【連載】古賀及子「おかわりは急に嫌 私と『富士日記』」⑨
いま日記シーンで注目の書き手である古賀及子さんによる、これからの読者のための『富士日記』への入り口。戦後日記文学の白眉とも称される武田百合子『富士日記』のきらめく一節を味読しながら、そこから枝分かれするように生まれてくる著者自身の日記的時間をつづります。
▼武田百合子著『富士日記』
夫で作家の武田泰淳と過ごした富士山麓、山梨県鳴沢村の山荘での13年間のくらしを記録した日記。昭和39年(1964年)から昭和51年(1976年)まで。単行本は上下巻で中央公論社より1977年に刊行、2019年に中公文庫より新版として上中下巻が刊行されている。
日付があって、その日に食べたもの、買ったもの、人から聞いたことや行動が記される。『富士日記』は私たちのイメージする日記そのものだ。
読むと、淡々と綴られる詳細な記録としての暮しのさまから、人というもの全体の雰囲気がどうしようもなく立ち上がってくる。ちょっとふつうの日記とは様子が違うようだぞと感じるころにはもう、文学としての豊かさを手渡されている。
どういう秘密があるのか。研究して論じることは私には難しいから、『富士日記』の世界に自分のかつて見た景色を重ねてみるのはどうかと考えた。
日記のある一文から発想し、記憶をたぐって私も書くのだ。
同じようには書けない。でも同じ人間だから、下手でも呼吸ならできる。
✽ ✽ ✽
まずいたべもの
『富士日記』には、まずいものが出てくる。
昭和にあって、令和にないもの、そのひとつが外食におけるまずい食べ物じゃないか。
口が肥えた人であれば令和の世でも「これは美味しくないな」と感じることはあるかもしれない。とはいえ、味付けや加熱に不備があるとか、口に合わないとかを通り越して、ずばり「まずい」とまで言わねばならない食べ物は、外食では今やそうそう飛び出すものではないように思う。
それにしても三色弁当のこき下ろされ方ときたら過激だ。「‼️」も力強い。ここまでのものが、この時代は手に入るのだ。
ちなみに泰淳は同じ食堂でカレーライスをとっている。これはカレーライスならどこで食べてもカレーの味がするから、らしいのだけど、にもかかわらず実はこれ以前に同じ食堂でまずいカレーライスを食べたエピソードもちゃんとあるから油断できない。
私は料理が得意でない。外食ではまずさに立ち会うことはほぼないものの、残念ながら美味しいとは言えないたべものをこの手から生み出してしまうことが、ある。
料理下手が料理をするときに心がけねばならないのは、レシピに忠実に作ることだ。よかれと思って勝手なことをしたり、都合で勝手なことをしたり、なまけて勝手なことをしたり、とにかく勝手なことをするとどんなに簡単なレシピでも失敗する。
身に染みてわかって心がけてはいるのだ。けれど、どうしてもよかれと思うし、都合があるし、なまける。
先日は、鳥のもも肉を使うレシピを探していて、これはおいしそうだと、冷凍庫にストックしてある肉をまる1日かけて解凍した。いざ調理しようと、肉を取り出したらもも肉ではなくむね肉だった。
もも肉とむね肉は、ぜんぜん違う。食材として同じものではない。
けれど私は、ようし作るぞと、レシピを手にして完全に気持ちを仕上げている。ここでちゃんと「あちゃ〜、仕方ない、むね肉の別の料理を作ろう」と引き返せる、その力こそが料理が上手であるということそのものだ。
料理は、味覚が鋭いとか、手際が良いとか、レシピや材料や調味料のことをよく知っているだけではうまくできない。
料理上手とは、態度のことだ。食べることが好きで、料理が好きで、ちゃんとした料理を作ろうという気概にあふれている、それが料理が上手だということではないか。
私は態度が甘い。
見て見ぬふりをして、平気でもも肉のレシピをむね肉で作った。むね肉だから片栗粉をまぶしておこうとか、そういう工夫もしない。
結果、もも肉で作るために最適化されたジューシーに仕上がるはずの料理とは、まったく違うものができあがった。
食べてみると、まずいわけではない。味付けはレシピ通りでさすがにちゃんとしている。むね肉は独特のぱさつきや硬さはどうにもならなかったものの、肉自体のうまみはちゃんとあって食べられる。
店で出てきたらびっくりするけれど、家庭でクローズドに食べる分にはこういう日があってもいいんじゃないかという程度には仕上がった。
料理が下手とはいっても、所詮この程度だ。いよいよ三食弁当の味が気になる。食べるものがバカだと思えてくるほどの弁当だ。
「わざわざ」以前の瓶ビール
『富士日記』のひとたちはビールを(そのほかの酒もだけれど)めちゃくちゃに飲む。泰淳が常に飲むし、百合子も飲む。誰かが山荘にやってくるとまずビールを出すし、よその家に行ってもすぐビールが出てくる。機会が多い、量も多い。
『富士日記』は買い物と食事の内容がつぶさに記されていて、おかげで山荘へどれだけの量のビールが運び込まれているか、読者は目の当たりにすることができる。ビールは基本、打(ダース)単位で買い込まれる。
罐ビール(かんビール、とも表記される)も瓶ビールも出てくる。罐ビールが登場するのはおおむね泰淳が車の中で飲むときで、山荘内で飲む様子もあるにはあるけれど、おおむね家で飲む分は瓶だったんじゃないか。
私は昭和54年、『富士日記』のあとの世界ではあるけれどそれなりにまだしっかりと昭和のころに生まれた。思い出して自分でも驚いたのだけど、子どもの頃は自宅にふつうに瓶ビールがあった。
父は酒が好きで毎日必ず晩酌をした。瓶ビール、あれは中瓶だったのか大瓶だったのか、栓抜きで栓を抜いてグラスに注ぐ。ビールを飲むのはもしかしたら夏だけだったかもしれない。自宅で瓶ビールを飲む父がいる景色は、夏の記憶だ。
テレビではナイターが流れる。父のひいきは読売だった。当時暮らした団地は隣がゴルフの打ちっぱなしの練習場だった。窓の向こうに暮れていく日のなかに、ぼんやりと照明で照らされた練習場のネットがうかびあがる。私たちきょうだいはスイカを食べる。
子どもにとって、ビールはおもしろい。グラスに注ぐと液体の上にもこもこと白い泡の層ができるのを真横からじっと見た。
私が側で見ていると、父は瓶を栓抜きでカンカンと叩く。すると泡の膜が瓶の首をじわじわと上がってくる。やがて、瓶の口のところで気泡のように盛り上がってはじける。私もやってみるのだけど、不思議とこれがうまくいかないのだ。
家族の食事は終わったあとで、つまみに母はたたみいわしをよく焼いた。しらすを平べったくのして板状に固めてあるやつだ。ねだると少し割って分けてもらえる。しょっぱくて香ばしい。
真夏でも日が落ちてからはもう暑くなかった。窓を開けて風を入れた。こうして書くと、絵に描いたみたいなほとんど噓みたいなむかしの夏の景色を私は経験したのだ。母に聞いたところ、あの瓶ビールは酒屋に頼んで配達してもらっていたらしい。そういえばビールのケースがいつも家にあった。昭和のぎりぎり終わりあたりのこと。
それから40年(!)、私はビールが好きな大人になった。家でも外でも酒といえばビールしか飲まない。
外でビールを飲むとなると生ビールを出す店がほとんどか。瓶ビールしかない店ではよろこんで瓶ビールを頼むし、生ビールと瓶ビールの両方を揃える店がある場合も、なんとなく瓶ビールを選ぶ。
瓶なら数人で分けあえて、お酌をしても手酌でも1本を一緒に飲むさまがちょっと関係を近くするのがおもしろい。瓶ビールには冠婚葬祭の気分があって、そこにいる人にちょっとした親戚のような親密さを感じさせる。
と、わたしは粋がっていたのだけど、あるとき生ビールか瓶ビールか、選んで瓶ビールをとろうとしたところ、一緒にいた友人に「瓶ビールって、おしゃれですよね」と冷やかされて愕然とした。そうか、瓶ビールは、もはやわざわざ選ぶものであり、おしゃれなものかもしれない。これは喝破だなと感心してうなった。
いつかの正月、親戚が紙のケースに入った瓶ビールを贈ってくれた。銘柄はサッポロの黒ラベルだったか、キリンの一番搾りだったか。
わっと喜んで、台所のテーブルに置いたら思った以上にしっくりくるのだ。もう何十年も自宅に茶色い瓶ビールがあるのをみることなんてなかったのに、珍しく感じないのは父の晩酌の様子が記憶に刷り込まれていたからだろう。おしゃれというよりは、これはこれで、自然だったように思う。
最近実家に行ったら、父は生ビールを飲んでいた。家庭用の会員制生ビールサーバを契約したらしい。プロ野球は今は西武を応援している。
古賀及子(こが ちかこ)
ライター、エッセイスト。1979年東京都生まれ。2003年よりウェブメディア「デイリーポータルZ」に参加。2018年よりはてなブログ、noteで日記の公開をはじめる。著書に『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』『おくれ毛で風を切れ』(ともに素粒社)、『気づいたこと、気づかないままのこと』(シカク出版)。
【連載・執筆】デイリーポータルZ|北欧、暮らしの道具店|シカクのひみつマガジン
【ポッドキャスト】古賀・ブルボンの採用ラジオ
X(Twitter):@eatmorecakes
note:https://note.com/eatmorecakes
【隔週更新】
次回は7月31日ごろ更新予定です
見出し画像デザイン:鈴木千佳子
連載は以下のマガジンにまとめています
古賀及子さん日記エッセイ好評発売中
ほかにも素粒社の本いろいろあります
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?