自分の普通≠他人の普通
私は小さい頃、自信家だった
勉強も好きだし、体を使うことも好きで
だから勉強も出来たし、運動も出来た
特別美人だったわけではないけれど
周りの大人がお世辞でそういうから
別に不細工だと思ったこともなかった
好きなものだけを適当に食べて育ったのに
友達の方が太っていたし
身長も昔から高かった
発想力も昔からよく褒められた
絵や工作もコンテストによく出品された
文章力もあって学年のお便りに
頻繁に感想文が掲載された
人前に立つことも苦ではなく
運営委員にも立候補して全校集会で
まとめたりすることも好きだった
(生徒会はなかったのでそれに近い委員会)
だから自分が中学生にあがる頃
不登校になった時には
計り知れない焦りを感じていた
出来ると思っていた自分が
周りよりも出来なくなっていく現実
これを受け止めることが簡単には出来なかった
自分はバカだと認めることを
私のプライドがどうしても許さなかった
何年もの年月をかけて
何でも出来る自信家な私は
人よりも出来ない
人よりも劣っている
人よりも欠けている
ということを自分の中で認めるようになった
それを認めた上で
人よりも出来ない自分が
人よりも出来るようになる為には
人一倍努力しなければならないと思うようになった
自分と周りが同じことをする時、
やる気のない人、適当でいい加減な人、
口だけでやろうとしない人、
などがいるとチャンスだと思うようになった
何故なら必死で頑張らなくても
少し頑張れば簡単に越せてしまう可能性があるから
けれどそれでも自分の気持ちは収まらず
そういう人達がいるのならかえって
自分が必死で頑張ればダントツになるのではと
欲張って考えるようになった
私は常に自分にとって最大限頑張るようになった
するとどうだろう
自分は人よりも出来ないと思っていたのに
周りからは逆の反応を示されるようになる
あなたは勉強をしなくてもどうせ点が取れる
あなたはもう勉強しなくても大丈夫
君は周りよりも仕事が出来る
君は能力が高いから周りが劣等生になる
自分で求めて来た結果が出たはずだった
でも、それは半信半疑だった
私は努力をして点を取っていただけに過ぎない
私は勉強しないと最高の結果が出せない
私は努力しないと周りと同じようにできない
私は人より劣っている、努力してやっと人並み
そう思っていた
そしてそれは心のどこかで今も思っている
その上で、私にとってそれが当たり前になる
勉強することも努力することも
覚えることも応用することも
速くこなすことも正確性を求めることも
全部私にとっては当たり前のこと
更に言うなら学校でも職場でも
当然のように求められることだからだ
勉強を教えている場所で
勉強しなくていいなんて言われることは
滅多にないだろう
言われた私はかなり特殊だったに違いない
職場で早く正確に仕事をこなすことが
企業にとってもちろん喜ばしいことで
遅くて雑な仕事をする人員を喜ぶわけがない
これらの当然さも手伝って
私にとって努力したり頑張るのは
普通のことであって
特別なことではないと思っている
私にとって頑張ることや努力することが
基本的なベース、普通なのである
しかしながら例えば周りの人は
ダラダラしているのが普通で
頑張ることや努力することはそれ以上のこと
と考えていた場合はずれが生じてくる
私にとっての普通で世界を見ると
何故周りはやらないのか
やろうとしないのか
出来ないのかと思うようになる
私は自分を特別だとは認識出来ない
他人に評価されるからそうなのかもと思うだけ
あまりにも言われるとたまに調子には乗る
だけど、果たして本当か?と我に返る
だからこそ、私が
むしろ人よりも出来ないと思うからこそ
努力して頑張って出来ていると思っていることは
周りの人は努力も頑張ることもなくできるだろうと信じている
なのにできない状況見ると、イライラしてしまう
こんな(人より劣等生な)私に出来ることを
周りの人が出来ないわけがないだろうと思っている
自分で自分の能力を測ることはできない
他人からどんなに評価されたとしても
本当に自分が評価されたに値する能力があるのか
その正確な答えを知る術もない
だから私は周りに自分と同じ能力を求める
そして周りができないことに疑問を感じる
ずっとその繰り返しでイライラしていく
もしかすると、
そのイライラが物差しなのかもしれない
私はいつも焦燥感と疑問と矛盾の中で生きている
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