第150話:ドラマ
いつか寄席でドラマの作り方についての話を聞いたことがあった。単なる余談であり、その話を聞いたのも噺家からではない。極めて曖昧だが、概ねこんな話だった。
これがドラマであり、ドラマとは「驚き」そのものなのだと彼は言う。確かにこの話の「バナナが耳に刺さっている」という設定は驚きに値する。電車に乗っても街を歩いても、バナナを耳にさしている人を目にすることは、まずない。更に最後にオバアサンのひと言で、ドンデンガエシを図り再び意表をつくところも、確かにパターンとしてはドラマチックではある。
この「バナナ」くらいの話なら僕にも作れるかもしれない、と間抜けな僕はすぐ考えたわけで、ドラマを書いて一発当てれば貧乏から脱出できるではないかと思いついて書き留めてみた。
ひとつはウルトラマン一家の日常と題して怪獣と戦わないウルトラマンをファミリーとして描き出すのもの。
第1話は、ウルトラマンと帰ってきたウルトラマンは同一ウルトラマンか?
というタイトル。ある日、ウルトラ兄弟でケーキを分け合おうとしたとき、ウルトラマンがふと思いつく。「帰ってきたウルトラマンと言うが、『帰ってきた』ということはウルトラマンである自分自身が帰ってきたということであり、帰ってきたウルトラマンは実は自分自身である。したがって自分は2人分のケーキが食べられるのだ」と。そこから兄弟の中で二人が、二人であるか、一人であるか、ケーキをかけて熾烈な論争が展開するというものである。
第2話は、「太郎とは日本古来長男の呼び名である」と主張するウルトラマンタロウと初代ウルトラマンとの間に起こったどちらが長男か論争。
第3話は「トランプ好きのウルトラマンエースとウルトラセブンのパチンコ狂い」について。
第4話は「ウルトラセブン捨て子説」。ウルトラセブンだけが「ウルトラマン」ではないことからウルトラセブンが自分の出生に疑念を持つのである。
第5話は、「カネゴンとウルトラの父の宝くじ奮闘記」。
第6話は「ウルトラの母と更年期障害」。
第7話は・・。
無限に続く長寿番組ができそうである。いずれ劣らぬすばらしい着想だと思うのだが、カミさんにこれを得々として語ってみたところ、彼女は深いため息をもってこれに応じたのである。この才能のすばらしさを理解できない愚かな感性と言わなければならない。
ならばこれはどうだろうか。
僕宛に、ある女性から毎年年賀状がくる。ところが僕はこの女性に全く心当たりがない。卒業生かとも、かつての同僚かとも思い名簿をひっくり返してみるが、どこにもその名は見当たらない。あらゆる記憶を総動員してみるが、わからない。それでいてきちんと毎年この女性から年賀状が届くのである。相手が正体不明なので曖昧に当り障りのないことを書いて返事を出すのだが、これをひとつの糸口にドラマができるのではないかと夢想してみる。
作品1
男は出版社に勤めている。ある日ある若い女が原稿を持って訪れた。それを見るとそこに年賀状の女の名が書かれている。驚いて顔を見るが見覚えはない。しかしその夜、家に帰って女の原稿に目を通していた男は驚く。そこに書かれていたのは男の知らなかった彼自身の出生や男の父親の死を巡る政界疑惑であった。女の筆を通し劇中劇の形で男の実存が揺り動かされる・・。
あるいはもっとSFタッチに創り上げてもいい。
作品2
もうひとつの時空がこの時空と螺旋状に絡み合って世界を形成している。男と女はともに二つの空間で恋人として生きていた。しかし、偶発的な時空のゆがみによって女は異空間であるこの世界にさまよいこんでしまう。やがて異空間の男を愛するようになった女は、同じ二人の男を愛する苦悩と男の恋人である自分自身を拒絶する自分を直視しなければならないのであった。愛と存在の危機を描く渾身の長編。
なかなかすばらしい着想ではないか。
僕はこれこそ賞賛に値すると考え、早速カミさんに「ドラマ作家として身を立てる決意をした」と告げたのであったが、彼女は「へぇー、そう」と言ったきり、あっちへ行ってしまった。
才能と無能の境界はどこにあるのだろう・・。
今日も僕の頭の中ではウルトラマンが昼寝をしたり鼻クソをほじっていたりする。
■土竜のひとりごと:第150話
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