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第256話:噛み合わない授業

昨日、生徒に「普遍性」という言葉を説明した。

普遍ってどういうこと?
と、まず単刀直に聞くと、「変わらない真実かなあ」とある生徒が答える。「不変の愛みたいなやつか」と別のやつが茶化す。
真実も愛もそうかもしれないが「普遍」自体は「変わらない」ってことだと言いながら、
普・遍」はどちらも「く」という送り仮名で同じ訓読みをするんだが分かる?
と尋ねると、今度は分からないと見えて、みんな首を傾げている。

これは『あまねく』って読む。
「広くあまねく」って言い方を今でもよく使うけど分かる?
と聞くと、「聞いたことはあるかもしれないが、ないかもしれない」という訳のわからない答えが返ってくる。そんなものかもしれない。

ついでに言うと「周く」も多分「あまねく」って読まれる。
『万国公法』を訳した西周って人を知ってる?
と聞くと、日本史を勉強している生徒は首を縦にふる。
沼津駅の横に「あまねガード」ってあるでしょ。あれは西周が沼津兵学校の校長をしていた関係でそういう名前が付けられたんだそうだと言うと、「へぇー」という顔をしている。

話がそれたけど「普遍」はだから「いつでも、いかなる場所でも変わらず同じである」ことを言う。

ついでだけど「遍」という漢字に似ている字に「偏」があるけど、
これはなんと読むの?
そうそう「かたよる」と読むから間違えないように。「偏在」なら「かたよって在る」だけど、「遍在」は「どこにでも在る」ってことだ。
と、そんなことを言ってみるが、こういう余分なことを言うとテストで何人もの生徒が「遍」を「偏」と書いてくるから面白い。誤答例を紹介するとかえって混乱を招くのは、実は「勉強あるある」であるらしい。もっと簡潔に言うと授業をただ聞き流しているからだと思うが。

話を元に戻そう。
じゃあ、君らは普遍的なもの・ことと言ったら何を思い浮かべる?
と問うと、「テストが自由を阻害することだ」と言う。
なるほど。ただ確かにそうかもしれないが、それは普遍的じゃなく「一般的にそうだ」という言い方になる。「一般的」には例外があるが、「普遍的」には例外がない。テストが有益だと思っている「出来のいい子」もいるよね。
と説明すると、「それって俺たちが劣等生だって言いたいって聞こえるんだけど」と訴えてくる。

とりあえず無視して進む。
じゃあ「普遍」の反対語は何?
と尋ねると、「んへふ」と答えてくる。
君たちは日本人か?
と問うと、「それってパワハラなんじゃない?」と応戦してくる。
再び無視して、「普遍」の反対語は「特殊」だよと言うと、「なるほど」と言う顔を一応はする。

じゃあ、君らは「普遍」と「特殊」とどちらがプラスだと思う?
と聞くと、これは半々くらいになるだろうか。「普遍」の方が多いかもしれない。

例えば自然科学は不分明な現象を分析して、そこから客観的な法則を導き出す。そういうのが「普遍性」。
1+1=2って、いつでもどこでも変わらないよね?
と問うと、「いや、部活の先生は一人一人が結束すれば1+1は3にも4にもなるってよく説教する」と言う。

これも無視しよう。ちょっと隣の席の人の顔を見てご覧。
その人は「特殊」じゃない?
と聞くと、「特殊って言うか、まったく変なやつでしかない」「お前こそ変だ」とお互いに言い合っている。
僕らも君らの書類を書くときに、うるさい人は「明るい人柄」、言うことを聞かない人は「自主性がある」と書いたりするんだけど、

「変!」って言うのは、よく言えば個性的ってことでいい?

いかなる場合も変わらない「普遍」って考え方は「標準」って考え方に繋がりやすい。「標準的な人間」なら、その人でなくても構わない。
これを交換可能な個人とか顔のない個人と言ったりする。今ならパワハラって言われるかもしれないけど、昔は社会では「お前の代わりなんかいくらでもいるんだ」ってそんなセリフが横行していた。部品なんだよね。

どう?隣の人、別にこいつじゃなくても取り替えても構わないよね?
と言うと、「それはちょっと心では思っていても面と向かっては言えない台詞だ」と言う。

だから「普遍」はもちろん大切なんだけど、「普遍」が大切と考えられている現代では、アンチテーゼとして「特殊」の方が価値があるって考え方に傾く。
「みんな違くてみんないい」「世界に一つだけの花」って。君たちが目にする評論やコラムもそう。現代評論は常に進行(暴走)方向に対するブレーキとして作用する。

えっ、「なんか急に固くてつまらない話になった」?

じゃあ、例えば、カルピス、好き?
カルピスはね、昔は瓶の原液しかなかったから、各家庭で味が違った。お金持ちの友達の家に遊びに行って飲むと、こんなに濃くて甘いんだと思った。お母さんの機嫌によっても濃さが違ったんだ。だから、昔はカルピスの味はバラバラで個性的であり、特殊だったことになる。
ところがカルピスウォーターが発売されるようになると、「これがカルピスだ」という「標準」が示されてカルピスの味が決定される。すると、特に薄いカルピスは疎外される。「標準」が定まると、それに合致しないマイノリティが排除されるようになるのと同じだ。そこに現代が抱える問題がある。

と言ってみるが、「今でも原液で売ってるぜ」とか「じゃあ、カルピスソーダの存在はどう位置付ければいいんだ」とか話がズレる。

なかなか噛み合わない。
言葉が荒くなる。
いいか、お前たち、大学に行って下宿生活をすると外食ばかりして「お袋の味」が恋しくなったりする。ハンバーガーだけ食べていたらお金もなくなるし、健康にも良くない。今のうちに台所でお母さんの横に立って料理を手伝うといい。気分転換にもなるし、お母さんの大変さもわかる。
「お袋の味」はかけがえのない価値だと思わないか?

と言うと、「でも、だいたい冷凍食品だよな」とか「最近はクックパッドだよな」とお互い言い合っている。

ああ今日もすれ違いだと思いつつ教室を後にするのだった。


■土竜のひとりごと:第256話

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