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第98話:車の上に物を置く癖

昔々の話である。
結婚式の披露宴に出てくれと教え子から連絡があったので走り始めた。
結婚式と走ることが何故結びつくのかと怪訝に思われる方もいらっしゃるだろうが、実は最近、中年太りが進行し礼服のズボンがはけなくなりつつあったのである。

礼服は買って既に16年、よく頑張っていると思うのだが、祝儀に○万円が出ていく上に礼服を新調するという、その財政事情に溜息をついているカミさんを見て、これはズボンに合う体型に贅肉をそぎ落とさなければならんと意を決し走り始めたのである。

家に帰ってしまうと気持ちが萎えるので、勤務時間が終わった後、学校から最寄りの駅まで走ることにした。片道15分。勿論、なまりきった足でノロノロと走っては歩き、歩いてはまたヨボヨボと走る。
礼服を買わずに済ませるというセコイ夢を胸にひたすら走ったのであった。

残暑厳しい折、西日が照りつけるアスファルトの道を走るので5分もすると汗がバンバン流れ始める。走り終わる頃にはTシャツもジャージもパンツもグチョグチョ状態。でも、いっぱい汗をかくとお腹の脂肪がバンバン燃えてなくなっていくようで、快感。
それに、久しくなかった自分のために汗をかくというという、その感覚が、快感。何だかとても自分が頑張っているような幻想にとらわれたりもする。

「汗をかく」。良い言葉である、などと感慨に浸りながら、それでも何とか1ヶ月が過ぎようとしていた。

そんなある日のこと、走り終えて顔を洗い、車に乗り込んで帰途についた。
ところが、1キロほど走って、ふと自分が腕時計をしていないことに気づいた。
ポケットを探り車の助手席やダッシュボードを探すが見当たらない。車をとめてカバンの中を改めたり、座席の下なんかを覗いてみたりするが、ない。

時計はさほど高級なものではないが一応ブランド品で、同僚からはお前に似合わないとよく言われた。が、そんなことより問題だったのは、この時計が誕生日のプレゼントにカミさんが買ってくれたものだったということだった。
「なくしたら大変な目にあう」という思いが脳裡を鋭い閃光のように貫き、僕を必死にさせた。鞄をひっくり返しもう一度車の隅々を見るが、ない。カミさんの顔を思い浮べながら、それでも気を落ち着かせて記憶の糸をたぐってみる。

すると走り終わって顔を洗ったとき、腕からはずした記憶に行き当たった。
「さて、どこに置いただろう」とふたたび記憶の糸を手繰ってみたときイヤーな予感が胸を走った。

人には誰でも抜けている部分があり、この完璧な僕にもやはり抜けているところがある。
いつぞやも車に乗って走っていたところ、対向車のドライバーがこっちを見て指を立てて一生懸命「上」を指している。「変な奴」と思いながらやり過ごしたが、すれ違う何台かの車のドライバーにパッシングされたり、中には窓から手を出して車の屋根?をたたいたりする。さすがにおかしいと思って車を止め屋根を見ると、そこに靴がそろえて置かれていた。
洗車した後、走り出したらバケツが落ちてきたこともある。
海に出かけた時、お気に入りのジャンパーを脱いで屋根に置き、見事になくしたという実績もあった。煙草なんか何箱なくしたかしれない。

そんなわけで僕には車の上に物を乗せたまま、それを忘れて走ってしまうという「愚癖」があり、このときも「もしかしたら」という悪い予感が頭の中を駆け巡ったのである。

そこで慌てて車の上を見たが既にあろうはずはない。わずかな希望を胸に学校にとって返した。あたりは既に薄暗い。車を止めてあった付近を見回すが、ない。水道の周りを調べてみるが、そこにもない。車を止めてあった場所から校門の方へ目を凝らしていくが、ない。
仕方なく、校門を出て車が走った道筋をたどることにした。すると、10メートルくらい行った最初の交差点に、薄闇の中、光る小さなものがある。
「あれだ!」と思い走って近づく。交差点を曲がったとき車の屋根から振り落とされたのだろう。「傷でもついていなければいいが」と時計の無事を祈りつつ交差点まで来た。

やはり、時計であった。
しかし、時計は期待むなしく見事なまでに粉々に砕けていた。ガラスは割れ、ベルトはねじれてちぎれ、あんなに硬いフレームまでが楕円に押しつぶされ、背面のフタは離れたところにすっ飛んでいた。
落ちていたところを車に轢かれたに違いない。落ちただけならこうまでなるまいに、こんな小さなものは轢かれるより轢かれない可能性の方が高いのにと、何だかかわいそうに思ってバラバラの部品を一つずつ拾い上げていくと、フレームから飛び出した器械部分がチクタクとまだ時を刻んでいた。
あわれである。悲しみに暮れながら、しかしどうすることもできず、車に乗り再び家路についたのであった。


努力の甲斐あって結婚式には、お腹もお尻もキツキツながら何とかズボンを履くことができた。
あの時計について言えば、意外にもカミさんは優しくて「そう、仕方ないわね」と言って許してくれた。日頃の僕の愛のなせる業であろう。

でもあんまり優しいのも何だか気味が悪い。
その夜、僕は布団の中でふと思った。
「俺はガンかもしれない」
「こんなにカミさんが優しいのは・・。だから痩せたのか?」
と様々に思いを巡らせて、まんじりともせず夜を明かしたのであった。


愚かな話である。
それにしても男が何かヘマをした時、顔を思い浮かべるのが、妻であったり母であったり、女性であることは、どうしてなのだろうかと思ってみたりするこの頃である。


■土竜のひとりごと:第98話

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