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【連載】古賀及子「おかわりは急に嫌 私と『富士日記』」⑧

いま日記シーンで注目の書き手である古賀及子さんによる、これからの読者のための『富士日記』への入り口。戦後日記文学の白眉とも称される武田百合子『富士日記』のきらめく一節を味読しながら、そこから枝分かれするように生まれてくる著者自身の日記的時間をつづります。

武田百合子著『富士日記』
夫で作家の武田泰淳と過ごした富士山麓、山梨県鳴沢村の山荘での13年間のくらしを記録した日記。昭和39年(1964年)から昭和51年(1976年)まで。単行本は上下巻で中央公論社より1977年に刊行、2019年に中公文庫より新版として上中下巻が刊行されている。


 日付があって、その日に食べたもの、買ったもの、人から聞いたことや行動が記される。『富士日記』は私たちのイメージする日記そのものだ。
 読むと、淡々と綴られる詳細な記録としての暮しのさまから、人というもの全体の雰囲気がどうしようもなく立ち上がってくる。ちょっとふつうの日記とは様子が違うようだぞと感じるころにはもう、文学としての豊かさを手渡されている。
 どういう秘密があるのか。研究して論じることは私には難しいから、『富士日記』の世界に自分のかつて見た景色を重ねてみるのはどうかと考えた。
 日記のある一文から発想し、記憶をたぐって私も書くのだ。
 同じようには書けない。でも同じ人間だから、下手でも呼吸ならできる。

✽ ✽ ✽

おもしろいほど喜ばれない

〔昭和四十二年〕九月十二日(火) くもり時々霧雨
  朝ごはんの前に電報配達来る。去年も来た人である。河出書房文芸賞審査会の日取りについて、返信料つき電報。
〔中略〕
 鳴沢局で電報を頼むと、ウナ電にしても二十円だけ余る、という。「いりませんから」と言っても「それでは困る」と言う。お互いに困って、「タケダ」を「タケダタイジュン」として丁度二十円使いきって、相方とも安心する。

武田百合子『富士日記(中)新版』(中公文庫) 236ページ

 昭和39年(1964年)から昭和51年(1976年)までの日々が断続的に描かれる『富士日記』の世界では、通信手段として頻繁に電報が出てくる。

 1979年うまれの私はもしかしたら電報を過去のものとして受け止めはじめた最初のほうの世代かもしれない。代名詞として頭にうかぶのが「チチキトク スグカエレ」で、なにしろ至急の連絡に使うのだろうという印象をずっと持っていた。

 武田家はその印象よりももう少しカジュアルに電報を使う。作家という職業柄と、東京ではない山荘に滞在することもその理由だろう。原稿の依頼や受け取り、来訪の延期といった知らせが届き、武田家側からはおもに原稿の遅延が発信される。

 引用では、返信料付きの電報を受け取っており、そんな往復葉書のような電報もあったのだ。ウナ電というのは英語の至急電報の意味だそうで、

英語の"urgent"(至急)を意味するモールス符号の電報略号“u”“r”が和文モールス符号では「ウ」「ナ」に相当する事に由来。

Wikipedia「ウナ」より

とWikipediaにあった。速達郵便みたいなものだろうか。この文章で読むまでまったく知らなかった。
 武田山荘には最後まで電話はなかったようだ。管理所やガソリンスタンドから電話をかけるようすが書かれている。

 それで電話のことを調べて驚いたのだけど、電話機が申し込みをしてすぐに取り付け可能になったのは1978年で、全国への即時通話が可能になったのはその翌年の1979年らしい(参考:https://hokusetu.co/denmame/denmame-e000202.php )。

 ちょっとまて、私が生まれたころじゃないか。すっかりインターネットが発達しきった今をたゆたう身として、まあまあ最初から未来人としてうまれてきたつもりになってしまっていたけれど、そんなことなかった。

 とはいえ、私がおとなになった2000年頃にはWindows95も出てパソコンもインターネットもじわじわ普及し、携帯電話なら普通にみんな持っていた。電子メールもショートメールも送れるわけで、至急の意味で必要があって電報を送ったことはさすがに一度もない。送ったことがあるのは祝電と弔電だけだ。

 どういうわけか20代のころ一時期祝電に凝ったことがあった。

 祝電というと結婚式場に送るくらいしか当時から習慣としてはほとんど残っていなかったんじゃないかと思うのだけど、私は精力的に打ちまくった。誕生日、出産、転職、快気祝い、なんでもよくて、とにかくお祝いで人が集まる場所があると聞いて、しかも自分が行けないとなると勇んで身代わりに会場に向けて打った。

 もともと子どもの頃から手紙を出すことが好きだった。書いたものが郵便というシステムに乗って指定の場所へ届く。自分の手を離れたものが物理的に移動することに興奮した。自分という実体の移動なくして、物体だけが動く。能力が拡張して遠くにこの手が届くようだ。

 電報は肉筆が届くのではないけれど、申し込むことで自分のメッセージが相手の手元に紙の状態で届くのに、同じ面白みを感じていたのだと思う。

 お祝いがあったら送ると、そう決めて数年は取り組んでいたのだけど、いつかついにやめた。

 結婚式やお弔いの場と違い、一般的なパーティーには電報を受け止める場が用意されていない。そういった場所に電報を送っても、電報は、はまらない(なんならお店にも相手にも迷惑だったろう)。

 ちょっと考えればわかることなのだけど、おもしろいほどに喜ばれないのだった。

 こういう若気の至りもある。

重いふかしパン

〔昭和四十年〕八月二十四日(火) 晴〔中略〕
 夜 ふかしパン、やき肉、きゅうりといかの酢のもの、スープ。ふかしパンの中に、主人のだけ、ベーコンを細かく刻んでまぜてみる。

武田百合子『富士日記(上)新版』(中公文庫) 149ページ

 ふかしパン、というのがよく出てくる。

 朝食にすることはなく、昼や、たまに夜にも食べる。買うのではなく、どうも作るらしい。ベーコンや芋を混ぜたものが出てきたり、翌日に備えてこしらえる様子も描かれる。

 買い物一覧に「ホットケーキの素」が頻出するから、この素を使って作るのかもしれない。ホットケーキの素で作った生地は焼かずに蒸せば蒸しパンになる。

 ちなみにホットケーキも『富士日記』にはちょこちょこ出てくるメニューのひとつで、ふかしパン同様、朝ではなく昼や夜に食べられるのだった。ホットケーキとお好み焼きを1枚ずつ昼に食べる日もあって、自由だ(昭和四十四年九月二十四日)。

 食エッセイではない文章にたびたび登場する、説明されないからこそむしろ伝わって気になる妙なおいしそうさが、ふかしパンにはある。この日はふかしパンにやき肉と酢のものを合わせているのが意外でいい。

 蒸しパンといえば母方の祖父を思い出す。

 祖母が先に亡くなって、一時期祖父は叔母に助けられながら一人で暮らしていた。都会住まいで買い物に困ることはなく、食事は自宅の近くにあるスーパーやコンビニで好きに買って食べていたようだ。

 そんななかで、袋に入って菓子パンコーナーで売られる蒸しパンは常備されていた。

 遊びに行くと祖父は強めにすすめてくる。「こんなの軽いんだから、食えよ」というのが蒸しパンを手渡すときのいつものセリフで、祖父は蒸しパンのことを、そのふわふわした食感から食べてもなんら人体に影響しない空気のようにとらえているところがあった。

 朝行っても、昼行っても、夜行っても、食前でも食後でも蒸しパンをすすめてくれる。

 けれど、どうだろう。蒸しパンというのは案外軽くはない。とくに袋パン系の蒸しパンは重量的にもどっしりしており、ふわふわ食感なのは確かとはいえむちっと密度を感じる、むしろ重めのパンではないか。

 祖父がひいきにしていたのは木村屋總本店の透明の袋に入ったもので、調べてみると祖父が25年くらい前に手渡してくれたのと同じとおぼしき商品「ジャンボむしケーキプレーン」は現役で販売中のようだ。

 カロリー値も公開されており、437kcalとある。

 高い!

 カロリーについて熟知しているとは言えないのだけど、どうだろう、437kcalというと3、4個食べれば成人女性の1日に必要なカロリーに届くくらいになってしまうんじゃないか。祖父のすすめる勢いは1個にとどまらず数個に及ぶこともあった。

 軽いわけないとは当時の私も察しており、ありがたくうけ取って半分くらい食べて残りは持ち帰ったこともあった。

 そうして思い返すと、祖父自身が蒸しパンを食べていた様子を、私はついぞ見たことがない。主に孫や来客にすすめるために蒸しパンを買い続けていたのだろうか。

 祖父は私が幼い頃からさらに老いて亡くなるまでスタイルが一貫して一定だった。痩せることも太ることもなかったように思う。蒸しパンを空気のように食べていたとは思えない。

 武田家のふかしパンはひき肉を混ぜることもあったらしく、菓子パンとして売られる蒸しパンとはもしかしたらちょっと様子が違うかもしれない。どちらかというと、中華料理的な蒸しパン、花巻みたいな物の方が近いだろうか。花巻は二次発酵までさせる必要があるから、ホットケーキの素で作る蒸しパンに比べるとだいぶ手間はかかる。

 「昭和 蒸しパン」などで検索すると、発酵させない、ホットケーキミックスやベーキングパウダーを使って膨らませるレシピが多くヒットする。やはりこっちか。

 武田夫妻は『富士日記』に描かれる山梨県の鳴沢村と東京の自宅である赤坂の二拠点で生活した。これはなんてことはない、偶然でもなんでもないただの事実なのだけど、祖父が死ぬまで暮らしたのも赤坂だった。


古賀及子(こが ちかこ)
ライター、エッセイスト。1979年東京都生まれ。2003年よりウェブメディア「デイリーポータルZ」に参加。2018年よりはてなブログ、noteで日記の公開をはじめる。著書に『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』『おくれ毛で風を切れ』(ともに素粒社)、『気づいたこと、気づかないままのこと』(シカク出版)。
【連載・執筆】デイリーポータルZ北欧、暮らしの道具店シカクのひみつマガジン
【ポッドキャスト】古賀・ブルボンの採用ラジオ
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note:https://note.com/eatmorecakes


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次回は7月17日ごろ更新予定です
見出し画像デザイン:鈴木千佳子

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