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悪として、人として。

どうも、それなニキです(´・ω・)/

先日、以下のような記事を投稿しました。

これの後日譚ということで、人のエゴを明るみに出すだけというのはなんか不公平感あってお後がよろしくないので、自分のエゴも提示して醜態を晒しておこうと思います。

(今回は思いをそのまま投げつけるためにクソデカ主語を連発します。個人の主観だと思って温かい目で見守っていただければ幸いです。)

〜前提〜

私の経歴と罪科

以前簡単にDttoに投稿したので、それを掲示しておきます。

https://www.dtto.com/f/jp_secrets/p/242339808

(登録してる人以外って見れるのかな…
ダメそうだったらコメントいただけると助かります。代替案考えます。)

反発する正義感と呪縛

無論、自己正義の完全否定などということを多感な思春期に経験しようものなら、人の頭はおかしくなります。
障害者とて、その例外ではありません。

当時の自分には、まだ学校が自分の世界の中心で、その中での多数派に対して反抗するという選択肢はありませんでした。
小学校での出来事がトラウマにもなっていたのでしょう。
恐怖と罪悪感で死にそうになりました。
というか、実際に自殺を計画していました。

ちょうど、自分の障害者性にも正面から向き合って傷ついていた時期だったことも相まって、「自分は世界には必要ない。こんな畜生は死ねばいい。」と考えていました。
旧アニメ・劇場版のエヴァンゲリオンに心酔し、シト新生(映画)の予告を狂ったように繰り返し見ていたことからも、当時の自分の心境が推察されます。

シンジ「僕はダメだ。人を傷つけてまで、○してまでエヴァに乗るなんて、そんな資格無いんだ。何も分かってない僕には、エヴァに乗る価値もないんだ。助けて、助けて、アスカ。」

シト新生 予告よりセリフ抜粋(表現的にヤバそうな部分は伏せてます。)

シンジ「嫌だ!もう嫌だ!」
アスカ「○ぬのは嫌ァァァァァ!」

同上。こっちにはいじめから逃れたい自分が投影された。

しかも、タイミングの悪いことに、ちょうどこの時期にスマホを買ってもらってネットへ触れ始めたため、自分の罪悪感のやり場を自分の内面に見出した私は、ネットで「洗脳」「催眠」「呪詛」などと調べまくり、信憑性のあるなしに関わらず片っ端から自分に試しました。
「俺には何の価値もない」「他者を傷つけることしか能のない畜生が」「これだから障害者は」などと、今世間に出すのが非常にまずいような内容を含む怨嗟の声を「就寝時の意識が落ちる直前を狙え」「いや常日頃から脳内で反芻するのがいい」などといった記事に従って脳裏に焼き付けました。

そのどれが成功し、どれが失敗したのかは分かりません。
今になってわかるのは、結果としてどれか一つ以上が成功したようだ、ということだけ。

それでも前へ

しかし、いつまでもそうしているわけにもいきません。
そうしていれば、次に◯されるのは自分になってしまいます。

ひとまず、応急処置をすることにしました。
感動的なストーリーラインのアニメ作品を大量に視聴して一人で泣きじゃくり、何とか先述の状態は脱することができました。

(話はそれますが、この時に「key」というブランドの作品群(特にCLANNAD)には大変お世話になりました。私が見てきた、一般社会と比較した際の障害者施設の世界観によく合致していましたので、当事者視点の世界に興味のある方にはおすすめ?)

そうして自分は、罪科を抱えたまま何とか立て直して、またこうした地獄のない世界を夢見て東京大学を志望し、自分の青春の残り全てを犠牲に現役合格を果たして今に至ります。

結論としては、東大に入っても何も変わりませんでした。
「頭が良ければ、傷つけあうことの無意味さがわかるはずだ。人は分かり合えると知っているはずだ。」というのは幻想でした。
強者が弱者を拒絶し、蹂躙する世界がそこにはありました。

自己受容と「フェミニズム」

フェミニズムへの所感

私は、こうした「弱者の気持ちを理解し、問題の解決可能性を知りながらそうした人を犠牲にする」という経験から、自分の加害性に向き合い続けることを8年近く強いられてきました。
いや、この状態は今でも続いていますから、経験というより立場と言った方が適切でしょうか。

大学に入ってからは、関わる世界が広がりました。
日本社会・国際社会について考える機会も増えました。
そこで私は「フェミニズム」に出会いました。

私から見た現代の「フェミニズム」は、多数の諸派に分かれ混沌を極めていました。
しかし、それらに共通して言えることがありました。
それは「自らの加害性に向き合おうとしない事」、すなわち「被害者の存在そのものを認識しない事」でした。

その一例が、「不誠実な正義と誠実な悪意」で挙げた「弱者男性」の存在です。
男女平等を叫ぶ割には「大義と自分の趣味嗜好は別」というロジックで弱者を考察・救済の対象から外して淘汰圧をかけ、それが社会問題として表出しようものなら「大義と自分の趣味嗜好を混同」して「嫌なもんは嫌」と理解を拒んで迫害する。
それが「フェミニズム」でした。

他にも、自分たちを「絶対普遍の真理・正義」として、「相対的・政治的な事項」ではないとして、従わないものにも強制する側面もあります。
ムスリム文化圏や日本の保守層に対する当たり方がソレです。
加えて、これまでの歴史・これからの未来をフェミニズムの普及発展の一軸一方向でしか捉えようとしない方もよく見かけます。こうした歴史・世界・未来観は、しばしば「フェミニズムの発展により世界はより良くなっている(悪化している点はない)」という認識を伴っています。

総合して、「保守という悪を打倒する正義としてのアイデンティティ」への依存が強く、「自分がいつか打ち倒される悪と成り果てる可能性」への理解が足りないとも言えます。

自己受容を実現してしまうフェミニズム?

こうしたフェミニズムの傾向はしかし、私の中に残された呪いを解くことができる鍵になる可能性を秘めていました。

そう、被害者なんて最初から存在しなかった。

フェミニストは、フェミニズムの原罪を認めない限り、私の罪科を問えない。
(私の罪科を問うことは、今日蔓延る「世論的強者」の「世論的弱者」への罪科を認めることへと直結してしまう。「弱者が悪いのは弱者自身のせいだ」という理論は、フェミニストの弱者男性に対する扱いの肯定に使われているが、それは同時に私の罪科を否定することに使えてしまう。)
そして社会で「世論的強者」として生きていくには「フェミニズム」に文句一つ言わず同調する必要がある。
私は社会的に死にたくない。あなたに、あなたたちに社会的に○されたくない。

ここに、悪魔の契約とでもいうべきものが成立します。
自分の中でしか通用しない正義感を捨て去れば、あなたたち「世論的強者」からの承認を伴う、より社会的な自己受容が実現します。
共通の「弱者男性」という犠牲の無視による共犯関係が、これをさらに強固にします。してしまうのです。

同じ穴の狢

半分冗談みたいな空気感で書き散らしちゃいましたが、フェミニズムという思想の悪性そのものは紛れもない事実です。(まあそもそも「女性の視点」から構築された理論ですから、「男性からの視点」を期待するのがお門違いと言われればそうなんですが。)

私も、こんな共犯関係に頼りたくはないものの、世論の情勢があまりにもフェミニズムに傾倒する場合は社会性担保のためにこの自己受容をせざるを得ず、現にそうなので、実際に徐々に自分の罪悪感が消えていくのを日々体感しています。これまでの自分が死んでいくようで恐ろしいことです。

先日の記事で私は幸さんのエゴを非難しましたが、私とてやっていることは何ら変わりないのです。
それが視界に入っていたのかどうかの違いしかありません。
とても偉そうに非難できる立場にはないのです。
その点含め、幸さんには非常に失礼をしましたm(_ _)m

あとがき

私は自分のパラダイムを音楽で記録する癖があるので、試しにこの記事に関する思考に関係する音楽を貼っておきます。同じ気分になりたいという方はどうぞ。

↑これだけPVがないのでspotifyのリンクにしときます。


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