書籍『メタバース進化論』感想:美少女になるということ

前日譚

 私は表現の自由(特に性表現の自由)を尊重する者であり、美少女という概念はそれと切っても切り離せない。個人的に好きでもある。また、アイデンティティを自ら操作する営みにはオカルティズムや異性装を通して馴染みがあり、前時代においては鑑賞するだけのものだった美少女に「なれる」時代の到来は歓迎していた。

 もっとも、Vtuberの流行は追っていなかった。ノーベル賞解説記事騒動・アバター人身売買騒動・交通安全啓発動画騒動など、Vtuberに表現への抑圧が絡む場面では意見を表明したが、そのような場面でもなければVtuberの動画を観ることはなかった。Vtuberは当時も今もタレント稼業としての側面が目立ち、一方の私は人前でパフォーマンスをすることへの関心を失っていたためだ。2022年8月までに私が動画を一本でも観たことのあるアバター動画配信者は、実にキズナアイ・バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん・蘭茶三角・宇宙物理たんbot・負無オトナ・戸定梨香の六名のみであった。ただし宇宙物理たんbot氏が基調講演を務めた、2019年の天文教育普及研究会の年会に(まさにバーチャル美少女が学術分野で市民権をもぎ取る瞬間に立ち会うためだけに)現地参加したことはある。雑なポケモン考察動画も何本か観たかもしれないが、配信者のキャラまでは憶えていない。

 VR利用者のコミュニティが結構な規模で成立していることを私が知ったのは、丹治吉順記者の一連の記事[1-4]による。装いを変えることによって自己認識が変容するという効果、及び様々な欲望や社会的役割をシミュレートすることで自分のより深い望みを探れるという効果、私がオカルティズムや異性装や性的創作物を通じて慣れ親しんできた効果のことを、他の人々も恐る恐る口にするのが聞かれるようになった。当時の私はそれを若者文化への年配者の涙ぐましい歩み寄りとして見ていた。次いで数年が経ち、表現の自由絡みで見かけていたNPO法人バーチャルライツの存在感が増してきたことで、VRも私の身近に迫ってきた。当時の私はそれを後方彼氏面で見ていた。私が一般人のコミュニケーションツールとしてのVRを「面白くなってきた」と認識したのは、まとまった解説書籍が「美少女」の名で出てからのことである。

感想

電子式メタバースへの楽観

 2022年8月、バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論』を読んだ。メタバースが地球規模の人類進化を促すかという点では楽観的過ぎ、少なくとも第一次産業の完全自動化と払底しない電力が前提となる。食糧生産や燃料の採掘などが自動化される未来は想像できるからいい。しかし、なお二つの懸念がある。仮に地球上の燃料が枯渇するなり産油国が火の海になるなりして電気の使えない時代が訪れたとき、電子式メタバースは人類に何を残せるのかということ。そして、パソコンやVRゴーグルを買う経済力のない人間が億単位で存在する状況で、「人類史の革命」というほどの大風呂敷でメタバースを称揚することは摩擦を生みはしないかということだった。

 読了時点での私の姿勢としては、いずれの懸念に対しても、まずは先進国の人間がアイデンティティを弄ることで何らかの新しい思潮が生まれ、それが国際政治や経済の在り方に波及するというような、「魂のトリクルダウン」とでも呼ぶべき現象に期待しようと思っている。もしも文明が崩壊する前に人間の思考様式と社会構造に不可逆な革命を起こし、定着させることができれば、破滅を避けるためのさらなる思想や技術をそこから生み出すことができるかもしれない。どのみち私にはメタバースを称揚する道しかない。私はもはや美少女の文化を捨てることはできない。

 政治運動の俎上に上がるようなアイデンティティというものは現在の地球では一種の贅沢品かもしれないが、「汝自身を知れ」という不断の問いが人間の条件であり、そこから全ての価値や発展は生じると私は信じるものだ。

アイデンティティの変容

 一方、メタバースを享受できるならば人間に何が起こるか、という点では、概ねこの本で述べられている通りになるだろうと私も思っている。技術や法制度・経済活動に多少の不確実性はあるが、恐らくそれらは全て第4章の「アイデンティティのコスプレ」を巡って進むはずだ。筆者が饒舌になるのもそこだ――ただし、著者のバーチャル存在としての特異性はむしろ第6章の「経済のコスプレ」にあるのではないかと読了時点での私は思っている。

 自分のアイデンティティを改変するだけなら一人でも、また美少女という形式を使わなくてもある程度までできるし、新しいコミュニケーション様式を模索するなら狭いコミュニティで事足りる。つまり、VR技術の出現以前から人類のやってきたことだ。しかし、それらを永続させるには新しいアイデンティティとコミュニティの側に金策がなければならない。そして分人経済を実現することは、他の二つのコスプレと違って唯一、社会全体の変革を必要とする。分人に与える姿として好ましいものの最大公約数は美少女様式である。よって、これを掲げるからこそ「“人類”美少女計画」が筋の通ったプランとなる。事あるごとにクラウドファンディングで活動費用を賄ったりメディアにプレスリリースを打ったりするのも、美少女の名義で社会参加したり報酬を受け取ったりすることを普及させるためだろうと思う。

基礎知識パート

 第3章までの基礎知識パートについての感想は特にない。トラッキングやHMDの技術は「そんなものだろうな」と思うし、VRMのこともカスタムキャストが出た時に聞き知ってはおり、メタバースがNFTのことではないという話も「VRアバターによる精神の変容」という入口から入ってきた者には最初から誤解のしようがない。ただ、VRChat以外のソーシャルVRプラットフォームの存在は知らなかったし、利用者に占める20代の割合が多いことは意外だった。美少女の文化のインフラはできるだけ海外企業に依存しないことが望ましいと私は思っている。また、20代のソーシャルVRユーザーは暇と資金のある都市部の大学生に支えられているのではないかと推測している。

分人主義とアニミズム

「なりたい自分になる」という可塑性と、それがアイデンティティの上書きではなく「分人」として並存することを重視する姿勢に私は強く賛同する。 つまり、なりたい自分になった時に元の自分は消えなくてもよい、ということだ。TS物の漫画などにみられるように、新しい身体に沿った思考様式が元の人格を侵食する様子も破滅的でよいが、相異なる二つのものが上下なく対等に同居している「清濁併せ呑む」の様子の方を私は好む。

 ただし、対等に同居した後の取り扱いについては私と著者とで立場が違うかもしれない。私は最終的には相異なる二つのものを融合させて核融合のように巨大なエネルギーを取り出したいと思う。これは錬金術の格言である「分離し、溶融せよ(Solve et Coagula)」が意味しているところだ。対して、著者はあくまで外界とのコミュニケーションに際しての実用性を念頭に置くのか、分人として分けたままにしておくことをよしとするようだ。

 分人という概念は、旧来は一人の人未満の情報の束とみなされていたものを新たに人とみなすという点で、アニミズムにおいて神霊が生成される様子をそのままなぞっている。人でないもの、時には実体さえないものを人であるかのように見立てることによってこそ、人間は世界を広く深く理解することができるようになった。その遥かな道筋の上に現代の美少女という現象もある。私はこれを、不定形で広がった波動の「場」から粒子が生成するという場の量子論の描像になぞらえて、「美少女場の量子論」という数理的定式化を試みている。

美少女と政治

 ここで、「なりたい自分になろうとした結果がなぜ美少女なのか、それは正当化され得るのか」という批判に答えることは、今後の政治的舵取りのために避けられない。当事者の立場は当然、本書にあるように「美少女は女性ではなく、見立てによって生じるかわいさの象徴」ということになる。

 理想像として美少女を選ぶことが、現実の女性の実情を無視した単純化であり、「対等に扱わない」という点で差別の一形態ではないかという批判は常にある。美少女表現を擁護するなら、これに真正面から応えなければならない。差別のつもりはないなどと言っても、「無自覚であるならなお悪い」と相手は言うことができるからだ。

 有効な反論は、①美少女はいかなる意味においても女性ではない、②美少女はある意味で女性と重ね合わせることができるが、美少女表象を使うことによって差別が生じることはない、③美少女はある意味で女性と重ね合わせることができ、美少女表象を使うことによって差別が生じる可能性があるが、その差別は容認する余地がある、の三つのどれかしかない。私は①だけで押し通すのは無理があると思うし、著者も概ね①寄りの②のように思える。次に引用する記述のように、悪いとされるものを真っ向から取り上げて「実は悪さがない」と主張するやり方は、痛快で私の好むものの一つだ。

 本書から著者の見解を引用する。

全ての人が永遠に「未熟」であることを受け入れざるを得ない社会において、「大人としての自尊心」に変わる新たな価値観こそが、お互いの「未熟さ」を愛しいと思う価値観「かわいい」ではないかと私は考えています。

バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論』

 これは良い整理だと私は思う。

Kawaiiボイス

 声のコスプレもこの手の政治的問題と関わる。例えば、物理男性が女声を出すことを物理女性からの簒奪と捉える論考がある[5]。これは技術的に簡単に作れる声にも我々が思い描ける声にも幅が少なく、絵ほど物理女性からの乖離が進んでいないために起きた批判だろう。

 私は美少女の絵について「萌え絵は現実の女性の二次創作ではない……二億次創作だ……!!(だから、絵の取り扱い方が現実の女性への接し方に逆流するにはもはや縁が遠すぎる)」という言い方をよくするのだが、この論法は確かに声には使いづらい。女声を利用するには少数の両声類や高レベルボイチェン勢を除けば生身の女性を起用する必要があり、「おじさんが美少女を作る」という構図は絵ほど定着していない。また、声そのものの分類も大雑把であり、絵ほど細分化されていない。従って歴史的に元になった「女性の声」からの距離がまだ近く、美少女の絵のようにそれ自体で完結した再生産のエコシステムを成すまでに至っていない。しかし、ボイチェンが発達・浸透するならば時間の問題ではあるだろう。

 逆に、図像を一切伴わない美少女というものはありうるか、ということを最近では私はよく考える。あってもよいはずだが、2023年2月現在で実例を思いつかない。ある情報の束がある時点で姿を伴わなくとも、姿がないことに気づいた瞬間、我々はその情報の束に姿を与えることができてしまうからだ。人間の知覚能力が視覚に偏重していることはよく知られるが、他の感覚器で捉えた情報さえ最終的には視覚像という形に統合されるなら、聴覚・嗅覚・味覚・触覚とは視覚の侍女に過ぎないのだろうか? 当然このことは、視覚さえハックすれば他の四感の錯覚も引き起こせるというファントムセンス現象と裏表の関係にある。

 無言勢が8%もいるというアンケート結果には、手話でもないのにそれでコミュニケーションが成り立つのかという驚きがあったが、もしボイスチェンジャーの技術がさらに発達したなら「無言ならではのコミュニケーションの特質」というものも再発見されるのかもしれない。

 何でもできるようになったからこそ、何もしないことの価値が評価されるということはよくある。音声言語で話すことにもその時が訪れるかもしれない。ねこます氏は2018年に次のように述べている[3]。

 あえてボイスチャットを選択しないことで、キャラクターがすごくピュアになってくるんです。
 言葉を使うと具体的な「意思」が見えてしまうけれど、言葉がないと抽象的で純粋な存在になっていく。
 むしろ非言語だからこそ、集団やグループの中で果たせる役割があるということを、その人は「文字で」書いていました。実は自分もその人の声は一度も聞いたことがないんです。

丹治吉順『「できるならずっと仮想の世界に…」バーチャルYouTuberが見た境地』

 美少女のコミュニケーション手段としては、前述の視覚の優位性も相俟って、完璧なボイチェンのデスクトップ勢よりフルトラの無言勢の方が“強い”と私は思っている(コミュニティにもよるが)。

VR体験のハードル

 没入性をメタバースの定義に含め、さらにアイデンティティ(の構成)の変容を促している以上、本書ではデスクトップモードの話をしないし、機材が高いという嘆きにも寄り添わない(体験の価値に比べればタダ同然、と言う)。

 私の思うにここが本書の最も尖った部分であり、特色の表れた部分であろう。商品・サービスを売ったり関連株を高騰させたりしたいなら「スマホやデスクトップでもできますよ」「機材はレンタルもできますよ」と念を押して間口を広げるのが合理的だが、それは著者の眼中にない。VR特有の没入体験を通して心身を変容させることこそが真髄であり、その体験の価値を認めて投資できる者だけがアーリーアダプターであればよいという考えがここに滲んでいる。私もそれでいいと思う。自覚的な変革者とは全て選民思想家でもある。そうでなければ務まらない。

 ちなみに私の述べた「アイデンティティ(の構成)」という言葉は、「アイデンティティを自ら編み直せるものと考えるかどうかに関わるアイデンティティ観」というくらいの意味だ。アイデンティティが変容・選択可能なものであることは、文化盗用や性の簒奪のような言葉で政治問題化される程度には非自明である。

 現在、生活保護受給者であっても数万から数十万のスマホを買うように、それらの機材が生存と社会参加のために不可欠な出費とみなされるなら、VR機材も高いままでも買われるようになるだろう。そのための理論武装と根回しをしている段階が今なのだと私は思っている。

願望を探究する

 とは言うものの、「なりたい自分になれる」というキャッチコピーもかなり解像度を落とした言い方だろう。この点については本書の「おわりに」で述べられていることが全てで、どれほど技術が進歩しようとも、「なりたい自分とはどのようなものであるか、模索する手段を得られる」だけだ。

 コンピュータ技術は「速さ」の技術であり、シミュレーションのために使うのがその本懐だ。工業製品や自然現象だけでなく、欲望の充足や生き様についても「どんなものか試す」ということができるようになりつつある。

 私は性表現を「自分の欲望を認知し言語化する訓練に使える」という観点で擁護してきた中で、自分のしたいこと・なりたいものを探ることが多くの人間にとっていかに難しいかも理解しているつもりだ。それは個人に知性と忍耐と幾許かの運を要求する。それなくしてお手軽に人から示してもらえるものではない、人間の可能性はそのような狭いものではない。自分の真の願望を見つけられる者は少なく、それを叶えられる者はさらに少ない(人間の深い願望とは本質的に叶えることのできないものだとすら思っている。これは、叶えても次の願望が生じるという意味ではない)。しかし、今とは違う形で生きられる可能性を知ること、自分の心身に未踏の深淵があると知ることは、必ずや生に楽しみを加え、その副産物として社会に新しい発展をもたらすだろう。


 レビューに私の雑感が混じったが、全体としては定義論から始まり、各種サービスや技術の概観、そしてメタバースでの生活実感の紹介と、充実した内容だった。驚きがあるかどうかは読者の出自次第で、案外ないかもしれん。私にとって、内容に驚きはなかったが、これが書かれて技術書の体裁で商業流通に乗ったということは驚きであった。著者自身もそう思っているかもしれない。発達した科学技術はオカルトと見分けがつかない、というより、人の精神から発している以上科学技術もオカルトも向かうところは同じだということだろう。キラキラした記述を信じてよいかは、まあ、行ってみねば分からんわな。

さらに雑感1:錬金術

 錬金術に言及したが、錬金術には文字通りの贋金造りの側面の裏に、化学反応を心的プロセスに見立てて行う宗教的修行としての側面がある。「分離し、溶融せよ」を修行者自身の精神に対して繰り返し行うことで得られるであろう完全な人格が、即ち「賢者の石」の意味だった。

 メタバースの諸要素が、この分離と溶融(統合)をより簡便に、より徹底して行うことを可能にすると私は考えている。名とアバターと声によって自分の一部を粗く分離し、経済圏とコミュニケーションによってその分離人格の独立を促し、トラッキングによって一つの身体性の上に再統合する。

 ところで、私は再統合のプロセスを重んじると上でも述べたが、仮に意識と記憶をデータ化してクラウドネットワークに保存し、肉体を魂の座としなくなる時代が到来したなら[6]、人の同一性はどうなるのか? 意識と記憶を複数のコンピュータで同期するためにデータにハッシュ値が振られるだろうから、それが個人の同一性を担保するかもしれない。もしもそのような仕組みがなければ、記憶の連続性や個人という概念は成立しなくなるだろう。それぞれのアドレス上で生成しては揮発するデータの泡と、それらのデータの泡が総体として織り成す一つの思考プロセスのみが残る。そして、その思考プロセスを宿す計算機器群が新しい「身体」となり、外界と相互作用し、不自由を感じ、次なる拡張を始める。肉体が檻であるのではなく、檻であるものを肉体と呼ぶのだ。


 表情と身振りのトラッキングによって、アバターの纏うイメージ(「かわいい」)が操作者の心理にもフィードバックすることを既に丹治吉順記者が報告している。私は想像力や異性装によって同様の人格いじりをやってきたが、VRはそれをより効率化するかもしれない。

 ただし、このフィードバックは「もはや分離した人格をなかったことにはできない、何とかして折り合いをつけねばならぬ」という必要性を生じさせるだけで、どう上手く折り合いをつけるか教えるものではない。それには別の機構が必要になる。洋の東西のオカルティストもこのことを警告してきた。例えばエリファス・レヴィが『高等魔術の教理と祭儀』[7]の「入門」の章で述べている「奈落」とは第一にはこのことだと私は理解している。

魔術修行の道へは、向こう見ずに踏み込んではならない、しかし、一旦歩み出した以上は、行き着くか破滅するかどちらか一つしかない。迷うことは、狂うことである。立ち止ることは、斃れることである。後戻りすることは、奈落へ墜落することである。

エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀 教理篇』

 また、タルパの技術はアバターによってアイデンティティを変容させることに非常に近い。従ってタルパについて言われた危険性(解離性同一性障害や負の感情のスパイラルに陥ること)もアバターにそのまま受け継がれる。

 しかし、上の丹治氏の記事では触れられていない要素、即ち他のユーザーとのコミュニケーションがあれば、タルパの暴走のような事態はいくらか防がれるのではないかと思う。

 だが、深淵を渡りきるならば、その先には必ず人類の種としての進化があると私は確信している。己を知ること。その手段を守ること。私が表現の自由を擁護することも、精神分析的ポケモン観を掲げることも、結局は全てこの一つのテーマの傘下にある行いだ。

表現の自由の擁護:

精神分析的ポケモン観:

さらに雑感2:社会契約と『灼眼のシャナ』

 物理法則の異なる世界から渡り来て、各々の本質を表した姿で顕現し、世界の構成を弄り、不思議を起こす。我々はこのような存在を知っている。そう、“紅世の徒”じゃな。電撃文庫非公認『灼眼のシャナ』エヴァンジェリストである私は、ソーシャルVRにシャナとの多くの類似を見る。

 現代のシャナ研究においては、自在法をプログラミングのアナロジーで理解することが一般的だが、VRにおけるUnityはそのまま自在法に対応する。VRoidなどの人型アバター制作ツールは人化に相当するし、運営によるアップデート・BAN・アナウンスは三つの世界法則に対応するだろう。

 上記はソーシャルVRを通じてシャナを理解する一例だが、逆にシャナからソーシャルVRの発展を占うこともできるだろう。伝聞から推測するに、ソーシャルVRの現状は旧世界における『君主の遊戯』成立前夜か、新世界における混沌期に近いように見える。

『廻世の行者』(人間と異世界生物の共存を説いて回る者)や[仮装舞踏会バル・マスケ](異世界生物の互助組織。治安維持やこの世に来たばかりの者への指南を担う)に近い挙動をしている者たちは既にいる。最初は情緒と私刑によって、次には組織によって、どこまでを許しどこまでを許さないかの境界が探られ、いずれ彼我に共通する安全保障の枠組みが構築されるだろう。この点は物理世界と同じ経過を辿るはずだ。

 ここでもやはり、「汝自身を知れ」の原則が要となるだろう。そのためにも表現の自由が制度的に保障され、思想的に支えられる必要がある。さらにそのためにはプラットフォームは分散型であるべきだと思う。OculusやMetaがどれほど安くなろうとも私が買うつもりがないのはこのためだ。

「なんでもできる」という所与の事実と「何がしたいのか」という問いは、人類に限らず思考する物体の進歩の両輪だ。何がしたいかを明確にしようと努めなければ何でもできる環境を維持できず、何でもできる環境がなければ何がしたいかを探ることが満足にできない。

「新参と同じように、できる﹅﹅﹅ことの喜びに耽っていただけじゃないのかい?」
(中略)
「新世界『無何有鏡ザナドゥ』で君は、本当にそれ﹅﹅がしたかったのかい? そうなれる﹅﹅﹅﹅﹅ことの可能性を前にして、たまらず突き進んでしまっただけなんじゃ、ないのかい?」

高橋弥七郎『灼眼のシャナ クィディティ』[8]

 結局のところ、いずれ多くのユーザーが何らかの組織、及び組織間の同盟に巻き取られるのは避けられないと私は考える。物理世界の人間の多くが会社や学校のような所属先を持っているのと同じようにだ。これは分人であっても、地理的制約がなくても、オープンメタバースであっても同じのはずだ。

 ちなみに、2022年12月にVRChatに実装されたグループ機能、及び所属グループをネームプレートに表示する機能が、活動の主体を個人から組織に移すことになるのではないかと私は危惧していた。しかしあるユーザー曰く、グループ機能の大きな恩恵はフレンドがどのワールドにいるか探す手間を省くことであり、私の危惧は今のところ杞憂ではないかとのことである。

 また、無限の活用空間を持った世界が理想郷であるための条件は、シャナの前作である『A/Bエクストリーム』において語られている。安定したエネルギー供給、安定した食糧供給、ドロップアウトの保障、年齢によらない成人認定資格制度。これらは物理世界と協働しなければ実現できない。

 このような検討が可能になるのは、シャナがこの物理現実の歴史を写し取ったものだからだ。メタバースにおいてもある部分は必ず物理現実と同じような経過を辿る。それがどこであり、そうでない部分とどう整合していくべきかということを、予測と実運用で探り始めた段階なのだと思う。

表紙

 Vtuberに関心を持っていなかったこともあり、私が最初に認知したバーチャル美少女ねむ氏の顔はこの『メタバース進化論』の表紙である。そのため、私は著者に対してかわいいアイドルというより「仕事人」という印象を持っている。この表紙はメタバースに住民がいることを示さなければならないし、主張の核心からしてそれは絶対に美少女を含まなければならない、しかしポップな造形を前面に出すとナメられる。結果的にいい塩梅だと思う。

 この表紙は不思議で、見る角度、距離、光の加減、解像度、そして見る者の気分によって表情が変わる。極端な煽り・俯瞰アングル、低解像度、小サイズ画像など、特に口の部分の解像度が落ちる見方で見ると不敵に笑っているように見える。さらに解像度を落とすと睨んでいるように見える。しかし高解像度で正面から見ると「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」とでも言うために口を開きかけている表情に見える。一言で言えばこれは憐憫の表情である。物理書籍の扉にある白黒版の絵は「何か文句があるか?」と言いたげに見える。しかしそれらの物理的状況以上に強く影響するのが見る者の精神状態で、自己肯定感の高い状態で見ると笑っているように見え、低い状態で見ると憐憫に見える。この絵を等身大に拡大印刷して家の壁に貼ると魔除けになると思う。「メタバース鐘馗」とでも呼ぶべきものだ。

角度と色

シミュレーション再説

 実際には以下は再説ではなく、本書を読む前に流れてきた画像について思ったことである。

 概念図無印は一つの身体からもう一つの身体へのフィードバックとしてありそうなことだが、概念図2には但し書きが必要だ。自分の様々な可能性を発見しても、生の一回性に起因する楽しみと苦しみが解消されるとは限らず、「魂のリサイクルを含む全過程」が一回の生としてカウントされるようになる。

 生の一回性は、生が時間的に永遠に続くだけでは損なわれないものだ。選択されなかった可能性というものが、生の続く限り無数に生起するから。そのため、シンギュラリティの先の理想に据えるべきものは、むしろ一回性を喜んで受け入れる境地なのだろう。「100万回生きたねこ」のように。そこに向けて魂のリサイクル過程が果たす寄与とは、十分多くのサイクルを重ねる(ensemble)中で何か不変のものが統計的に抽出され、それを真に実現するために以降のサイクルを方向付けていく、そして実現した時に(または実現できないことを知った時に)生の終わりへ向かう、という形を取るだろう。

 言うまでもなく、ここで統計的に抽出されるべきものを「個人の性衝動の傾向」に絞って限定的なサイクルを回しまくっている(無限の性行動をマッハで歩む)のがネット以降の日本の美少女ポルノ文化であり、私が性表現を擁護する際の主張の中核となっている事実だ。


 概念図無印の美少女身体から魂へのフィードバックについて、「全員が美少女になれば結局中身で判断されるようになる」という主張があるが、美少女間に格差が生まれるとしても、もしも①美少女のガワが最低限の承認を保障し、②それが自己肯定に十分であれば、期待するような救済が起こるだろう。美少女形式による承認のベーシック・インカムとでも呼ぶべき現象が十分な強さで起こるかどうかについては、2023年2月現在の私は悲観的だが、期待してもいる。

 ちなみに、「無限の人生をマッハで歩む」についての上記の私の見解はエグゾドライブに一致する。見かけによらぬ傑作。


荒野

 2018年10月、いわゆる「『キズナアイ』のノーベル賞まるわかり」騒動の当時、私は美少女が真・善・美の象徴であるとは主張していたが、私自身には私のなるべき美少女の姿のビジョンが特になかった。ただし、強いてなるなら私の現実の容姿をそっくりそのままモデリングして「これは美少女である」と言い張るだろう、とは言った。バーチャルキャラクターをめぐる環境がもう少し面白くなれば参入するかもしれない、とも言った。その時は既に来ている。

これは美少女である

参考文献

[1] 丹治吉順『おじさんの心に芽生えた「美少女」 VRがもたらす、もう一つの未来』、「withnews」、2018.03.29更新、https://withnews.jp/article/f0180329000qq000000000000000W00g10701qq000017016A 、2023.02.16閲覧
[2] 丹治吉順『美少女おじさんたちの「楽園」で起きていること…急成長するVRの世界』、「withnews」、2018.03.30更新、https://withnews.jp/article/f0180330001qq000000000000000W00g10701qq000017035A 、2023.02.15閲覧
[3] 丹治吉順『「できるならずっと仮想の世界に…」バーチャルYouTuberが見た境地』、「withnews」、2018.03.31更新、https://withnews.jp/article/f0180331000qq000000000000000W00g10701qq000017019A 、2023.02.15閲覧
[4] 丹治吉順『おじさんを美少女化したテクノロジー 先端心理学が語る「VRの世界」』、「withnews」、2018.04.01更新、https://withnews.jp/article/f0180401000qq000000000000000W00g10701qq000017020A 、2023.02.15閲覧
[5] 黒嵜想『ボイス・トランスレーションーー“バ美肉”は何を受肉するのか?:後編』、「リアルサウンド テック」、2018.10.28更新、https://realsound.jp/tech/2018/10/post-269907.html 、2023.03.22閲覧
[6] 蘭茶みすみ『肉体廃止で自由を獲得!ミスミズムって何だろう?-トランスヒューマン』、「note」、2021.02.08更新、https://note.com/lancia_misumi/n/n53a92fc4fbff 、2023.02.16閲覧
[7] エリファス・レヴィ著、生田耕作訳『高等魔術の教理と祭儀 教理篇』、国書刊行会、1994
[8] 高橋弥七郎『灼眼のシャナ クィディティ』、「電撃文庫MAGAZINE 2020年5月号」、KADOKAWA、2020

関連記事

 本記事の英訳版をMediumに公開している。美少女の文化を、その実情や欲望の構造にまで踏み込んで外国に向けて紹介することは表現の自由のためにも日本の国際競争力のためにも急務だと私は考えるものだ。


〈以上〉

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