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【連載】古賀及子「おかわりは急に嫌 私と『富士日記』」⑦

いま日記シーンで注目の書き手である古賀及子さんによる、これからの読者のための『富士日記』への入り口。戦後日記文学の白眉とも称される武田百合子『富士日記』のきらめく一節を味読しながら、そこから枝分かれするように生まれてくる著者自身の日記的時間をつづります。

武田百合子著『富士日記』
夫で作家の武田泰淳と過ごした富士山麓、山梨県鳴沢村の山荘での13年間のくらしを記録した日記。昭和39年(1964年)から昭和51年(1976年)まで。単行本は上下巻で中央公論社より1977年に刊行、2019年に中公文庫より新版として上中下巻が刊行されている。


 日付があって、その日に食べたもの、買ったもの、人から聞いたことや行動が記される。『富士日記』は私たちのイメージする日記そのものだ。
 読むと、淡々と綴られる詳細な記録としての暮しのさまから、人というもの全体の雰囲気がどうしようもなく立ち上がってくる。ちょっとふつうの日記とは様子が違うようだぞと感じるころにはもう、文学としての豊かさを手渡されている。
 どういう秘密があるのか。研究して論じることは私には難しいから、『富士日記』の世界に自分のかつて見た景色を重ねてみるのはどうかと考えた。
 日記のある一文から発想し、記憶をたぐって私も書くのだ。
 同じようには書けない。でも同じ人間だから、下手でも呼吸ならできる。

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声に出してさびしい

八月三十日(月)今日も雨
〔前略〕雨が降るとめちゃめちゃにさびしい。主人がねている部屋のこたつに入っていて「さびしいなあ」と言うと、ねたまま「さびしいなんていっちゃいけない!!」と力のある声で叱るように急に言う。毎年夏の終るころは、夏の好きな私は「さびしい、さびしい」と滅多やたらにいっている。私がさびしいと訴えると「うまいものを腹一杯食べて、うんこをしてねておしまい」「ねると忘れるから早くねろ」などと、いつもは言うのに。やだねえ。

武田百合子『富士日記(下)新版』(中公文庫) 402ページ

 『富士日記』を読んでいると闊達で気丈で構わないようすで武田百合子という人が印象づく。それだけを受け取るとオープンで豪快なように人柄をとらえてしまいそうだけれど、読めばすぐにそれだけではくくれない、繊細な人のさまに気づかされる。

 構わないことと、繊細で多感であることは何の矛盾も障壁もなく淡々としてひとりの人のなかに同居可能だ。脳にセットされた印象に、しっかりと向こう側があることが知れる。日記文学の豊かさのひとつじゃないか。

 雨が降ってさびしい、夏が終わってゆくのもさびしい。引用は、泰淳が病気をして衰弱した作品終盤の日記でもある。抗いようのない寂寥を、口に出してちょっと騒いでみるようすには、まさにその闊達と繊細の混じりけがある。

 今年は、どうしてだろう春が例年よりずっと怖かった。

 そもそも桜が咲くのを私は毎年畏れている。それは桜というものの持つ魔的な魅力におびえている……というところももちろんあるけれど、おおむねは単純に「ちゃんとお花見をして桜の満開を楽しめるだろうか!」という、真性せっかちとしての純粋な焦りからだ。咲くからには桜を満喫したい、ちゃんとその利益を得られるか、損をしないか不安なんである。

 季節の移ろいに対していじきたない私は、いつも心にスタンプラリーのカードをぶら下げている。桜が咲けばお花見を、新緑の頃には芝の上でピクニックを、ちゃんとやりたい。できるのか、時間はあるか、一緒に楽しめそうな人が呼べるか大丈夫か、春が迫ると徐々に不安になっていく。すぐに終わってしまう桜の花の満開について、悔しい気分すら3月に入るとあらかじめ感じる。

 今年はどうもその不安が大きくて、それは私が会社を辞めたからなんじゃないかと、桜が咲いてから気がついた。去年の年末で会社員をやめてフリーランスになり、自宅でひとりで仕事をするようになった。

 勤めていた会社の前の道には街路樹にヨウコウザクラが植えられており、ソメイヨシノよりも少し早くに咲きはじめる。道行く人が写真を撮る。昼どきにオフィスビルから外へ出てくる人たちの服装が、この頃になるとずいぶん軽くなる。

 足をとめてすこし眺めて、会社で顔を合わせる人たちに、たいした感慨もなくついでみたいに「咲きましたね~」とやりあうことは、実は私にとって桜を楽しんだ手ごたえ、達成感をわかりやすく持たせてくれていたのだ。

 今年はそうやって、カジュアルに人と桜が分かち合えなさそうだぞと、ひとりで仕事をしながら身構えて、それで例年以上に怖かった。

 春に書いたあちこちの文章で、怖い怖いと書き散らしてしまった。声に出してさびしいと、言えばよかった。

ふたりとひとりの奔放と気まま

〔昭和四十年〕七月七日(水) ときどき雨
 昨夜は雨。
 今日は朝から降ったりやんだり。
 朝 ごはん、また、コンビーフ、スープ、納豆。
 昼 パン、牛乳、ゆで卵。
 夜 すいとん(茄子、ねぎ、ちくわ入り)。 
 午後、講談社佐久さんより電報「シンブンレンサイイタダキタシ」
 明朝早く東京へ帰ると主人言う。雨が降ると、すぐ帰りたくなるのだ。

武田百合子『富士日記(上)新版』(中公文庫) 104ページ

 武田百合子の一次的な印象を「闊達で気丈で構わないようす」と雑に書いた。そのうえでもう一声、言い表そうとして浮かび上がる言葉が、奔放だ。

 奔放ではあると思う。ぱっと思ったことを、そのまま後先考えず声に出すようすはしばしば描かれるし、さらっと出かけたまま戻ってこない百合子を、心配した夫の泰淳が管理事務所にジープを出させて捜した日記もある(『富士日記(中)新版』(中公文庫) 201ページ)。

 とはいえ、そう言って片づけられないところがあってどうも「奔放」の言葉は引っ込む。日記を読めば読むほど、奔放であってけっして奔放ではない不思議なパーソナリティが感じられる。その理由のひとつが、百合子を凌駕する泰淳の気ままなさまではないか。

 家の長として夫がいて、となりに妻がいる。泰淳の言うことを、とにかく百合子はそのまま受け取るのが基本的な2人の関係だ。しっかりと当時の時代背景が夫婦の力関係に感じられる。

 で、そんな一般的な時代の「夫婦」の枠のなかにあって、ユニークに立ち上がるふたりの立体感が『富士日記』のひとつの魅力であるのは間違いない。

 泰淳の気ままさは、家の長が長らしく発揮するトップダウンのようであって、それにしてもトリッキーで個性的だ。とにかく予定が流動的で、ひらめくように旅立つし、思い立って帰ると決める。段取りが好きな私などは読んでいてはらはらする。

 この泰淳の反射神経のままに動く百合子の様子もまた「らしい」ように見える。なにか言うこともほとんどなく、ゲーム中に新しい指令が出たみたいに抗わず応じるようすは、服従でもなく、諦念でもなく、愛のようにもどうも見えず、純粋だ。

 ところで私は、蕎麦屋に行こうと思うのに、身体が蕎麦屋を通り過ぎ、なんでかコンビニに吸い込まれて行くようなことがよくある。

 蕎麦屋に行くつもりが、コンビニでパンとかお菓子とかを買って帰って、家で静かにパンとお菓子を食べながら、どうしてこうなったんだろうと思う。

 行くつもりだったのを忘れたとか、行くつもりだったのだけど気が変わったとかじゃなく、行くつもりなんだけど行かない。たったひとりのなかなのに、どうも奔放と気ままがこんがらがって渋滞する。

 泰淳は山荘にいても「雨が降ると、すぐ(東京に)帰りたくなるのだ」とある。気ままな人にもどこか法則性があって、他者とのコミュニケーションにおいてそれは発見される。

 私のなかにある気ままさは、誰も見ていないから誰にも理由が分からない。なんで私は蕎麦ではなくってパンを食べているのだろう。ずっと謎のままなのだった。


古賀及子(こが ちかこ)
ライター、エッセイスト。1979年東京都生まれ。2003年よりウェブメディア「デイリーポータルZ」に参加。2018年よりはてなブログ、noteで日記の公開をはじめる。著書に『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』『おくれ毛で風を切れ』(ともに素粒社)、『気づいたこと、気づかないままのこと』(シカク出版)。
【連載・執筆】デイリーポータルZ北欧、暮らしの道具店シカクのひみつマガジン
【ポッドキャスト】古賀・ブルボンの採用ラジオ
X(Twitter):@eatmorecakes
note:https://note.com/eatmorecakes


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次回は7月3日ごろ更新予定です
見出し画像デザイン:鈴木千佳子

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