全く信心深くない私が神社で病気平癒を祈願した話
日本人らしいと言えばそうなのかもしれない。
私は正月に初詣に行き、クリスマスも祝う。神社でも寺でも行くし、観光で何度か教会にも立ち寄ったことがある。
特定の宗教に固執しない生き方をしている。
おそらく日本人で似たスタンスの人は多いと思う。
そしてそんな生活をしているのだから、当然特定の神への信仰はない。
神に願うのは、せいぜいヤバめの腹痛が続いているときに早く治ってくれと闇雲に思うときくらいだ。
そんな私が、病気平癒のためという明確な目的をもって神社を訪れた。
なぜそうなったのか、経緯も含めて書き残そうと思う。
母の病
私の母が、完治しない病を患った。
珍しく、症例が少ない病だそうだ。
進行を遅らせたり症状を緩和させる治療法はあるが、完治はしない。
そして治療には当然副作用が伴う。
薬を飲んだり定期的に通院したりと、これまでの生活をいろいろな形で病が邪魔をしてくる。
病のことを考えなくていい日などない。
私は医学知識を持ち合わせていない。治療は病院に任せるしかない。
でも任せても完治しないと言われている。
そんな行き詰まり感の中にいた。
そうなると不思議なもので、神にでも頼ってみようかという気になってくるのだ。その身になって初めてそう思うようになった。
ただ怪しい新興宗教や壺やら数珠やら民間療法に手を出す気はない。
そんなことに大金を使うよりも、新たな治療法が登場したときのため、そして今の治療を続けるためにお金を使う方が良い。
でも、古くからある由緒正しい神社で、常識的な金額のお守りを買うくらいなら、それで少しでも気持ちが落ち着くなら、それは良いのではないだろうか。
そんなことを思って、私はとある神社に向かった。
寒川神社
私が向かったのは寒川神社だ。
神奈川県寒川町にある、由緒正しく1600年もの歴史を持つ神社。
せっかくなので、道中の写真とともに共有する。
この日はよく晴れていて、5月も終わりだからかもう春を過ぎて初夏の陽気だった。
入口の傍は緑豊かで小川が流れ、花菖蒲?が咲いていて綺麗だった。
小さな太鼓橋を越えると鳥居がお出迎え。
鳥居といえば赤色のイメージだが、ここはグレーだった。
付け焼刃だが、事前にググって参拝のお作法を頭に入れた。
鳥居をくぐるときには一礼し、真ん中は神様の通るところだから端を通る。
それを守って、一礼して端を進んだ。
参道の両脇は木々がたくさんあり、落ち着いた雰囲気。
灯篭?が左右に点々とあって、もう少し暗い時間帯だとまた違った良さがありそうだなと思った。
参道を進むと少し開けたところにでて、左手に手水舎がある。
手や口を水で清めるところだ。
これまた清める作法を事前にググっていたのだが、役に立たなかった。
というのも、通常は柄杓を使って水をすくい、手や口を清めるのだが、おそらく感染症対策で柄杓が廃止されていた。
その代わりに、この木で組まれた何かによって水がちょろちょろと流れ出るようになっていたため、それを手に浴びせることで清めることができるようになっていた。
そして本殿へ。
初詣でも何でもない時期だったため、そこまで混んではいなかったが、とはいえそこそこの人数はいた。
私の目的はお参りと、あと絵馬をかけて、お守りも買って、最後に御朱印をいただきたいなと思っていた。
そのため、お参り後は次に絵馬とお守りを購入。
絵馬は願掛けと厄除けで分かれていた。
病を厄と解釈するのかがわからなかったため、願掛けの方を選択。
お守りは色によって効果が違うようで、私は当然病気平癒のお守りである紫色を選択。
いわゆるお守りの形のもの以外にも、カード型のお守りもあって、普段お守りを持ち歩かない母にはこちらのほうが良いかも?と思い、カード型を選択した。
最後に御朱印をいただいて、私の目的はすべて達成。
母へお守りを贈る
母は私以上に信心深くないため、お守りをもらってもうれしくないかも?という点は気がかりだったが、コンパクトなサイズで邪魔にもならないものだしと、渡してみた。
すると、お守りがどうとかいうよりも、娘が買ってくれたものだという点を重視して、どこに入れておこうかな~と考えていた。
それがうれしかった。
最後に
今の医学で完治しない病を治してほしい、という願いは過ぎた願いだろうか?
仮に神がいたとしても、身の程を知れと思われて叶わないかもしれない。
それでも、母のために神社に行ったこと。
神社の落ち着いた雰囲気。
お守りを買い、絵馬に願いを書き残したこと。
母がお守りを受け取ってくれたこと。
少なくとも今は、その効果がどうであれ、母との思い出の一部として昇華される事象としてやってよかったと思っている。
できれば願いが叶ってほしい。
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