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祖母と早桜観光(などなど)

※まだ肌寒い風のふく冬の終わり頃、2月下旬。公開が3月中旬となりましたのは筆者の筆が遅いせいです。ご理解ください・・・・



祖母という人

 まず、先日旅をしたいと書いたが、これは旅ではない。見知らぬ街を彷徨うでもなく、ひとつの場所に長い間滞在した訳でもない。一足先に花見に行ったというだけだが、この外出で刹那的に沢山の感情が溢れ出したのでまとめておこうと思う。

 ここで大事なのが一緒に出かけた、今年で82歳になる祖母だ。昭和18年生まれで、私は平成18年生まれ。彼女は第二次大戦中に生まれ、中学生の時に長野から横浜に引っ越してきた。そこで祖父とであい、母が産まれた。現在は三世代、同じ家に住んでいる。当たり前だが、祖母はこの家の誰よりも長く生きている。私の母が赤ん坊だった頃から、いや、それよりずっと前から、想像も出来ないほど長い時間を過ごしてきた。それが不思議で、なんだか信じられない。


 そんな祖母と私は、深い絆で結ばれている。自分が3歳のときに弟が生まれ、両親を弟に取られてしまったような孤独感や寂しさから、数年、幼い私は夜になると祖母のいる一階に降りてきて眠り、朝まで一緒に過ごしていた。赤ちゃん返りが酷くいたずらばかりしたし、部屋に置いてあるものを壊して、それでいてと反省もせず同じことを繰り返したりした。何より、一緒に寝ると私の寝相が酷いので、祖母は小さく丸まって寝なければならなかった。


 それでも祖母は一度も、私を追い出したりはしなかった。いらいらしてることも多かったし呆れられていたとも思う。(実の親でも小さな子どもの世話をするなんて大変なんだから、それをやるというだけでも凄いことだ)けれどその時の記憶や思い出から、人に対する見方、重要な価値観が構築されたように思う。


 よく巷で「老害」なんて言葉を耳にすることがある。たしかにそういう人は居るのかもしれない。けれど、私には祖母という好例がいるので、高齢者全体によくない印象を持つということはない。老若男女、年齢や外見は違えど、大人のように聡明な子どももいれば、ただ年齢を重ねただけの大人もいる。究極的に言えば、年齢や性別、立場など関係ない。そこに人がいるだけだ。偏見で決めつけずにその人の中身を見ようと努めれば、思っていたのと全然違っていて損した、というのはよくある話だ。

 私には祖母がいて良かった。もし祖父母がいても性格が合わず嫌いになってしまったら、若しくは生まれたときにはもう亡くなっていて高齢の方と関わる機会が無かったら……。いくらでも可能性は考えられるが、もしそうであれば良くない偏見だけが残り、自ら高齢者と関わる機会を逃してしまうかもしれない。

 というのも、幼少期の環境が良くないと、その人の人格形成に悪影響が出てくるからだ。子供時代に犬に噛まれた子供は、犬=恐ろしいというイメージに最悪一生付きまとわれるかもしれない。学生時代に虐められた人は、大人になってもいじめの加害者に似たルックスや趣向をもつ子供を怖がり、過呼吸になったりパニックを起こしたりするようになる。逆に幼少期に誰からも(何からも)好かれ、幸せに過ごせた人は、何に対しても良い印象をもち、挑戦できる。
幼少期の経験によっては、本来好きになれたはずのものを嫌いになり、一生関わらずに死んでいくかもしれないのだ。それはとても悲しいことだと思う。

 自分よりもずっと長く生きている人と話すと、沢山の発見がある。(逆に小さな子どもと話すときにも、発見がたくさんある)それは同年代からは得られない知見だ。反面教師にするにも、まっとうに学ぶにも、これほど良い手本は他にない。それを祖母に教えて貰った。私は祖母が大好きなのだ。

何故一緒に出かけるのか

 それでも、小さい頃は嫌というほど一緒にいたけれど、大きくなるにつれ寂しくなることもなくなり他に関心が増えたので、祖母とはあまり関わらなくなっていった。そうした高3の冬頃だったか、祖母の体調が悪くなった。ベットと壁の隙間にはまって起き上がれなくなったのだ。些細なことかもしれないが、今までこんなことは一度も起こらなかった。私と母が見つけなければどうなっていたかと今でも思う。久しぶりに話した祖母の優しさ、暖かさの輪郭はぼんやりしていて、あれから長い長い時間が流れたのを感じた。私の背はとうに彼女を超え、13年ぶりに見た部屋のベットは二人一緒に寝るには足りなすぎるほどに小さかった。成長し私は外に出て、学校で色んなことを学んだ。けれど身近な人を大切にするというのは、教えられてもすぐに忘れてしまったりして、なかなか出来ないことだった。それどころか誰も信じられなくなり、何もかもが嫌になったりした。そんな私にいつぶりが分からぬ人の心の暖かさを思い出させてくれたのが祖母だっだ。


 そんな祖母が、私にはいつもそこにいるような、半永久的に生きるているもののように思えていたけれど、そうではなかった。誰の人生にも終わりがある。回復して以前と同じように歩けるようにはなったものの、自分には祖母が急に儚いもののような、目を離したらふっと消えていなくなってしまいそうなもののような気がして、急に怖くなった。このまま話さずに何もしないで、気づいたらもう二度と会えなくなってしまうのかもしれない。今は元気だが、いつそれが当たり前でなくなるかわからない。それはあまりにも寂しすぎる。それで、受験が終わったら、もっと一緒にいられる時間を増やそうと決めたのだ。

早咲き桜の不思議

 祖母にまつだ桜まつりのことを教えて貰ったとき、びっくりした。私にとって桜といえばソメイヨシノ、関東では3月の下旬から咲くもので、2月なんて、いくら地球温暖化が進んでるにしても信じられなかった。去年は11月にクワガタがとれたなんて話もあったから、ひと月間違えて出てきてしまったのか?と考えたがそれも違うらしい。

 カワヅザクラ、という桜があるんだそうだ。2月中旬から咲き、一足早い春を楽しめる。山を少し登って、晴れれば南に海が、西に富士山が一望できるそうだ。すっかり乗り気になった私は、心の中で祖母に言った。
「それまで絶対、元気でいるんだよ。」

車窓、雨匂う桜

 なかなか両者の予定が合わず、合った日はあいにくの雨。私と祖母、そして二人だけだと心配だからと母も参加した。三世代で出かけるのは初めてのことだった。異色のメンバーなので何だか不思議だったが、たまにはこんな日もあっていいかと、浮き立つ気持ちで電車に乗った。

 私は神奈川県に住んでいるから、東京に行くときはここらを通る市電、小田急線で新宿方面にのる。逆側(箱根、小田原、江ノ島、鎌倉方面。要するに南の方だ)に向かう電車にはあまり乗らない。しかし今回は、その逆側の電車に乗る。快速急行小田原行きに乗って新松田というところで降りる。(小田原には近いうちに行ってみたいと思う。名前しか聞いたことのない、電車が向かう目的地。そこに何があるのかを知りたいのだ)その新松田に行くまでが長い。乗り換えはなく、平日で電車も空いていたので座れるが40分くらいかかる。

都会っ子の自分が「早く早く。もう疲れたよ」と急かす。もう一人の自分は、「たかが40分の電車が鬱陶しいなんて…こんなのは序の口で、これよりも長い旅なんて世の中には星の数ほどあるだろうに」とたしなめる。いったい今まで自分はいかにぼうっと何もせずに生きていたのかと俯瞰して肩をすくめる。しかしそれと同時に、まだまだ色んな経験が出来る隙間がこの人生に沢山あること、目的地につくまでのこの新鮮なワクワク感、こんな少しの遠出で知らなかった事を知れること、そのすべてが混ざり合った充実感は最初のうちにしか感じられないもののような気がして。それが嬉しくって仕方ないから、雨なのに心のうちはすっかり晴れだ。

 電車の中で祖母はるるぶを片手に、ここに行くんだと教えてくれた。昔から愛用しているものらしく、使い古されていて沢山印がつけられている。よくみると、小さなクリップが一つページに挟まっていた。
「これはなに?」
と聞くと、そこは祖母が中学生の時に越してきた場所らしい。
「スマホがあるだからそれを使えばいいのに。やり方がわからないからって触ろうとすらしないんだから。」
と母が零したが、私はボロボロのるるぶを見て、そんな頼もしい相棒がいるのならスマホなんてなくたって良いじゃないか、とすら思った。人生は旅である。人生という長い旅を今までずっとこうして生きてきたのだから、ネットなんて何もなくとも祖母はどこへだって行けるのだ。背中が丸まって身長も140センチあるかないかの彼女が、私には自分よりもずっと大きく見えた。

 新松田駅が近付くと山や川が目立つようになってきた。雨のせいで山の上は霞がかっており、雲も山も灰色なので私は雪舟の水墨画を連想した。(電車の中には人がいたので写真は撮らなかった。) 車窓からもよく見えるところに所々濃色の梅が咲いていたように思うが、花弁がちがう。
「ありゃ桜か?」
あるのか、あんな色の桜が。
桜に他の種類があるのは知識として知っていたが、それらをこの目で見たことはなく、実在しない虚構だと思っていた。あれが河津桜…今までならすれ違っても分からなかっただろうな。新しい世界の扉が開いた音が一つ聞こえた。

新松田駅から、桜まつりヘ

 新松田駅で降りた。今日の最高気温は3℃。かろうじて風はなくとも雨は冷たい。これだけ寒いのにちらほら桜まつりに向かう人がいた。晴れだったらもっと混んでいたろうから、雨でよかった。

 ほんとは歩いて行きたかった。住宅街を通り、階段や坂を登って冒険したかった。でも、この寒い中そんな面倒なことはしたくないっぽい母にはそんなことは言えず、バスで行くことになった。(祖母も体力的にきついかもしれないし、健康にも良くない。また今度にしよう)

 バスまで歩く途中に二宮金次郎像があった。どうやら彼はこの街で生まれたらしい。この像とは偶に遭遇するので、勝手に自分は顔見知りの友達のように思っている。またどこかで会おう。

二宮金次郎像。色んなところに居るね君は。
この石碑は明治になってから建てられたらしい。この像に見守られながら、街は大きくなっていったのか。


 バスの中は空いていた。桜祭りは山の方にあって、曲がりくねった道路を登って行った。(小学生の頃、修学旅行で行った日光のいろは坂を連想させる)あっという間についた。山の中とはいえ、高度はそこまで高くはないが、平地に住んでいた自分にとっては久しぶりに見る別世界だった。(写真はどん曇りで富士山も海も見えないがとても感動した)

ついた。ずっと向こうには山がある。雲が低い。

 「前来たときははお金なんて取られなかったんだけどねぇ。」
祖母はそう言って、3人分のチケットを買った。

 “前来たとき”を、私は知らない。生まれる前だったかもしれない。祖母が私の知らない桜まつりを知っていること、自分の知らない景色が、たしかにそこにあったこと、それが何だか不思議でくすぐったいような感じがした。

子供は100円。私はぎりぎり子供で、200円得をした。

 人がたくさんいた。日本人も、そうでない人も。桜の魅力を国籍を問わずたくさんの人が知っているというのが改めて嬉しかった。

 鳥の鳴き声が聴こえた。その方へ向かうと、なにやら一本の木に集まっている。他の木もあるのに、目もくれずに。なんの鳥だろうか。野鳥に明るくない自分にはわからない。いつかわかる日が来るんだろうか――祖母のように、たくさん時間をかけて、色んな場所に行って、たくさんの事を知っていって。そうすれば分かるだろうか。

 山の階段の周りにも溢れそうなほどの桜。写真を撮っても撮りきれない程に綺麗だった。

菜の花との色合いが素敵


 雨露に濡れているせいかしょんぼり下を向いている。それもまた素敵だなと思っていると、ふいに足元に小さな子どもがいるのに気がついた。踏んだりはしないだろうけど、怪我をさせたりしなくて良かった………。外国人らしき子どもの歳は1、2ぐらいだろうか。階段を慣れない足取りで登ってゆく。私は上の桜に気を取られて気づかず、その子の後ろでつまってるみたいな感じになってしまった。思ってもない「はやく行きたいんですけどそこどいてくれませんか」オーラが出てしまったかもとわたわたしだした時に、母親らしき人が、片言でごめんなさいと謝罪した。
「いえこちらこそすみませ…」
あ、英語で言うべきだったかな。という間に親子は行ってしまった。

 桃の節句コーナー(?)という建物(小屋くらいの大きさ)があって、豪華な七段飾り、つるし雛、桜色の(桃の節句だから桃色かな?)単衣が飾っていた。祖母がいうにはここも昔は入れたそうだが今は見るだけだ。何かトラブルでもあったのだろうか。チケットといい少し悲しい気持ちになる。

昔ながらのひな祭り。こんな豪華に飾るお家はもうあんまりないんじゃないかな


 山の奥の方に登ってゆく。

山ってよくソフトクリーム売ってない?ところで、晴れてたらビール美味いだろうな。お酒まだ飲めないんだけどね。

 未だ知らぬアサヒスーパードライの味を想像しながら坂を登ってゆくと駅が見えた。もちろん市電じゃない。山を通る列車がここから出発するのだ。晴れならね。
 仕方ないから、線路の隣の坂をまた登る。桜が間近に咲いていた。もう、桜が散っているんだね。

花びらが葉に落ちているのが雨と相まって泣いているように見える。

 坂のてっぺんまできた所で、何故かみかんが売っていた。(写真撮りそこねた、うぎゃーー)「桜にばかり気を取られてないでぼくを見つけてよ」って雨の中人を待つみかん。それが何だかかわいい。近くに農園があるのだろうか。何だか不思議な巡り合わせだ(みかんとの)
「スーパーで買った方が安いし大きさもそっちのがいい」
と母。そんな事言うなよ、泣いてるじゃないか。

雨だから立ち入り禁止看板がくどい程に多い。でも駄目っていわれると入りたくなっちゃう

 坂を降りる。線路は山の中へ続いていたが、まつりのイベントのエリア外だったし、祖母と母に寒い雨の中山ヘそのままレッツゴーする気力は無かった。列車は一体どこへ行くつもりなんだろうか?目的地には何が待っているのか?わくわくしかしない冒険計画は断念された。

駅へ

 もうそろそろいい時間なので、駅で何か食べることにした。そのためにはまず山を降りないといけない。(いうほど距離があるわけでも険しいわけでもないが) 降りる道にも桜がたくさんある。

桜というより菜の花か?色合いが鮮やかだ。

 坂の途中に説明書きがある。(下の写真)案の定文字がぼやけていたので看板に書いてあるのをここに転記する。

ーー河津桜は、早咲きの大島桜(オオシマザクラ)と、紅色の緋寒桜(ヒカンザクラ)の配合種で、ほとんどは濃いピンク色の花を咲かせます。
しかし、この河津桜は、なんらかの原因で大島桜が強く影響しており、白い花を咲かせると言われています。
               松田町

傘さしながら写真撮るのは難しいな

 花の色も何種類と決まっているのではなく、偶然新しいものが生まれたりするのが素敵だ。


 出口には看板が立っていた。こういう看板が地味に好きで、通るのが楽しい。

また来年も来よう。

 駅への道は近所の人に教えて貰った。坂を降りて、住宅街を歩く。何気ない家の庭、道路沿いの塀に、懐かしさを感じる。


 しばらく行くと大きな道路にでた。

でたとこにお地蔵さんみたいなのが二人仲良く手をあわせて立っていた。りんごが添えてある。なんだか微笑ましい。


 駅の近くで、いい感じの中華料理店を見つけた。中には雨でも人が結構いる。壮年らしき男性が複数、活気づいて楽しそうに話していた。仕事の出世、生まれた子供、これからのことなんかを楽しそうに。(耳をそば立てた訳でもなく、自然に聞こえてきた。盗み聞きはしてない…つもり)
 3人でラーメンと写真を撮る。その写真を、祖母のスマホの壁紙にすることにした。元々の壁紙はもう何年も前のもので、彼女が本当にスマホをほったらかしにしてたのがわかる。あとでやろう、やろうとして、気がついたら何年も経ってたって所だろうか。母が祖母に壁紙の設定方法を教えているのを横目にラーメンを啜る。程よく騒がしい店の中で、私は将来について考えていた。

 将来に対しての慢性的な不安。
 社会に適応出来ない存在。自分がそうであるのを知ってしまってから、大人になるのが怖くて仕方なくなった。就職なんて出来るはずがない。出来たとして、その先も続けられない。皆が当たり前に出来ることが自分には出来ないから。そんな人間は社会に必要ないから。
………けれどもし、ここで飲んで楽しそうに喋っているおじさんたちのように、家族に囲まれて幸せに暮らす祖母のようになれたなら、そんな未来があるのかもしれないなら、案外歳をとるのも怖くはないのかもしれないと思えた。

 ラーメンを完食し、店を出た。相変わらず雨のやまない空を見上げる。灰色に白んで、傘を打つ音だけが聞こえてる。やまない雨はないと誰かが言うけれど、自分は雨なんかやまなくてもいいと思う。雨の中、苦しみがずっと続く訳じゃない。泣いたって雨のせいにすればいい。晴れずとも心のなかに晴れがあるなら、晴れのような存在を見つれられたなら、それでいいんじゃないか?長い人生の中で、生きていて良かったと思える瞬間が一つでもあったなら、それで充分じゃないか?
 傘から肩に滴る暗愁(傘から落ちた雨の雫のことを言いたかった)を払って、母と祖母と三人で駅の方へ向かった。

駅に向かう途中の踏切の脇に、神様が住んでいた。ちゃんと花を置いてくれる人がいるらしい。赤い帽子とスカーフで暖かくしている。

 駅の向かいに、八百屋があった。一度入ったら長引くな、と二人には見せないようにして駅へ、横並びで店を隠すように上手く歩く。だが母は私より顔半分くらい背が高い。見つかった。
「あ、ネギ安い。」

夏になったら子どもたちがアイス買いにやってきそうだな。


 私が店の物を見ている間に、母と祖母は店員のおばさんと会話が弾んでいた。
「じゃあ今日は、三世代でお出かけ?」
「そうなんですよ、孫が受験終わったっていうんでね。」
「初じゃない?こんなの」
もう一通り店のものは見たので、会話は得意じゃないが何となく混ざることにする。すると店員さんが気づいて話を振ってくれた。
「お孫さん?嬉しいねぇ、こんなお出かけできて。」
「はい。(もじもじ) また行きたいです。」
「おばあさん(祖母の自称)も長生きしなくちゃねぇ。元気でいないと。」
「そうよ。お孫さんが結婚するまでは元気でいなくちゃ。」
「…そうね、頑張らなくちゃね。」

 結婚。いつかそんなときが来るんだろうか。考えた事もなかったけれど、幸せになるときが…。いや、幸せになっていいのか?私は。けれど祖母はそのために元気で、健康でいようとしてくれている。むず痒いような、くすぐったいような気持ち。でも、これは嫌悪感じゃない。嬉しいんだ。祖母が私の幸せを祝おうと生きてくれることが。それはまるで、私まで自分の幸せのために生きて良いんだよと言われているようで。(祖母が私の幸せを祝うためには、私自身が幸せでいないといけないから)
 私には店員さんのその一言が、とても印象に残った。

ヨルシカ——春泥棒とおばあちゃん

 疲れた。帰りの電車ですっかり寝た。最寄り駅で起きて、買い物するとか自転車で帰るとかで三人バラバラになった。そういうわけで私は一人雨の中を歩きながら、あるメロディーを口ずさんでいた。


 春泥棒。ヨルシカの楽曲で、命を桜に、時間を風に喩えて、命の儚さや美しさ(というだけでは言い表せない程に、正に言葉如きでは語れないような感動)を詩にしている。有名なので、サビだけでも一度は聞いたことがあるんじゃないだろうか。

 何年も連れ添った夫婦。しかし、妻はもう長くは生きられない。

“さぁ、今日さえ明日過去に変わる”

“名残るように時間が散っていく”

 私は、死にゆく女性に自然と祖母を重ねていた。(こうすることで本来の曲の意図とは解釈が異なってくるかもしれない……ご容赦ください)

 万が一のことが起こらない限り、祖母は確実に自分よりも先に死ぬ。もっと言うなら、死ぬまでの時間より、健康でいられる時間はずっと短い。今日の様なことも当たり前にいつでもできることではない。本当にあと何回一緒に桜が見れるかも分からない。いつかは“春じまい”が来る。けれど、その時にせめて、悔いが残らないように出来たら。私たちの思い出や記憶を、少しでも多く思い出せるように。

 言語化できない感情が喉の奥に詰まって取れない。目の奥が滲む。まだぜんぜん元気なのに、縁起でもない、今からそんなことを考えてしまうなんて私は酷いやつなのかもしれない。新しく灯る命があれば、もうすぐ消えゆく命もある。ただそれだけのことだ。平等に死は訪れる。祖母にも、わたしにも。そして人は長く生きれば生きるだけ、沢山の死を見なければならない。それが生きる事なんだろうか。私もそうなるのだろうか、祖母と同じように。

話は逸れるが、もう20年以上前——わたしが生まれる前——祖母は交通事故で祖父を亡くした。母は今でも泣きそうになりながら語る。
「父は何もしてないのに。交差点で…車がいきなり突っ込んできたの。普段から慎重で真面目で、危ないことはしない人だった。あの日だって渡る時にしっかり周囲を確認してたはず。はねたやつの事は今でも許せない。」

祖母の部屋にはいつも、祖父の遺影があった。
「おじいちゃんが、ここでいつも私たちを見てくれているんだよ」
祖母はよくそう言った。会ったこともない写真だけの祖父のことを、幼い私はその時ぼんやりと知った。


 祖母は、死んだら祖父の元へ行くんだろうか。そんなのは誰にも分からないけれど。生と死、という思いテーマがチラつくせいで、執筆に3週間ほどかかってしまった。この間にも、春泥棒は誰かの命を奪っているのだろうか。早いものでもう3月。ソメイヨシノももうすぐ満開になる。新しい生活が始まる。4月は、祖母の誕生月だ。83回目の誕生日を、笑顔で迎えたい。


※テーマがブレたりして言いたいことが伝わらなかったかもしれませんでしたがここまで読んでくださってありがとうございました。
人によっては家族に対してポジティブな気持ちで向き合えなかったりして、桜の話かと思えば惚気みたいな文ばかりで苦痛に感じた方もいらっしゃるかもしれません。しかし他人と自分とを比べる必要は全くありません。辛い時こそ自分を1番大切にして、無理をしないでください。それが言いたかっただけです。

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