するが、その構造については私の解釈は異なる。ファンタジーを脱却しつつあるのではなく、ファンタジーはファンタジーに過ぎないという諦めをこそ脱却し、「ここ」と「ここではないどこか」を地続きに捉える流れを形成しつつあるのだ。

 この状況は現実の可能性が再認識されてファンタジーを吸収するに至ったとも、ファンタジーが現実を侵食したともとれる。現実対ファンタジーという対立構造が薄れた、という点では同じだが、聖地巡礼の構造を考えれば後者の描像の方が直観的であり、また現実の可能性を拡大するのに有用だと思う。

 母が「君の名は。」の二度目を観てきたがなおストーリー認識に混乱があるというので、タイムパラドックスの概念がここでは無効である事から始めて公式ビジュアルガイドブックをめくりながら解説を試みていたが、我々が常日頃から行っている作品分析は何と多くの特殊な概念を前提としている事だろう。

 例えば、何故口噛み酒なのか、何故カタワレ時なのか、という事を論じるにしても、まず「象徴」という思考法(それは物理法則以上に作品作りに影響を及ぼすのだ)を前提とせねばならない。時間なるものの取り扱い方についてはハルヒで一通りの事を学べるが、一般人はハルヒを読んでいない。

 人間の無意識の世界は、物理法則ではなく象徴によって支配されている。象徴とは反復されるものだ(逆に言えば、人間は反復される構造にはつい意味を見出したくなってしまう)。小説の一話のフレーズを最終話付近でリフレインする技法は、創作者が生涯磨き続けるべき基本的ムーヴである。

映画三回目

「君の名は。」(三回目)を観てきた。この作品の情感に訴える部分はほぼ全て美術とRADWIMPSによって担われており、それ以外の部分(脚本や構図)は特に傑出しているわけでもない、というのが最終的な評価である。執拗に出てくる敷居や日常描写の一部など、必然性の薄いと思えるカットも多い。

 しかし、傑出しているわけでもない中で、ベタな手法をベタなままで堂々と、しかも美術とRADWIMPSのパワーを全力で乗せて(「ロケットエンジン付き三輪車」のような代物)、使うべきところできちんと使う事によってエモーショナルな印象が出来上がっているのだと思う。

 粗があってもそれを隠せるというのは一つの立派な技術で、この場合もムスビに関する理解(時系列の取り扱いで混乱する例は、結局ムスビの概念――一言で言えば、循環参照――の認識が不十分である事による)で躓く事さえなければ、多少の引っ掛かりは「運命だとか未来とか」で大体どうでもよくなる。

 2016年度はかつてなく頻繁に映画館に通った年だったが、これによって気付いた事は、DVDは劇場で鑑賞する体験の代わりにはならないという事だ。出来を批評する事はDVDでもできるが、頭を空っぽにして監督の演出に乗ってやる体験に重きを置くのであれば、何度も劇場に通う他はない。

「特定の主観から見て、任意の体験は別の体験の代わりにならない」という自明な命題に今更気付いた、という意味ではない。劇場のスクリーンの大きさ、音響設備、またそれが繁華街やショッピングモールの中にある事は、映画に独立した娯楽としての意味を与えるための戦略的必然なのだ、という事である。


 引用されているそれぞれの説への細かい突っ込みは野暮だが、映画の考察としては一貫性と説得力があり秀逸。私の解釈もこれに与する。

 それにしても、「直線的・客観的な時間の外側に記憶がある」という事を説明するのに、これだけの段階と権威とを必要とするのか。

円盤

「君の名は。」のBDを観たが、ノートパソコンの画面とスピーカーで再生するのと劇場で観るのとでは迫力が全く違う。映画とは皆そうしたものかもしれないが、クライマックスを歌に強く依存しているこの作品は特に顕著だ。劇場で三回観たのは正解だったと言えよう。

 瀧は彗星が落ちる前の三葉になるが、三葉の方は「彗星が落ちた瞬間の三葉」が瀧になる。この事によって混乱する観客は多いのではないか。時間を平面の連続として捉え、それぞれの時間にそれぞれの三葉がいるとするなら、彗星が落ちる前の三葉の人格は一体どこへ行ってしまったのか、と思うだろう。

 この場面は既に、「ある時点での三葉と入れ替わる」という単純な構図ではないのだ。また、彗星が落ちる前と後の三葉を別人物として扱うハルヒ的な見方も採っていない。三葉が死んだ世界(A)は丸ごと放棄され、瀧が三葉の生きている世界(B)を再構築し、Aの三葉がBに移されたと見るのが整合的だ。

 丸ごと放棄、というより、少なくとも彗星の日の朝から御神体外輪山までの三葉は瀧によって、御神体外輪山からの三葉は巻き戻った三葉によって「上書き」されている、と言うべきか。ハルヒ的な時間平面モデルは採用されていないが、「同一の情報が反復できれば十分」という長門有希の台詞は参考になる。

 いや、時間情報(任意の時間における世界の情報)を上書き可能なものとして認めるなら、時間平面モデルが採用されているかどうかは些末な問題で、むしろ時間平面モデルを採用し「彗星落下前後の三葉は非同一な情報を持った別のオブジェクトであり、共に一定の手段でアクセス可能」と見た方がよいのか。

 口噛み酒を飲んで入れ替わる瞬間の瀧のビジョンは、まず彗星が日本列島に落ちるところから始まり(=生者と死者の境界を通過して三葉の領域にアクセス)、次に受精卵から三葉の誕生(=物理的肉体の構成階層を下から順番に通過)を経て三葉の記憶を辿っていく(=三葉の経験した時間を順番に通過)。

 「転移先に既に三葉のコンパイル済み情報があって、そこに自分の人格だけ載せればよい」というこれまでの入れ替わりとは趣が異なる。それまで何故三年という固定した時間の隔たりが選ばれていたのかは不明だが、その縛りから逸脱するために、瀧は三葉を一から構築する必要があったのではないか。

 つまり、幽世の境界を超えて、そこに記録されていた三葉の情報を読み取り(ここでは「個人」が情報の単位たり得る事を前提としている)、それを再コンパイルしたという順序だ。ただしこの説明では、「彗星が落ちる瞬間の三葉を引っ張ってこられたのはどういう機構によるのか」については答えていない。

 しかし「君の名は。」という映画は、唐突な展開を後から種明かしするという構成になっているため、脳のメモリが少ない観客には「どこだったか忘れたけど何かよく分からないシーンがあった」という不満が積み重なるのではないか(もっと少ない観客は不満の存在すら忘れるので最後付近だけで満足する)。

 時間や事物の関係性が紐として表現されているのだとすれば、宮水神社の御神体とその周囲の外輪山はそれらの外にあってそれらを束ねる「組み台」或いは「糸巻」に比定されるべきものであり、ここにまどマギ新編で頻出した糸巻のモチーフとの同時代的符合が見出されるのだ。

 そもそもあの外輪山の形状、あれはトーラスだよ。宮水神社の御神体とは象徴的には、存在しない、知覚される事すらない領域であり、尋常の世界の外側にあるものだという事がこの形だけからでも分かる。そのような知識を持たない瀧が「あの場所なら」と気付くのは少々強引だが。

金曜ロードショー

「君の名は。」が国民的大ヒット映画であるという認識が、そもそも私の直感に反する。あれは、三葉の胸や奥寺先輩の太腿といったお色気ポイントに過剰反応しない程度の免疫と、ハルヒ以降の「主観の色付けとしての時間軸」という新しい時間観を前提とした、高度なオタク教養が試される映画のはずだが。

「君の名は。」を観た者から、よく分からないという声を少なからず聞く。「三葉は死んだはずなのに、どうしてラストで生きているのか?」と思うらしい。お前は二時間もそこに座って一体何を観ていたのかと思うが、よくよく話を聞くと、「過去の改変はご法度」という思考が強固にあるようなのだ。

 彼らはどうやら、「三葉は父のもとに駆け付けたが、【隕石は落ちて結局みんな死んだ】」もしくは「過去に飛んで三葉を救った後、瀧は【三葉が死んだ世界線に戻った】」と思っているのだ。前者はただの憐れむべき読解力の欠如だが、後者はやや根深い。

 彼らに話を聞くと、「過去を改変するとタイムパラドックスで未来があぶない、糸守町を救うだけの改変などそう簡単に成立するわけがない」という弁明をする。バタフライ・エフェクトの呪縛! だが、『涼宮ハルヒの消失』を生きてきた我々は、違う時間観もあるということを知っているな。

 時間観というよりも、「世界」観の問題と呼んだ方がよいだろうか。「世界」を一個の統一体として見れば、確かにバタフライ・エフェクトは問題になる。だが、我々は「世界」をそのようには見ていない。物語内で描かれなかった「世界」、即ち糸守町と東京以外の場所は、存在しないに等しい。

 劇中で描かれている「世界」の外部は考慮しなくてよいということを理詰めで説明した作品を私は寡聞にして知らない。まどマギ然り、いつの間にか考慮しなくてよいということになっている。これは明らかにポストモダンの「大きな物語の終焉」と相似的であり、視聴者層の意識の反映なのかもしれん。

 この状況を準備したのはセカイ系だ。笠井潔の言葉を借りれば「社会領域の消去」、個人の問題を【何か考え得る限り最も大きな単位】へと膨らませるような作劇に慣れた視聴者だからこそ、タイムリープものでバタフライ・エフェクトを無視することが自然にできる。

 あるいは、「バタフライ・エフェクトは起きるが、その起き方には無数の可能性がある。劇中では【糸守町が救われた他にはほぼ何の変化も起きなかった世界線が選ばれて描かれている】」という納得の仕方もある。これはシュタゲで世界線という言葉が広まったから受け入れやすくなった考え方だ。

「瀧は【自分自身の属する世界線を改変した】のだ」ということ。作品を制作・鑑賞するにあたり、スコープを瀧と三葉の周辺に絞るということ。これらをどれだけすんなりと受け入れられるかには、かように世代的な差がある。「君の名は。」の分かりづらさには文化的背景があるのだ。

「なぜ瀧は口噛み酒で過去の三葉と入れ替わることができたのか?」という疑問は放映当初からあったが、これは世代というより魔術的思考の問題であるから、今さら深くは述べない。だが、長門有希の「形は必要ではない。同一の情報が行き来できれば充分」という言葉はここを理解するための一助になる。

 単に時間を戻したり遡ったりするのではなく、「三年前の三葉と入れ替わる」のがこのシーンだ。三葉が主で、過去が従。時間は世界を貫く剛体の棒ではなく、人間の属性の一つとして描かれている。相対性理論で、点の座標を(t,x,y,z)と表せば、時間はただの一成分になるのと同じ。

 時間だけが何か特別な情報であり、専用のワープホールを通る必要があるというのではない。酒に保存された三葉の情報をロードすれば、時間情報も含めてその三葉と合一できる。これこそ魔術的思考だ。この魔術の力を十分に高めるために、あの御神体というトーラス型をした儀式場がある。

「君の名は。」の御神体と、「ペンギン・ハイウェイ」の海は同じものだ。トーラスの中心、リーマン面の無限遠点。あれらは世界の外側であり、秩序が意味を失うところ、人間がかつて来ていつか還る集合無意識の闇そのものだ。瀧はそこにアクセスして魔術を行い、アオヤマ君はそこに生命の根幹を見た。

その後

『君の名は。』を、結局のところ瀧が年上の彼女をゲットする話として読もうとする言説を、以前どこかで見た。それはストーリー上の事実の摘示としては正しいが、批評やマーケット分析としてはセンスがない。再会時点で三葉が瀧より三歳年上であることなどは観客が意識せずに済むようになっている。

 私の思うに、恋愛モノとしての『君の名は。』の売りは、彼女を得るプロセスが「現実には最初から存在しなかったが、主観的にはあって然るべきだったものを“取り戻し”に行く」という形を取っていたことだ。これは、現代の多くの若者の恋愛観とよく合致する。

「あれは、夢……? いや、俺の……妄想?」 然り。この客層は、「彼女」という概念をフィクションによって聞き知り、性衝動と物語の魅惑によって親世代より強くそれを欲望しもするが、現実には生まれた時から様々な要因でそれを獲得することが親世代よりも困難な状況にある。

 彼女を作ることが、奪われていたものの奪還という形を取ること。奪還すべきものを示す夢/妄想(奪還の正統性を示すために、これは自分の体験した過去として描かれる)が、「相手の私的生活空間への完全な進入」という形を取ること。まさに分断の時代、「不審者声かけ事案」の時代の恋愛ではないか?

 糸守の御神体トーラスの上で接触した後、そのまま「時間なんて――狂ったままでいいんだ!」と叫んで二人で町長室に飛び込まなかったのは、そのような夢/妄想の次元上で獲得したものを、きちんと現実に持ち帰れるという保証が必要だったからだろう。夢の場に居座れば、現実に生きる観客は納得しない。

 正確に言えば、瀧の行いは“自分一人だけが知る”奪還である。『秒速5センチメートル』のような、客観的に存在した時間を取り戻そうとする物語とはこの点で異なる。瀧は、そして観客は、自分の望みが理不尽なものであることを知った上で、あるはずだった幸福をあらしめようとしているのだ。

 秒速では、もし過去の幸福を奪還できたなら、それは現在に補充されるだろう。しかし『君の名は。』では、幸福は過去の場から奪い取られているため、それは奪還されても過去に補充されるだけだ。ここでやっと秒速と同じ条件になるのであって、衆知の通り、ラストシーンの緊張は秒速の恐怖と同じものだ。

 子供においてすら男女間・家庭間の分断が進行し、幼馴染というものすら現実味を失ってしまったから、『秒速5センチメートル』から『君の名は。』への変化が起こったのだろうか? それは何とも判断し難いところだ。しかし『君の名は。』の方がより深刻な絶望感を背景にしていることは間違いない。

 以上の「俺だけの奪還」イメージの故に、瀧にとって三葉は交わらない過去でなければならなかった。他人の生活空間への強い憧れの故に、真逆の文化の相手と体を交換することを夢見た。観客に希望を残すために、一度別れて元の時間に戻った。再会した三葉が年上であったことなどは、その余禄に過ぎない。


〈以上〉

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