見出し画像

【ためし読み】川井俊夫著『金は払う、冒険は愉快だ』①

関西某所のとある古道具店。その店主は、かつてブログが登場する以前のインターネットで多くの読者を魅了した伝説のテキストサイトの著者だった――中卒、アングラ水商売、アルコール依存症、ホームレスなど破格の経歴をもつ道具屋店主による、金と汗と汚物と愛にまみれた“冒険”の数々を唯一無二の文体で綴った痛快私小説。


 朝の7時30分に携帯電話が鳴る。番号は登録してあるやつだったから、画面には数字ではなく俺が自分で入力した名前が出る。相手は「茶道具がたくさん、早口でうるさいジジイ」だ。登録してあるということは、当然過去にこのジジイから連絡があり、依頼を受けて仕事をしたことがあるということだ。記憶を辿る必要はない。すぐに思い出した。最初の依頼は6月だ。クソ暑い中、とんでもない量の茶道具を買取るハメになった。

 そのときの前置きはこんな感じだ。死んだ父親は金のかかる遊びや賭け事などもせず、真面目な人間だった。同郷だった某が自らの窯を構え、作陶を始めた頃、同級生のよしみで某の作品を買い始めた。父親が仕事で出世して年収3000万近くになった頃には、完全に某のパトロンになっていた。幸い某は父親の支援もあって、定期的に百貨店で個展も開き、作陶だけで食える一人前の陶芸家になった。ジジイ曰く、その某の作品、茶碗やなんかの茶道具が、押入れの中に何十個もある。とりあえず見に来てくれないか? 今どきこんなものが高く売れるとは思っていない。従兄弟に勧められてネットなんかでも調べたんだ。一つ数千円がいいところだと思う。アンタに見に来てほしい。

 よく喋るジジイだと思ったが、頭がイカれてるわけでも、ボケてるわけでもなさそうだった。作家の年齢や出生地と父親の関係にも不自然なところはない。こっちが説明しなくても今どきその程度の作家の道具がたいして金にならないことも承知してる。話した感じは少しへんなジジイだが、印象は悪くはない。茶道具の10個や20個なんてラクな仕事だ。もっとクソみたいなガラクタを車に山積みして1万円も儲からない仕事はいくらでもある。マイナー作家の茶道具なんてたいして儲かりはしないが、損するわけでもないし、1時間もあれば済む簡単な仕事だ。

 そんなわけで去年の6月に「早口でうるさいジジイ」の最初の仕事を受けた。指定された家に行ってみると、明らかな空き家に見えた。ガレージはガラクタが山積みだし、敷地内は雑木林みたいだった。二階建てのそこそこ立派な家には蔦や枯れ草がびっしり張り付いている。死んだ両親の家を長いこと放っておいたのかも知れない。問題の依頼者はやたら元気よく「ありがとう! わしは電話で話しただけでも人の良し悪しがわかんねん! あんたはいい人だよ。真面目で誠実な人に違いない。間違いない! 自信がある!」そんなふうに叫びながら登場した。イカれてるし、とても金持ちの両親の下に生まれた坊ちゃんには見えない。服装は一言で言えば尼崎の競艇場で舟券を買ってるジジイだ。禿げ散らかした頭にクリクリと大きな丸い目だけが若々しい。ほんまにこれお前の家なんか? 新手の詐欺では? 一瞬そんな気がしたが、70手前くらいの年頃で、死んだ自分の父親のことを「父さん」母親のことを「母さん」と呼ぶ感性、習慣は確かに少し上品な感じがする。こいつはきっと長いことアホな放蕩息子だったんだと、俺はそう考えることにした。

 玄関から足を一歩踏み入れた瞬間、完全にヤバい感じがした。小動物の糞尿の臭い、ネズミの糞、無造作に放ってあるゴミ袋やペットボトルの山。ゴミ屋敷まではいかないが、まあまあゴミ屋敷的だ。まさか、空き家だとばかり思っていたが、住んでるのか? こんな不潔な空間で生活を? 土足で上がったらダメか? ジジイが言うには両親の介護のために、数年前に東京から戻ってきた。彼の東京での職業は訊かなかった。どうでもいいし、話が余計に長くなる。とにかくジジイはこの家で両親の介護をして看取った。こんなゴミ屋敷みたいなところで、尼崎の競艇場で舟券を買ってそうなジジイがまめまめしく両親の介護をしていたとは到底思えないが、ジジイが詐欺師じゃないなら事実なんだろう。或いは両親を看取ったあと、家は荒れ始めたのかも知れない。ジジイ自身もいろいろ億劫になる年齢だ。

 とにかく問題の品のところへ案内してもらった。デカい家だから部屋がたくさんある。ジジイは「今日はここだけや。すごい数なんで、とても自分一人では処分でけへんし、できれば信用できるアンタに買取ってほしい」俺はまだなにもしていない。なのに信用できるという。やはり少しイカれてる。まあ相手の年齢を考えればこの程度の狂気は許容範囲だ。六畳間に置いてある木箱に入った茶道具は、確かに20個かそこらだった。だが押入れの中を覗くと、明らかにまだ山ほど入ってる。パンパンに詰まってる。当然どの箱もネズミの糞とゴキブリの卵だらけだ。勘弁してくれ。

「全然10個20個じゃねえだろ。100個以上ある。全部見るのは時間かかんぞ。箱が合ってるか、中身に傷や割れ欠けがないか、全部見なけりゃ値段はつけられん」
 俺はそう言って作業を始めた。じめじめとクソ暑かった。箱の紐を解いて蓋を開け、中身を調べ、また蓋を閉じて紐を結ぶ。ジジイは10分もしないうちに見張っているのに飽きて「なにしろ信用してますから! アンタなら間違いない!」そう小さく叫んで自室らしい二階の一室に引っ込んでいった。俺は作業を続けた。1時間、2時間、3時間……ずっと箱を開けたり閉じたりしていた。同じ作家でも手や作陶の難易度、大物小物、出来不出来によって、数千円にしかならんやつから数万円で売れるやつまでいろいろある。箱は全部で180個あった。半分キレ気味にジジイを呼び戻す。
「オイ! 説明するから降りてきてくれ!」
 ジジイに簡単な説明をして、結局全部で45万で取った。たぶん頑張れば全部で100万くらいにはなると思うが、売る手間と時間を考えるとそれだけで吐きそうになる。ジジイにもその通りに伝えた。本当は30万しか渡したくないが、わざわざ俺みたいな場末のよくわからん道具屋を選んで仕事を頼んでくれた。その礼と、アンタの死んだ父親に対する敬意だ。品を見れば彼が真面目で賢明な支援者だったことはわかる。交渉はしない。その値で売るか、俺がこのまま手ぶらで帰るかだ。

 ジジイは大喜びで金を受け取り「今すぐ郵便局に行ってきます! 父さんの残してくれた大事なお金やからね! アンタは本当に誠実で真面目な人や! わしは人を見る目には自信があるんだ! 間違いない! ちょっと出てくるからあとはよろしく!」と預金通帳を片手にボロボロの自転車で去っていった。デタラメすぎる。だがジジイの身分証、残置物、家に残された他の諸々から考えて、ジジイは詐欺師でも泥棒でもない。間違いなくこの家の一人息子で、この家で両親の介護をし看取った。ゴミ屋敷っぽいのは単なる性格だろう。そういう人間はいる。

 というのが朝の7時30分に電話してきた「早口でうるさいジジイ」と俺のファーストコンタクトだ。確かにあのときは一部屋だけだった。デカい家だからまだ部屋はいくらでもある。今回はリビングとダイニングを頼みたいという。それは構わない。俺の仕事だ。依頼はありがたいし助かる。ただ、なんでこの時間なんだ? こんな時間にやってる店なんてあるか? コンビニか24時間営業の飯屋くらいだろ。どこの世界にこんな朝早くからやってる古道具屋があるんだよ!
「それじゃ8時にお願いしてよろしい?」
 いいわけねえだろ! 俺はこれから飯を食う。そしてシャワーだ。9時には着くからそれまで待ってろ。

 相変わらずとんでもない家だ。荒れすぎて空き家にしか見えないし、中に入ると小動物の不潔な臭いと気配、ネズミの糞で足の踏み場もないし、なにかを摑めば必ずゴキブリの卵がついてくる。建物の中にいるだけで、なにか得体の知れない不潔でヤバい微生物や謎のウィルス、干からびたちっさな虫の死骸やらを吸い込んで病気になりそうだ。しかも今回はダイニングとリビングだ。リビングは二つの飾り棚に少し高価な洋食器や酒があるだけで、他には特に見るものはなさそうだったが、ダイニングはキッチンとほぼ一体で、見ただけで体調が悪くなる。一般的な衛生概念ではそこに足を踏み入れることは不可能だし、そこにあるもので手を触れても平気そうなものは一つもない。
「信用してるからね! 汚れてたり箱がないのも多いから、今回は値段はどうでもいい。でも母さんはちゃんとしたものしか買わないし、使わない人やったから。ものはいいはずです! 全部お任せします! わしは二階でレース見てるから! なにかあったら呼んでください!」

 簡単なやつからいこう。前回と違ってキッチンやダイニングの水っ気が近くて猛烈に気持ち悪い。死骸や糞や卵ではなく、現役のやつがいそうだ。まずはリビングにある売りやすいブランド物の洋食器やガラス製品、酒を全部引っ張り出す。ガサガサやってると銀食器や海外の土産物、少量の切手なんかも出てくる。出てきたものは床に広げるだけ広げ、スペースが足りなくなれば上に重ねていく。俺はジジイに噓を吐くつもりも泥棒するつもりもない。リビングのやつはずっと置いておいても邪魔なので、ざっと買取りの金額を計算しながら新聞紙で包んで紙袋や段ボールに放り込む。ジジイにはあとで説明すればいい。俺は噓を吐かないしジジイも文句は言わんだろう。

 リビングの荷物をひとまとめにしたら、ついに隣のダイニングとキッチンだ。ネズミの糞とナメクジの死骸で足の踏み場もない。そこらに放ってあった未使用のゴミ袋を床に5枚くらい敷いて作業を始める。シンク周りにブランド物の洋食器がいくつかあったので、それを拾って床に置く。キッチンの棚は一番の強敵だ。開けた瞬間に虫が這い出してくる可能性があるし、シンクからも外からも湿気が入ってカビだらけだ。一番汚れがマシな椅子を一つ持ってきて、クソみたいな作業に取り掛かる。ジジイは全部の部屋が片付いたら、家を売るつもりだろう。片付け屋や解体屋が入る前に、金目のものは全部俺が見つけ出して買取る。どんなクソみたいな可能性も順番に全部潰していく必要がある。カビだらけで虫だらけで糞だらけのキッチンの棚だって例外じゃない。この手の棚は大抵使わない食器か調理器具、キッチン小物がしまってあるだけだ。ただこの家の主人のように社会的地位が高かったり大企業に勤めていたり、金持ちだった場合は毎年贈答品が山盛り贈られてくるから、もらったまま一度も箱すら開けていないそいつらが押し込んであることが多い。盆やら皿やらグラスやら、国内外の陶磁器やブランド食器、伝統工芸品、土産物やらゴルフコンペの景品なんかが、ネズミの糞とゴキブリの卵にまみれて湿った箱のまま積んである。俺は骨董屋だ。こんな不潔なゴミを漁って買取るのは本業とはいえない。だが俺にはこんな仕事ばかりだ。場末のクソみたいな店で宣伝もなにもせず、ただ電話が鳴るのを待ってるだけだからな。

 市場で売るのが申し訳ないくらい、マジでとんでもなく不潔でヤバそうな贈答品のうち、まだ箱の状態がマシで1000円かそこらなら売れるかも知れん、という程度のクソったれを頭上の棚から下ろしていく。2000万の李朝の壺はどこにある? 1億円の清朝中期の官窯磁器は? だが俺の前にはデカくて不潔で不便な千円札みたいな代物しかない。いくら棚を開けても同じだ。クソの山。不潔な小動物の糞尿と虫の卵と死骸。だが、たった一つだけ、そいつだけは、ボロボロで湿った化粧箱に指先で触れた瞬間にわかった。

 それは大半の他の贈答品と同じように、少しだけ気取った百貨店か記念品屋の化粧箱に入っていた。もちろんネズミの糞とゴキブリの卵だらけだ。しかも湿ってカビている。その箱に指先で触れ、両手で摑んで下ろしたときには確信していた。開けなくてもわかる。こいつはヤバい。まさかこのゴミと糞にまみれたキッチンのクソ棚にこいつが? なぜこんな無造作にクソと一緒に置かれているんだ? たぶん理由はない。そういう家なんだ。

 小さな金具を弾いてゴキブリの卵とカビだらけの箱を開ける。金色のゴブレットが6個。刻印を探す必要はない。見りゃわかる。純金製だ。1個取り出して手のひらに乗せてみる。約180グラム。そいつが6個。グラム7500円で計算しても800万以上だ。1秒。確かに1秒だけだ。こいつの蓋を閉じて、他の不潔なガラクタと一緒に床へ山積みにしておく。10分後にジジイを呼ぶ。クソ汚いし売るのが面倒な小物や食器ばかりだが、少しはマシなブランドのやつがあった。また俺を呼んでくれた礼と、趣味のいい死んだ母親に敬意を払おう。全部で15万だ。きっとジジイは感激して俺から金を受け取り、大喜びで郵便局へ向かうに違いない。

 だがきっちり1秒後に俺はやはり少しキレ気味に叫んでいた。
「オイ! とんでもねえやつがある! さっさと降りてこい!」
 ジジイがバタバタと大急ぎで階段を降りてくる。レースの結果については訊かなかった。どうでもいいし、話が余計に長くなる。
「こいつはヤバい。純金で1キロ近い。たぶん死んだ親父さんの退職記念品か退職金のおまけだ。とにかく俺はこいつを買いたくない。90%で買っても手数料を考えたら税務申告が面倒なだけで全然儲からん。80%で買ったら泥棒と同じだ。自分で売れ。来年の確定申告を忘れるな」
 ジジイはひどく興奮していた。怯えてもいた。わしの年金の何年分や? えらいこっちゃで。こんなん持って歩かれへんやないか。どないしたらよろしい? どないしたら?
「いいか、よく聞け。今から知り合いの宝石屋を大阪から呼んでやる。そいつはインチキもしないし、ネットジャパンと同じ値で買ってくれるはずだ。アンタは家から出なくていい。現金自体が怖けりゃその場で振込もしてくれる。俺は今からそいつに電話をして、荷物を片付ける。アンタは二階でレースを見ててくれ。2時間以内に全部終わる。今日の買取り額は6万だけだ。たいしたものはなかった」
 そう言って興奮したジジイを落ち着かせ、必要な電話をして、他の作業も終わらせた。ジジイは自室に戻らず「やっぱりアンタはすごい人や。信用できる。わしは人を見る目には自信がある。教師だったからね。間違えてなかった。すごい出会いやで!」そう叫んでいた。やはり少しイカれてる。

 泥棒しないだけで聖人扱いされるなら、世の中は聖人だらけになっちまう。それに俺は1秒だけ、本当に盗むつもりだった。盗まなかった理由は俺のルールブックにそう書いてあるからだ。誠実だからでも真面目だからでもない。道具屋は悪党の稼業だ。だが悪党にもルールはある。たとえ信念やポリシーはなくても、相対化されない、自分だけの正義がある。誰のためでもない、自分の世界を自分のやり方で生きるためのルールだ。

 夕方ジジイからまた電話があった。
「10%でも5%でもお礼をさせてや。たいへんなことなんやで。年金の何年分やと思います? アンタ以外なら絶対にナイナイして盗んでる。わしだって、誰だってあんなものあるなんて知らんかったんやから。えらいですよ。気持ちだけでも……」
 なにを言ってやがる。純金はアンタの死んだ親父さんのもので、相続者である一人息子のアンタのものだ。俺は乞食でも泥棒でもない。買取り屋だ。金を払うのが仕事なんだよ。相手から金を受け取るなんてことはしない。そういう稼業だ。感謝してるってんなら、いつかまた、なにか出てきたら安く譲ってくれ。まだ何部屋も残ってるだろ? なにか面白いものが出てくるかも知れない。そしたら安く譲ってくれ。そのときに儲けさせてもらう。

 やはりジジイは見てくれこそ尼崎の競艇場で舟券を買ってるジジイみたいだが、坊ちゃん育ちだ。少し考えりゃわかるだろ? こっちは悪党なんだ。ゴミ溜めの中からお宝を見つけてやった礼だって? そんなに金が欲しけりゃ最初から泥棒してる。10%の80万より800万の方がいいに決まってんだろ。だからそういうことじゃない。俺だけのルールがある。俺専用のやつがな。誰だってそうだろ? 俺たちは世界のすべてを全員で共有してるわけじゃない。たまに交錯したり、部分的に共有してるだけだ。だから自分の世界を生きるのには、自分だけのやり方がいる。他のやつのやり方じゃダメなんだ。


https://hanmoto.com/bd/isbn/978-4-910413-11-2


川井俊夫|かわい としお
1976年横浜生まれ。中卒、アングラ水商売、ヒモ、放浪、酒で大暴走、ホームレス、放浪、ヒモ、ホームレス、結婚、会社員を経て、現在は関西某所で古道具店を経営。「川井俊夫」は筆名。かつて運営していたテキストサイトの文章をまとめた電子書籍『羽虫』(2014年、elegirl刊)には作家のこだまさんが推薦の言葉を寄せている。
Twitter:@toshiokawai1122


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?