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第234話:ぽつんと一軒家

日曜の夜は「ぽつんと一軒家」を観る。カミさんは「イッテQ」を観たそうなので、何となくたまに観る。大河ドラマは録画して置いて別の日に観ることになっている。

多くの同じ世代の人が結構「ぽつんと一軒家」に嵌っていると聞くのだが、確かにいい。あんな暮らしがしてみたいと思ってみたりする。何だか、ただただ忙しく毎日が過ぎていくと、やむにやまれず、ああ自然の中で原点に帰りたいと思うのかもしれない。

紫陽花が静かに雨に濡れてゐて どこかに行ってしまいたい

・・・


でも、多分それは甘っちょろいノスタルジーなのだろうとも思う。
確かにみんな楽しそうに暮らしを語るが、ここに至るまでには大変な思いをしながら暮らしていて、そんな中でそれを苦労と思わず、むしろ楽しんでいるのではないかと思ってみたりする。
貧しさや過酷な自然と労働・・虫に触れない都会者が憧れだけで暮らし始めたとしても、すぐに音を上げることになるだろう。

僕がすごいなと思うのは、その「住まい方」のきれいなことである。紹介されるどの家の中もきちっと片付けられ、周囲も手入れされている。それはまさに人柄であり、そういう「生き方」の証なのだろうと思う。



僕の机は、職場も家も、まさに「汚い」。山のように積み上げられて今にも崩れんばかりの本やプリント。机の中はグチョグチョで、ほとんど何が入っているかもわからないゴミ溜めのようである。
職場で席が隣の同僚はきれい好きで、それが許せないらしく、時々僕の机を勝手に片付ける。不要な印刷物を捨て、机の中も整理し、鉛筆もきれいに削って並べてくれる。そこまでしなくてもいいと言いたくなるくらい。

他人に片づけられると、その辺りにあったがなあ・・と思うものが全く見出だせなくなり、「汚い中にも俺には俺の秩序があるんだ」と文句を言ってみたりもするのだが、でも、それはきっと僕のさもしい「生き方」の現れなのだろう。



話が変わるが、カミさんのお母さんが昨年の4月に亡くなった。
既に娘二人は嫁ぎ、お父さんも数年前に亡くなっていて、一人暮らしをしていた。どこが悪いということもなかったが、だんだん弱ってしまったので、娘二人が交互に実家に行って面倒を見ていたのだ。実家は川崎、娘たちは静岡と千葉。それほど遠いということではなかったが、長期に渡ると負担も大きく、やむなく施設に入居しようということになった。お母さんも賛成だった。

でも、施設に入ったそのすぐ翌朝だった・・。眠るように息を引き取った。
もう、自分の役目は終わったと身体が思ったのかもしれない。日本興業銀行で石垣りんと一緒に勤めたこともあるという。優しい、よく気の付く人だった。


カミさんと一緒にその後「誰もいなくなった家」を何度か片付けに行ったが、こんなものまでと思うものが何でも捨てずに取ってある。
古いアイロン、習字の半紙、筆、地図、カーテンフック、はたき、洗濯ひも・・。しかもそうした物はきちんと何かに包まれて、その上にはそれが何であるかがメモ書きされている。
そう、僕のおばあちゃんもそういう人だったなどと思ってみたりする。物を大切にし、きちっと整理する。そこに「人柄」があり、「住まい方」がある、そんな気がした。


だから、「ぽつんと一軒家」に郷愁を感じるとすれば、それは自然の中の暮らしというより、そういう「住まい方」にあるのではないかと思う。
穿った言い方をすれば、大量の物や情報が垂れ流しのように流れ、消費されていく社会の中で「きちんとした在り方」へのノスタルジーなのかもしれないなどと思ってみたりするのだ。


僕が「ぽつんと一軒家」に逃避して暮らしてみたところで、「ゴミ屋敷」の中で、ゴキブリと闘う「忙しい」日々が繰り返されるに違いない。


■土竜のひとりごと:第234話

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