見出し画像

第131話:働くということ

■ 働くとははたを楽にすることだ。

このフレーズをもって「働く」ということがよく説明されます。
これは語源的には全く意味のない語呂合わせなのですが、にもかかわらず「働く」ということがこんなふうに説明されることは、逆説的に実際の「労働」がそこから遠いところにあることの、ひとつの証明なのかもしれません。

傍を楽にする。
これは素晴らしい考え方だと思います。
僕がこれを単なる理念ではなく実感としてそう思うのは特別支援学校勤務時代に大変お世話になった校長が、よく次のような話をしてくれたからです。

特別支援学校の子どもたちにとって「働く」ことはキレイゴトではありません。お金を稼ぐことでもありません。でも生活を成り立たせるための切実な問題です。仕事に就ける生徒は本当に障がいの軽い一握りの生徒で、ほとんど生徒は一生親が面倒を見なくてはいけません。

障がいを持つ子供の親は大変な苦労をしています。自分の子が障がい者であることを受け入れなければならなかったことも辛いことですし、偏見の目にもさらされ、生活の疲れから家庭が崩壊していくケースもあります。
苦難を乗り越えてきたお母さんたちはさすがに強く、明るく頑張っていますが、「この子を残して死ねない」とよく語ってくれます。
ちょっと自分の子が障がいを持って生まれたと想像してみてください。100人に3人が障害を持って生まれてくるそうです。

そういうご両親にとって、多動で目を離せない子が例えば絵を描く時だけは静かにしてくれれば楽になりますし、言葉を理解できない子が簡単なサインを覚えて意志や思いを表現してくれるようになれば大きな喜びになります。排泄が定時にできるようになる、着替えのボタンが自分でかけられるようになる、ひとりで5m歩ける、寝たきりの子がベットの上で「にこっ」とする・・。
そうした、小さな小さなひとつひとつのことが周囲の人に喜びを与え気持ちを楽にしてくれます。

働くとは傍を楽にすることだ。

働くことに意味を見いだせない僕らが、働くことに意味を見出そうとして自分の労働を強引にそう解釈するのとは違う視点が、このフレーズの確かさを僕の中で支えているような気がしています。


■ しかし、キレイゴトに過ぎないか?

働くとは傍を楽にすることだ。

それは実感として、とても正しいのだと思います。ただ、やはりそれがキレイゴトに過ぎないという現実も今の社会に生きている限り認めなくてはいけないのだろうと思います。
例えば、苦難の最中にいるときに「神は苦難を乗り越えられる人にしか苦難を与えない」と言われても、むしろ空虚しか感じられないように。

例えば、定時制にいるときに出会った生徒の幾人か。

家計を助けるために普通高校への進学を諦め、毎朝3時から新聞配達をし冬になるとひどい赤切れで手に血を滲ませていた女子生徒。
悪さをして高校を中退し一人で生計を立てるために21:00に学校が終わると夜勤に行き、夜が明けると別な仕事に行き、一日中働ていた生徒。
同じく結構な悪さをしてきたために、仕事に就いてもどこからか噂が入って来て辞めさせられてしまう生徒。
大学に合格しても結局お金の工面の見通しが立たずに辞退。
外国籍の生徒が言葉の壁でうまく社会に適応できないケース。
ある女子生徒は母国では有数の高校に通っていたのに、日本に働きに来ていた母親が日本人と結婚したため日本に呼ばれ、昼間は働いて家計を助けるために定時制に来ていました。でもアルバイトで稼いだお金は親がパチンコに使ってしまうのだと嘆いていました。
7年間の引きこもりを経て20歳になって定時制にきた生徒もいました。

学費も思うように払えない、中学時代に受けたいじめの深い心の傷、両親の愛情を受けられなかった、病気でいつまで生きられるかわからない・・背負っている現実は、みんなそれぞれに深くて重く、そうした現実をセットで考えたとき、働くとは傍を楽にすることだ・・という言葉をかけてあげられない。

稼がなきゃあ、食っていけねえだろう」と怒鳴られそうな気がします。

今も生きるのに大変な人たちがたくさんいるでしょう。
格差、貧困、シングルマザー、子ども食堂、路上生活、年末年越し村、非正規雇用者、ワーキングプア・コロナ禍での廃業・・
そんな「ことば」が乱舞する中で、「働くとは傍を楽にすることだ」という言葉が虚しく感じられたりします。

孟子は「恒産なくして恒心なし」と言いました。そう、確かに安定した経済に支えられて初めてその理念が有効になるのかもしれません。


■ 結局は金かと思わせない仕組みを・・

僕も退職にあたっては複雑な思いがあります。

定年を迎えれば少しは時間的なゆとりができるかと思って頑張って来たのですが、年金支給が先送りされ、描いていたゴールテープがふっと向こうに行ってしまった感じです。
お金のことなど全く考えずに退職を控えて初めて現実を見た迂闊さと言ったらいいでしょうか。70歳で2000万円と言われても。
38年間結構必死で働いてきたが、なるほど、家も持てないか、バイクも売らなければならないか、年金もさほどの額ではなく死ぬまで働くか・・、そんな暗澹たる圧迫感の中にいるのも事実です。

多分、次元が違うと思いますが、長谷部誠が「自分はお金と無縁なものとしてサッカーと向き合いたいと思ってプレーしてきたが、コロナ禍の中でいかにサッカーが『経済』と結びついていたことに気づかされ、釈然としない思いだ」という主旨のことを言っていました。

人が純粋に「仕事」に向き合う気持ちを「所詮は金か」と思わせてしまう制度・システム・考え方はどこか違うと思います。
総裁選前は「分配」と言っていた首相が突然「投資」と言い出しました。投資は必要な在り方だとしても、そういうマネーゲームと「はたらく」こともどこか違う気がします。
資本主義の理想的な形態が「皆の幸せ」であり、その実現が「はたらく」ことと「分配」にあるとしたら、権益のしがらみを打破して断固として人々の暮らしを守る政治があっても良いと思うのですが。


働くとは傍を楽にすることだ。

そういう考えがキレイゴトでない世の中であればいいと思います。


■土竜のひとりごと:第131話
*かつて書いたものを2020年頃に加筆修正しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?