ぽつんと一軒家

日曜の夜は「ぽつんと一軒家」を観る。カミさんは「イッテQ」を観たそうなので、何となくたまに観る。大河ドラマは録画して置いて別の日に観ることになっている。

多くの同じ世代の人が結構「ぽつんと一軒家」に嵌っていると聞くのだが、確かにいい。あんな暮らしがしてみたいと思ってみたりする。何だか、ただただ忙しく毎日が過ぎていくと、やむにやまれず、ああ自然の中で原点に帰りたいと思うのかもしれない。

紫陽花が静かに雨に濡れてゐて どこかに行ってしまいたい

・・・


でも、多分それは甘っちょろいノスタルジーなのだろうとも思う。確かに自由を楽しんでいるのだが、本当はあの一軒家の方たちは自然の中で大変な思いをしながら暮らしていながら、そんな中でその苦労を楽しんでいるのではないかと思ってみたりする。
虫に触れない都会者が憧れだけで暮らし始めたとしても、すぐに音を上げることになるだろう。

僕がすごいなと思うのは、その「住まい方」のきれいなことである。紹介されるどの家の中もきちっと片付けられ、周囲も手入れされている。それはまさに人柄であり、そういう「生き方」なのだろう。



僕の机は、職場も家も、まさに「汚い」。山のように積み上げられて今にも崩れんばかりの本やプリント。机の中はグチョグチョで、ほとんどゴミ溜めのようである。
職場で席が隣の同僚はきれい好きな人で、それが許せないらしい。時々僕の机を勝手に片付ける。不要な印刷物を捨て、机の中も整理し、鉛筆もきれいに削って並べてくれる。そこまでしなくてもいいと言いたくなるくらい。

他人に片づけられると、その辺りにあったがなあ・・と思うものが全く見出だせなくなり、「汚い中にも俺には俺の秩序があるんだ」と文句を言ってみたりもするが、でも、それはきっと僕のさもしい「生き方」の現れなのだろう。



話が変わるが、カミさんのお母さんが昨年の4月に亡くなった。
既に娘二人は嫁ぎ、お父さんも数年前に亡くなっていて、一人暮らしをしていた。どこが悪いということもなかったが、だんだん弱ってしまったので、娘二人が交互に実家に行って面倒を見ていたのだが、川崎と静岡と千葉だからそれほど遠いということではなかったが、長期に渡ると負担も大きく、やむなく施設に入れようということになった。お母さんも賛成だった。

でも、施設に入ったすぐ翌朝だった・・。眠るように息を引き取った。もう、自分の役目は終わったと身体が思ったのかもしれない。日本興業銀行で石垣りんと一緒に勤めたこともあるという。優しい、よく気の付く人だった。


カミさんと一緒にその後、「誰もいなくなった家」を何度か片付けに行ったが、こんなものまでと思うものが何でも捨てずに取ってある。
古いアイロン、習字の半紙、筆、地図、カーテンフック、はたき、洗濯ひも・・。しかもそうした物はきちんと何かに包まれて、その上にはそれが何であるかがメモ書きされている。
そう、僕のおばあちゃんもそういう人だったなどと思ってみたりする。物を大切にし、きちっと整理する。そこに「人柄」があり、「住まい方」がある、そんな気がした。


だから、「ぽつんと一軒家」に郷愁を感じるとすれば、それはそういう「住まい方」にあるのではないかと思う。
穿った言い方をすれば、大量の物や情報が垂れ流しのように流れ、消費されていく社会の中で、「きちんとした在り方」へのノスタルジーなのかもしれないなどと思ってみる。


僕が「ぽつんと一軒家」に逃避して暮らしてみたところで、「ゴミ屋敷」の中で、ゴキブリと闘う「忙しい」日々が繰り返されるに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?