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【ためし読み】川井俊夫著『金は払う、冒険は愉快だ』②

関西某所のとある古道具店。その店主は、かつてブログが登場する以前のインターネットで多くの読者を魅了した伝説のテキストサイトの著者だった――中卒、アングラ水商売、アルコール依存症、ホームレスなど破格の経歴をもつ道具屋店主による、金と汗と汚物と愛にまみれた“冒険”の数々を唯一無二の文体で綴った痛快私小説。


 店の扉を開けて、誰か入ってくる気配がした。すみませんね、ご主人……いるかな? しゃがれた爺さんの声だ。
「ハイハイ、ここにいるよ」
 そう言って入り口からでも見えるように店の奥で座ったまま手を挙げる。
「ああよかった。入っていいかな。そっちかい? お願いがあるんだ。頼みごとってやつさ。聞いちゃくれないか?」
 体格のいいジジイだ。少し足を引きずっているが、背筋もしゃんとしてるし、年寄りにしては身体がデカい。とっぽい格好で、麻の白っぽいスラックスにお揃いのジャケット。坊主頭に薄い色付きの丸いサングラスを掛けて、ボタンを二つ外した開襟シャツの開いた胸元からは立派な刺青も見える。知らないジジイだ。
「頼みってのはこれさ」
 そう言ってジジイはビニール袋に入った米を出してきた。
「500円でも構わないんだ。郷里が北海道でね。私が食いものに困ってるわけじゃない」
 おいおい……見てわかんねえのか? 俺は買取り屋だ。骨董屋だよ。べつに高価な古美術品や骨董品じゃなきゃ扱わないなんてことはない。売れるならなんでも買うさ。だが米屋じゃないことくらいわかるだろ? ナメてんのかこの野郎! そんなふうにいつもの癖でジジイを怒鳴りつける。
「ダメかい? 湯呑みとか、そんなのだったらあったかな。困ってるんだ、なにしろ……」
 そもそもお前は誰だ。どんなボケ方をしたら縁もゆかりもない場末の骨董屋に米を持ち込むなんてことができるんだ? 狂ってるだろ。お前は狂ってる。だが困ってるってんなら話くらいは聞くさ。順序よく話せ。

 ジジイは俺の店がある築70年近い文化住宅の二階に住んでいる。この文化は一階にテナントが二つ。俺と隣の不動産屋だ。二階は安アパートみたいなのが三部屋あるらしいが、興味がないので詳しくは知らない。どうせ場所もクソだし建物もクソだから、普通の入居者はいない。いるとすれば生活保護の年寄りくらいだ。俺の借りてる店の真上の年寄りは数ヶ月前に死んだ。年寄りだから死ぬのは当たり前だしどうでもいい。俺はここに住んでいるわけじゃない。夕方には店を閉めて家に帰るから、二階の住人のことなんて気にしたこともない。とにかくジジイは俺の店とは反対側の二階の住人で、元ヤクザだが今は単なる生活保護の独居老人だ。酒も煙草も覚醒剤もやらずにひっそり暮らしてるらしいが、クソったれなのは大家に内緒で拾ってきた黒いメスの猫を飼ってることだ。もちろん避妊手術はなし、部屋のドアは常に開けていて自由に外と出入りできる。まあそこは田舎育ちの年寄りだから仕方ないのかも知れん。その猫が仔猫を5匹も産んだ。最初のうちはかわいいもんだと喜んでいたらしいが、いつの間にか乳離れしそうで、そろそろ勝手に動き回るようになってきた。なにを食わせたらいいのか、トイレはどうするのか、生活保護費で世話をするのは母猫1匹が精一杯だ。とりあえず仔猫用のキャットフードか離乳食をホームセンターで買おうと思ったが金がない。田舎から送ってきた米ならある。そうだ! 一階に買取り屋がいたな……

 途中で何度もツッコミを入れて殴りそうになったが、ジジイの話に噓はなさそうだし、マジで困ってるのは間違いない。俺は役人でも民生委員でもないからジジイに説教するつもりはないし、善人でも米屋でもないからジジイの米は買取らない。当たり前だ。完全に訪ねる相手を間違えてる。だがクソったれなことに俺は家で猫を6匹も飼ってる! 全部捨て猫や保護施設からもらってきたやつだ。ジジイは今すぐ死んでくれて一向に構わんが、猫の方はそうはいかん。とりあえず部屋に案内しろ。

 元ヤクザの爺さんの一人暮らしにしてはきれいに暮らしてる方だと思うが、1Kのボロアパートは完全に猫まみれといっていい。しかも仔猫は全部母親と同じ黒猫。玄関からぞろぞろ出てきて二階の共有通路で好き勝手にじたばたしてる。10秒で決めよう。悩むだけ無駄だ。ほとんど選択肢はない。
「おい、爺さん。これから俺の作戦を説明する。余計な口を挟むんじゃねえぞ。俺は米屋でも猫屋でもない。骨董屋だ。だから米は買わない。だが家で猫を6匹飼ってる。なんとかしてやるから安心しろ。まず、1匹は俺がもらってやる。全部もらってやりたいが、もう6匹いるからな。全部は無理だ。残りの4匹は保護団体を手伝ってる知り合いのオバハンに預ける。兄弟姉妹2匹ずつの方が貰い手が多いんだよ。俺の家で今飼ってる2匹もオバハンのところでもらってきたやつだから信用しろ。これは今日中にやる。今からだ。チビのうちじゃないと貰い手がない。早けりゃ早いほどいいんだ。そして明日の朝、母猫を病院に連れていく。検査して手術の段取りをする。獣医に自分の飼い猫だと自信を持って断言できるな? この1匹だけは一生を共にする自分の飼い猫だと約束しろ。できないなら今この場で死ね。オーケー?」

 確かに町の古道具屋ってのは近所の年寄りがなにかと相談にきたり、たいした用もないのに訪ねてきたりするもんだ。そいつを邪険にせず、ほどほどに相手していれば、いつか連中が死ぬとき、身の回りの品の処分や家の処分を俺に頼んでくるかも知れない。俺は態度も言葉も感じも性格も悪い男だが、死にかけの年寄りにはそんなこと関係ない。俺は泥棒はしない。それだけで充分だ。だが生活保護で暮らす元ヤクザのジジイの仔猫を世話してやってどうなる? 恩を売ったところでなにか見返りがあるとは思えない。とにかく妻に電話だ。
「悪いが事件だ。文化の二階に住んでる元ヤクザのジジイが仔猫を5匹抱えて店にきた。もちろん俺だって意味はわからない。とにかく前に兄妹猫をもらった宝塚のオバハンに連絡してくれ。1匹はうちで飼ってもいいが、残りの4匹を世話してもらいたい」
 妻にそう伝えて電話を切る。オバハンに連絡したらまたすぐ電話してくるだろう。それにしたってなんで俺の店にはこうおかしなやつばかり訪ねてくるんだ? 仔猫に食わせる飯がないから米を売りにくるやつがいるなんて想像できるか? 江戸時代の落語じゃねえんだぞ。未登録の番号から着信があった。
「今奥さんから話を聞きましたよ! 猫ちゃん! たいへんなんですって? ワクチンも検査もなにもなしね。大丈夫、今日中に獣医さんで診てもらうから。でも譲渡会も近いし最高のタイミングだわ! すぐ行くから待っててくださいね。お宅じゃなくてお店の方ね? 知ってます知ってます。それじゃすぐ向かいます!」
 このオバハンはいつも必ず家に何匹か仔猫がいて常に里親を探してるから、ひょっとしてそこらの猫が仔猫を産むたびに母猫から盗んでくる猫泥棒なのでは?と思わんでもないが、今はそのオバハンだけが頼りだ。最悪うちで預かれないこともないが、年寄りの先住猫がいるからあまり刺激的なのは避けたい。
「爺さん、今からボランティアのオバハンが来てくれる。このチビどもはちゃんと病院で検査して最低限の予防接種やらなんやらをしてから里親を探す。金のことは気にするな。ああいうのは実際に仔猫もらったやつが払うんだ。よくできてるだろう? この大きさなら致命的な病気さえなけりゃすぐ貰い手が見つかるさ。検査の結果次第だが、まあギリギリセーフだ」
 爺さんがポツリと呟く。
「いやぁアンタは神様みたいな人だね……」
 残念ながら俺は神様じゃなくて道具屋だ。だから一つ貸しだ。死ぬ前になにか思い出せ。道具屋に買取ってもらうのに相応しい何かがまだあんたの人生に残されてるかも知れない。忘れるなよ。毎日5分間、思い出すために集中する時間を作るんだ。そしていつか俺の名刺を握りしめて死ね。

 オバハンより先に妻が自転車でやってきた。まあ家から店までは下り坂で10分もかからない。状況を心配してというより、単に仔猫が見たくてきたみたいだ。もう出会って15年、結婚して10年になるが、初めて会った頃とちっとも変わらない。身長145センチ、体重38キロ。ショートカットの黒髪。今どきの小学生より小柄で、医者の娘だから筋金入りのお嬢さん育ちだ。その妻がジジイに挨拶をしている。それからボロアパートの階段を上がって仔猫を見に行った。妻は俺とは正反対に、他人の善意しか見ない。悪意や邪悪な思惑は存在しない前提で今日まで生きてきた。今後も生きていくだろう。なぜそんな絵に描いたようなお嬢さんと俺みたいな悪党のクソ貧乏人が結婚して、医者の一家に婿入することになったのかは、説明が難しい。話せば長くなる。150万字でも足りないだろう。だいたい俺はその理由を知らない。出会った当時、俺には住む家も仕事も金もやるべきことも、なにもなかった。ただ酒を飲んでひっくり返り、死ぬのを待っていただけだ。妻に拾われ、結婚するまでのロードマップを示された。俺は死ぬ以外にもうするべきことがなかった。だから妻の指示と助言に従った。いいぜ、俺にはもうこの生命の使い途がない。あんたのために使うのも悪くないさ。なにしろ他にやることはなにもないんだ……なぜ俺なのか。なぜ結婚なのか。俺は今でもわからない。その謎と秘密は妻しか知らない。知りたいとも思わない。俺の人生で初めて見つけたマシなもの。それが妻だった。他のことはどうでもいい。

 オバハンは原付の足元に普通サイズのキャリーバッグを一つ乗せて登場した。
「いや絶対5匹も入らねえだろ! しかも原付かよ! そこのホームセンターで適当なの買ってくるから俺の車で行こう」
 だが信頼と実績の猫泥棒のオバハンは自信たっぷりだった。全然平気よ。チビちゃんたちなら全員これに入るわ。車も必要ない。バイクで10分だもの。心配しないで……なんて大胆なババアなんだ! お前がコケたらどうすんだよ! 俺の車でいいだろうが! だがババアにはババアのスタイルがある。信頼と実績。それほどババアをよく知ってるわけじゃないが、誰にだって自分のやり方ってやつがあるんだ。実際にババアは小さなキャリーに仔猫をパンパンに詰めて、両手で抱えたそいつを原付の足元に置いた。マジで入るのかよ?
「1匹はうちでもらうよ。あとで迎えに行くから病院が済んだら一度妻に連絡してくれ。ありがとう。助かるよ。絶対にコケるんじゃねえぞ!」
 元ヤクザのジジイと妻と俺の3人でオバハンのボロい原付を見送った。頼むから事故らないでくれ。一生寝つきが悪くなる。

 翌朝の8時50分には爺さんとその飼い猫を乗せて、俺の車で動物病院に向かった。生活保護費でも猫1匹くらいは飼えると思うが、避妊手術の意味や外と自由に出入りさせて飼うことの意味が理解できるのか? まあそのあたりの話は獣医師に頼もう。ヨボヨボの犬を連れたヨボヨボの爺さんの相手とかには慣れてそうだからな。俺は金を出すだけだ。爺さんには検査の金も手術の金もない。一応元ヤクザだし、俺よりずっと年上だから「俺が出すから黙ってろ」では納得しない。立て替えておく、という名目で毎月1000円でも2000円でも可能な範囲で店まで返しにこいと、そうすることに決めた。大家はどうでもいい。クソボロい建物だし他に住人もいない。俺が頼めば猫の1匹や2匹なにも言わんだろう。動物病院までの道中は爺さんの武勇伝というより、極道時代の爆笑トークで少し盛り上がった。ユーモアがあるのはいい傾向だ。誰もお前のことなんて知りたくないことを知っている。だからユーモアはサービス精神の現れだ。ジジイは身体もデカくて丈夫そうだし、頭も問題ない。本当に困ったとき、階下の骨董屋のおっさんしか相談できる相手がいなかった、という孤独の正体も理解しているはずだ。

 結局、母猫の手術までには少し時間がかかった。最初に診てもらったときはまだ乳が腫れていたからだ。獣医師はうちの猫を10年診てもらってるから信用できる。爺さんにも避妊手術やワクチンの話をしてくれたみたいだ。俺は爺さんとその飼い猫「クロ」を乗せて店のある文化住宅と動物病院を1ヶ月で4回くらい往復したと思う。短い道のりだが、多少はお互いに話をして、理解できる部分も増えた。そして手術が終わり、同じ日の午後に爺さんを乗せて動物病院まで「クロ」を迎えにいったときだった。
「やっぱりつらかったのはね、私が15かそこらのときに、母親に頼まれて、遠縁の農家に貸し出されたんだ。1年間で4万円だったと聞いた。それが2年続いて、本当に冬はつらくてね、そんなあんた岡山や九州の百姓じゃないんだ。北海道の百姓だよ。それが真冬でも軍手を一組渡されるだけで、飯もろくに食わせてもらえない。世話していた馬と同じものを食ったよ。さすがに3年目も頼まれたとき、いくら母親の頼みでもそれは聞けない、二度とごめんだと断って、東京でヤクザになったんだ」
 そうかい、そいつは大変だったな。まだ日本中に貧乏人が溢れていた時代だ。俺はそんな時代の人間じゃないが、こういう商売だからな。年寄りの相手もするし、なにより古いものを扱う。だからわかるぜ。そういう時代だったんだよ……いや待てよジジイ。そいつはいつの話だ? 年間4万円の年季奉公だって?
「絶対に忘れないよ。昭和30年さ。私は15歳だった」
 ふざけんじゃねえぞジジイこの野郎! あんた今いくつだよ!
「今年で83歳になる」
 クソったれが! お前の猫はまだ3歳だぞ! お前の方が先に死ぬじゃねえか!
「いやぁ、そりゃ私も100歳まで生きられるとは思わないし、生きたいとも思わないよ。しかしあの獣医の先生もあんたも、本当に神様みたいな人だね。優しくて、辛抱強くて、たいした人だと思いますよ」
 なにをかしてやがる! このボケナスが! ようするにあんたが死んだら俺が「クロ」を引き取らなきゃいけないってことだ。クソッ! クソったれが! 絶対に70代だと思ってた。こんな身体がデカくて背筋の伸びた80代のジジイがいてたまるか!
「やっぱり若い頃に鍛えられたのが効いたかな。足だけは少し悪くしたけどね、他はどこも悪いところはないし、私は元気だよ。まったくクロのことはいつかあんたによろしく頼むしかないかな」


 うちにきたチビ猫はあっという間にデカくなって、2週間もしないうちにケージを飛び出し、他の先住猫のメシを勝手に食い、トイレも好き勝手に使うようになった。毛並みが整ってくると、光の当たり方によっては真っ黒というよりっすらと黒よりさらに濃い縞模様が見えるようだった。名前をつけてやろう。母猫と同じ「クロ」じゃあんまりだ。うちの猫はみんな毛色からとった名前をつけている。妻が言った。
「檳榔子黒のビン太郎ね」
 上等な染物の名だ。
「そういえば、あの爺さんの話、お前にしたっけ? 歳を尋ねたら、83歳だった」
 妻の笑い声。少女がはしゃいでるみたいな声だ。少しだけ耳障りな高く澄んだ音色。
「でもきっと、お爺さんに悪気はなかったと思うわ。あなたと一緒。1年後のことだって考えない。今、自分の目に前にあるものが世界の全部。そういう人なんだと思う」
 まあお前がいいならそれでいいさ。今さら猫の1匹や2匹増えたところでどうってことはない。ジジイもいきなり死んだりはしないだろう。


 婆さんが一人、店の入口の向こうに立っていた。寸足らずの毛羽立った臙脂色のズボンと、同じような感じの上着を着ているが、明らかに問題があった。両手で電子レンジを抱えてる。俺は骨董屋だ。電子レンジは買わない。なのに電子レンジを両手で抱えた婆さんが店の前に立ってる。またイカれたクソ野郎の登場だ。いい加減にしろ。俺の人生をなんだと思っていやがる。嫌な予感しかしないが、いざとなったら婆さんを殴り倒そう。そう心に決めて入口のドアを内側から開ける。婆さんはそのままの姿勢で一歩も動かず、満面の笑みで電子レンジの蓋を開けた。パカッ。中にはキャンディの包みみたいなやつがたくさん入っていた。
「婆さん、俺は子供じゃない。キャンディはいらねえよ」
 骨と皮だけになった婆さんの手が無造作にレンジの中身を摑む。
「ついでに言っとくと、そいつは電子レンジだ。コンセントに挿して、冷めた料理とか、マグのコーヒーなんかを温めるための機械だよ。意味わかるか?」
 婆さんはただニコニコしている。いつまでたっても目の前からいなくならないから、仕方なしに包みを受け取った。包みの中身はキャンディじゃなくて、チョコレートだった。そいつを二粒ほど口に放り込むと、婆さんは満足して去っていった。

 元ヤクザのジジイは今も毎月2000円と一緒に長芋やらトウモロコシやら米やら牛蒡ごぼうやらを持って店にやってくる。ムカつくが長生きしろ。成猫を保護して飼うのは仔猫よりずっと難しいんだ。


https://hanmoto.com/bd/isbn/978-4-910413-11-2

川井俊夫|かわい としお
1976年横浜生まれ。中卒、アングラ水商売、ヒモ、放浪、酒で大暴走、ホームレス、放浪、ヒモ、ホームレス、結婚、会社員を経て、現在は関西某所で古道具店を経営。「川井俊夫」は筆名。かつて運営していたテキストサイトの文章をまとめた電子書籍『羽虫』(2014年、elegirl刊)には作家のこだまさんが推薦の言葉を寄せている。
Twitter:@toshiokawai1122


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