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ハナゲによる世界の可視化

ハナゲという痛さの単位

以前、車に乗りながらラジオを聞いていると、痛さの単位にハナゲを使ってはどうかというリスナーからのメールがあって、何だかそれで盛り上がっていた。
しばらく前のことで具体的には何も覚えていない。いま、全くの想像でその話を補ってみると、ハナゲを一本抜く痛さを「1ハナゲ」とし、例えば、つねられた痛みは3ハナゲ、殴られたのは20ハナゲ、スネを何かの角にぶつけて55ハナゲといった具合に、痛さを具体化していくわけである。そうすると財布を落とした時の落胆は80ハナゲ、失恋の痛みは98ハナゲとでもなるのだろう。
全く人間とはバカなことを考えるものだと思ったりもしたが、考えてみると、痛さという実体のないものを表現する手段としては、なかなかに便利なのかもしれないと思ってみたりもした。
ひょっとすると、「ハナゲ」より「スネゲ」を抜く方が痛いであろうから、1スネゲ=10ハナゲなどセットしていくと、お金のように「痛さの価値」が規定されていくかもしれない。

くだらないとは思いつつ、いろんな感情に応用できそうだと考えてみた。

喜びは「ヒルネ(昼寝)」
寂しさは「カレハ(枯れ葉)」
怒りは「コブシ(拳)」
女性の美しさを「サユリ(吉永小百合)」
人の暖かさを「カイロ(懐炉)」
努力の達成度を「トザン(登山)」------などなど。

くだらないと思いつつ、これらをドラえもんとのび太の会話で試してみた。

「どうしたののび太君?元気ないね」
「ドラえもんか。うん」
「またジャイアンにいじめられたの?」
「ううん。ジャイアンにいじめられるのは慣れてるから20カレハくらいで済むけれど、しずかちゃんに怒られちゃって、僕はもう80カレハだよ」
「何故そんなことになったの?あの98カイロのしずかちゃんが怒るなんて」
「それがさ。何が好きかって話になって、僕はヒルネだなって言ったら、『私はオフロかな』ってしずかちゃんが言うから、つい、しずかちゃんのオフロ姿はきっと90サユリで、それを想像すると96ヒルネだって言っちゃったら---」
「まあ、いやらしいってたたかれたんだね」
「そうなんだ。『のび太さんなんか0カイロだわ!』って。」
「それはしかたがない。88ハナゲくらいショックだろうけど。それにしても、全くどうしようもないね、君は。」
「どうしよう、ドラえもん。ねえ、何かいい道具ない?」

という具合に話は進行してゆく。このあとドラえもんが、のび太に立派な人間になるための努力を要求し、「1トザン」に対して、しずかちゃんの「5コブシ」が消えてゆくという「トザン・ゴブシ交換機!」を出してのび太に努力を迫るのだが---。そのあとは書くのが面倒くさいので、勝手に想像していただきたい。

何でも数値化して、例えば人間の価値まで計ろうとする昨今の傾向には憤りを感じるが、人間は実体のない、見えないものを、何かに「置き換える」ことで、可視化しようとしてきた。その想像力は、人間というものの不可解を考え、自分の存在を把握しようとするとき、おもしろい努力だと思えたりするのである。

例えば「時間上の自分の存在」について。

ひとつは、ある雑誌を読んでいたときのこと、地球誕生から現在にいたるまでの46億年を仮に1年間の時間上に置き換えてみるとどうなるかという記述があった。
それによると、地球誕生の46億年前を1月1日としたとき、光合成バクテリアが出現する30億年前が4月上旬、多細胞生物の出現(10億年前)が既に10月10日ごろになるらしい。
続いて順に三葉虫出現(5億年前)が11月20日、シダ植物繁茂(4億年前)が11月末、魚類の繁栄(3億年前)が12月7日ごろ。
そして、やっとホモサピエンスが登場する3万年前は12月31日の夜、1年が終わろうとする3分26秒前である。中国4千年の文明の黎明ですら28秒前。イエスが生まれた2千年前が14秒前。1秒前に相当する歴史的事件はペリーの浦賀来航となる。この23時59分59秒のペリー来航の時点に生きていた人は、世界にもう一人もいない。
ついでにこの時間上で人間の一生はどのくらいの時間になるんだろうと計算してみたところ、100歳まで生きて0.7秒だった。70歳くらいで0・5秒だろうか。瞬きを2回くらいすると人生は終わってしまうというみみっちさだ。

もうひとつはまったく逆の話だが、永六輔の『夫と妻』という本の中にこんな話が載っていた。
「ぼくの命はお父さんとお母さんの命を受け継いでいて、お父さんとお母さんはおじいちゃんとおばあちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんはひいおじいちゃんとひいおばあちゃん、つまり、どんどんさかのぼって、命はわれわれのなかに伝えられてきているわけです。そうやってさかのぼっていくと、人間になる前の時代、さらにどんどんさかのぼって行けば、最初の生命が生まれたころまでいっちゃいます。そうすると35億年、さかのぼれるのです。みなさんがいま持っている命とは、この35億年の命を受け継いだからこそ、いまここにあるのです。だから僕は35億66歳。14歳の少年は35億14歳。たいした差はないじゃないですか。みんな同じじゃないですか。」と言うわけである。

前者では僕らは人間の小ささを知り、謙虚に生きることの大切さを思う。後者では自分の命が厖大な命につながるその重みを知り、自分をゆったりと見つめなおす事ができる。全く逆の内容だが、共通して見えてくるのは「大事に生きようよ」ということである。

また、例えば「社会的な自分の存在」について

随分前のことになるが、「世界がもし100人の村だったら」という本があった。今とは数字は合わないかもしれない。

この本は、世界がもし100人の村だったらとして、世界40億人の置かれている現状を示している。
世界がもし100人の村だったら、
・52人が女性、48人が男性。
・70人が有色人種、30人が白人。
ふーん、なるほど、なるほどと引き込まれてゆく。
・車を持っている人は7人
・大学教育を受けているのは1人
・コンピューターを持っているのは2人
えっ、そうなんだ、そんなに少ないんだとびっくりする。さらに先を繰ると、
・すべての富のうちの59%をたったの6人で所有し、たったの2%を20人が分け合っている
・すべてのエネルギーのうち20人が80%を使っている・
・空爆、襲撃、地雷などによる殺戮、武装集団のレイプや拉致の脅威に怯えている人が20人。
ホントかよ、と半ば愕然とする。
一部しか紹介できないのは残念だが、この本は世界40億人を100人の村人に「置き換える」ことによって、「人類に存在する不平等」、その中で「自分がいかに恵まれているか」を明確に教えてくれ、「愛」を訴えている。


見えないものを見ようとする、広がろうとする努力。

時は実体のないものであるのに、流れると意識される。しかし本当は、時は流れているわけではない。でも、僕らが今の自分を起点に過去の自分を振り返り、未来の自分を夢見るとき、そこに流れが意識される。僕らの変化が時を創るのである。35億年につながる、0.5秒の生。

共時的な社会や世界も、広がりとして意識される。しかし本当は、社会は広がっているわけではない。でも、僕らが今の自分を起点に視野を広げ、足を運ぶことで、広がりとして言い記される。僕らの変化が社会や世界を作るのである。不平等の上に創られている社会、不平等に無知な自分。

「ハナゲ」を抜く痛さが、不平等に耐える人たちの「痛み」を表し得るかは分からない。でも、「置き換える」ことで可視化しようする工夫は、見えないものを見ようとする、通時的共時的に広がろうとする僕らの努力である。その努力の果てに、人は、あるいはひょっとしたら、大事なものはすぐそばにあることに気づくのかもしれない。


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