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ケータイ

久しぶりに会った友達が「おまえでもケータイ持ってるのか?」と驚いて聞くほど僕は文明のニオイがしない人間であるらしい。定時制に勤めていた時、生徒が「連絡が取れなくて面倒」という理由で「オレのプリペイドのやつで使ってないのがあるから、やるよ」ということになりケータイを持つことになったわけである。

便利である。ケータイはまずつながる。つながらなくても着信が残るから後で必ずつながる。連絡手段としては非常に優れている。待ち合わせも時間と場所を何となく打ち合わせておくだけで、当日、互いに電話を掛け合いながら近づいていけぱいい。待ち合わせで何分待つか?という問に対する回答は、その平均が昔は4時間であったのに対し、今は20分であると聞いたことがある。

若い世代にとっては、既になくてはならないコミュニケーションツールであって、生徒は「ケータイがなければ生きていけない」と言う。僕であっても今は家に忘れれば、一日、何となく心もとなさを感じさせるだけの力は持っている。

「生きてる?」みたいな生存確認がふらっと卒業生から来たりもする。突然「オレは負け犬にはならない」などと訳の分からない宣言もある。深刻な内容の相談もあれば、声を発しない生徒との橋渡しにも一役買った。聞くところではうまく意思を交わせない生徒同士が、電車の中で向かい合ってlineで会話しているなどということも実際あるらしい。

愛人のいない僕はさほど便利を感じたことはないが、愛を囁くにもケータイは格好の兵器である。「昔は家電しかなかったから、彼女に電話をかけると親が最初に出て来たんだぞ」と生徒に言うと「絶対にヤダ」と叫ぶことになる。他人を介在させず、相手に自分の表情を読まれる煩わしさを避けて何かを伝えることができる。

利点があれば、当然のことながら欠点もある。それがいじめの原因になったり、lineであれば、既読スルーとか、既読もつかないとか、そんなこともお互いの人間関係に影を差すようだ。男女が付き合うと、毎日毎晩連絡を取り合うのが普通だと言うから、鬱陶しかろうなと僕は思ってしまうのだが、どうだろう、毎日連絡を取る、それって普通のこと?

僕はカミさんと付き合っている時、あまりこまめに連絡を取らなかった。静岡と川崎、プチ遠距離だった付き合いは、それでも2カ月に一度くらい中間の伊豆で会ったりしたが、自分からカミさんに電話をかけることはあまりなかった。

いつだったかカミさんから電話があり、「私は、私から連絡を取らないと、あなたがどのくらい私に連絡をしてこないか試してみました。二日経っても、三日経っても、一週間経っても、一か月経っても、二カ月経ってもかかって来ないので私の方から電話しました」と言われた。
「あれー」って感じだったよと生徒に話をすると、「なんてかわいそうな奥さん!」と叫ぶ。「そんな人とは絶対に付き合わない」ということだった。僕がもし「現代」に生きていたら誰とも結婚できないに違いない。

それでも彼ら彼女らは、「それじゃあ、lineでプロポーズはありか?」と聞くと、「それは絶対あり得ない」と言う。「『付き合ってくれませんか?』くらいまでならあるかもしれない」とも言う。どんなに便利な道具があっても、人生の大事は肉声である必要があるらしい。


さて、テレビで芸能人に向かってみんながケータイを向けている光景が異様に思えたのも束の間のことだった。ケータイは通信手段だけではなく、動画やテレビ電話など夢の夢と思ったことをいとも簡単にやってのけ、情報へのアクセス、音楽鑑賞、支払い、ナビ、ゲーム、身体機能のチェックまで、それがあればどんなことでも用を足してくれるようになった。
でもやはり、ありきたりな感想だが、そうした一極集中に対する「盲信」には、何だか「支配」のニオイを感じてしまう。

例えば、ナビがは目的地に案内してくれる。しかしその時、自分がどこにいて、どこをどう通って行くかを考える作業は省略される。地図を広げながらルートの確認をするのは「歩く道筋」を確認する作業でもある。
比喩的に言えば、それは「自分の歩く道筋」を考える訓練であると言ってもいい。ものを作ることが大切だと言われるのは、全体像をイメージしながら、材料を整え、工夫しながら作り上げていく、その流れ全体が僕らに人生を創る、すなわち「生きるイメージ」を与えてくれるからである。結果だけが点として何の「手触り」もなく与えられてしまう欠落は、予想以上に大きな欠落なのかもしれない。

固いことを言うなと思われるかもしれないが、相手を傷つける実感がないままに行われる犯罪やいじめ、小学4年生対象の調査で太陽の昇る方角が分からなかった子供が28%もいたという記事などを目にしたり、単純な話、ケータイのゲームで自分の生活をダメにしてしまう高校生はすごく多い現状を考えると、人にまみれ、創ったり傷ついたりする「手触り」の実感の中で、生きる手触りを学んでいくことを少し真剣に考えてみる必要があると思ったりもする。

「かつて」を知っている大人にとっては、どこかに危険な落とし穴の存在を感じるブラックボックスであるものも、「物心ついたときに既にそれがあった世代にとっては、それが当然のものでしかない」という視点が大事なのだろうと思う。


全くの蛇足だが、20年前、僕がケータイを使い始めた頃、カミさんは当然持っていなかった。居間に転がっている時、メールが来たのでしばらくやり取りしていると、カミさんが「どうやってやるの?」と聞いてきた。「こんな感じ」とちょっと見せると、「ずいぶん短いのね」と言う。そう、元気?・ふ~ん・それで?とか、彼ら彼女らのメールは非常に短い。「メールって言ってもパソコンのメールと違って文章を打つんじゃなくて、文字で会話をしている感じ。ある意味これは非常に新しい伝達方式かもしれない」と言うと、「ふ~ん」と言っている。
「電話をかけるときはどうするの?」と聞くので、「じゃ、今、《うちの電話》にかけてみようか」と言って《うちの電話》にかけると、全く当然のことながら《うちの電話》が「り~んり~ん」と鳴り始めたのであるが、カミさんはまた「ふ~ん」とでも言うかと思いきや、なんと!「あっ、電話だ。こんな時間に誰だろう」と言って電話口まで行き受話器を取り、ご丁寧に「もしもし、土屋でございます」などと言っていた。

この人は「文明」とは全く無縁な人らしい。

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