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ジャズとトロンボーン

 最近、出町柳のラッシュライフというジャズ喫茶によく通う。
 ずっと前から行ってみたいと思っていたので、近所に引っ越してきたことをいいきっかけにして、週に一、二度、通うようになった。カウンターだけのこじんまりした空間で、席数が少なく、常連さんたちが来ていると、なかなか高密度の空間だが(物理的な意味ではなくて、まったり感が)、居心地はとてもいい。
 老齢に差し掛かった感じのお二人——男性と女性だが、ご夫婦なのかパートナーなのか、どちらが店主さんなのかもわからない——で切り盛りされているのだが、彼らの、分け隔てなく welcome な感じが、店の空気を閉ざさずに保っているからだろう。

 仕事を引退して京都に帰ってきたのは二年ほど前のことだが、当地のジャズ喫茶が激減していることに驚いた。といっても、私の記憶にあるのは70年代のことだから、当然といえば当然なのかもしれない。
 中学2年の時にはじめてのめり込んだ音楽がジャズで、ちょっと周囲のマジョリティとはズレていたが、同好の友人もいて、小遣いをやりくりして毎月一枚のLPを買うのに悩みに悩み、買えないものは友人との貸し借りで補い、カセットに録音などしたりしていた。
 だから、一杯のコーヒーで何枚ものアルバムを聴けるジャズ喫茶は、ありがたい場所で(なので経営として成り立たすのが難しいわけだけれど)、よく通った。ZABO、しあんくれーる、Big-Boyといった有名どころにもちょくちょく通ったけれど、私が初めてジャズに開眼し、その後もよく立ち寄ったのは、当時烏丸丸太町にあった「ケント」という、どちらかというと軟派の(軽食もある中間派的な)ジャズ喫茶だった。音も、硬派のジャズ喫茶に比べて少し小さめだった。今は、ビル丸ごと建て替わってしまって、無い。上記の有名どころも全滅だ。

 レコード店では、河原町蛸薬師にあったビルの2階にあった八木レコードに随分とお世話になった。そこに「エミさん」という長髪の店員さんがいて、彼は、新譜を惜しみなく試聴させてくれただけではなく、ミュージシャンやレーベルについての知識も快く分け与えてくれた。「エミ」は苗字で、多分「江見」だと思うのだが、確認したことはなく、今どうしておられるかは、知る術もない。

 と、前置きが長くなったが、ラッシュライフには小さな本棚があって、行くと、そこから適当に本をとりあげて、拾い読みをする。先日は、マイク・モラスキーの『戦後日本のジャズ文化』のページをめくってみた。そしたら、トロンボーンに言及しているところがあって、印象に残った。
 彼曰く、スイング時代には、トミー・ドーシーやグレン・ミラーといったバンドリーダーに象徴されるように、トロンボーンは花形楽器の一つだったが、リズミックな速弾きが中心になったビバップ以降、サックスやトランペットにセンターステージを譲ることになったというのだ。たしかに、運指やタンギングという面でサックスやトランペットに比較すると、トロンボーンは早いフレーズを細かく刻むには不利な楽器だ。J. J. ジョンソンやカーティス・フラー、ボブ・ブルックマイヤーなど、名手はいるけれども、ソロイストとしてビバップ以降脚光を浴びてきた数で言えば、サックスやトランペット奏者には遠く及ばない。


  そんな指摘に頷く一方で、読みながら、むくむくと、トロンボーンについて、兼ねてから不思議だと思っていた疑問が戻ってきた。 ビバップ以降のモダンジャズでは、モラスキーが言うように、周縁に押しやられた感のあるトロンボーンだが、なぜか、70年代以降のファンク系のバンドでの存在感は大きいのだ。ウェイン・ヘンダーソン、ニルス・ラングレン、フレッド・ウェズリー、ビッグ・サムなど、なぜかトロンボニストがリーダー的な役割を果たしている場合が少なくない。Tower of Powerのように、ホーン・セクションの一要素として埋め込まれていることも多いけれど、一般にファンク系では、モダンジャズのグループよりも目立っていると、個人的には思う。 
 明確な答えはないのだけれど、「踊る」ためのスイングから「聞く」ためのビバップに移行していく過程でトロンボーンが周縁化されていったというモラスキーの指摘を読んだときに、ちょっと閃くものがあった。スイング同様、ファンクも「踊る」ことができるからだ。つまり、トロンボーンはなぜか、踊れる音楽と相性がいいということなのかもしれない、そんな仮説が立ち上がってきたのだ。 
 といって、急いで注釈をつけておかなければならないのだが、ビバップ以降のモダンジャズが身体性を喪失したといいたいわけではない。誰しも、パーカーのスリリングなアルトや、コルトレーンのドライブ感あふれるテナーを聴きながら、体をゆらしたことはあるだろう。だけど、モダンジャズにおける身体性は、つねに、研ぎ澄まされた耳と、フレージングやハーモニーやリズムを分析的に捉える音楽的知性によって浸透されている(楽理がわかっていなければならないというわけではないけれど)。我を忘れて踊るという感じではなくて、次から次へと展開されるフレーズやオーケストレーションの波を聞き逃すまいと意識を集中し、座ったままで小刻みに足を踏むと言った体の身体性なのだ。末端神経と脳の中枢が同時に、ある意味で、分裂的に負荷を帯びている状態とでも言おうか。 
 ところがファンク系の音に包まれると、むしろ椅子から立ち上がりたくなる。体全体で音とシンクロしたいという欲望に包まれる。 
 おそらくスイングがブームだった頃のダンスホールでも同じような感覚があったのではないか。そして、そういう全体的な身体性が、どうやらトロンボーンとは親和性があるのではないか、そんな気がしてきたのだ。でも、それがなぜそうなのかは、私の理解力の埒外で、うまく説明できない。トロンボーンが、人間の「息」(場合によっては「咆哮」)をもっとも強く感じさせる管楽器だからなのか、それとも、その膨らみのある中間的な音色が身体を包む感覚を強く醸成するからなのだろうか。 
 ここから先に分け入っていけるのはプロの音楽評論家の仕事だろうけど、そういう意味での「プロ」を感じる書き手は、今の日本には残念ながらほとんどいないというのも、残念ながら、個人的な印象だ。ジャズ批評は、70年代まで、新しい言説の生成という意味で「いい線」を言っていたと思うけれど、それ以降、衰退の一途を辿っている。
 一言でいえば「批評」が「レビュー」によって駆逐されつつある(もちろん、レビューも大事なのだが)。詳しい調査に基づいたディスコグラフィーや評伝的なものはかなり増えたと思うけれど、それらも、たとえば文芸批評や美術批評が、70年代以降、新たな思想的動向や語り口と丁々発止の対話をしながら、それまでにはない批評言語を作り上げてきたのに比べると、何か根本的に取り残されている感じがしてしまう。いまだに「黒人らしい」とか「白人らしい」などという形容が、何の疑問もなく気軽に使われてしまっていることなどにも、驚く…云々。
 いや、思わず、愚痴に走ってしまったが、危ない領域に入る前にちょっと立ち止まろう。何はともあれ、とりあえず口走ってみたかったことは、トロンボーンという楽器を橋渡しにしてスイングとファンクの接続可能性を考えることができるのではないか、というちょっと眉唾な問題設定なのだった。ラッシュライフさん、そしてマイク・モラスキーさんに感謝。これからもちょくちょく通うことになりそうだ。 


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