見出し画像

第125話:月の勉強

*)これは教材だと承知してください。

太陽は東から昇って西に沈むけど、月は?
なぞなぞ」じゃない、単純に真面目な質問。

答えは太陽と同じ東から西。
ちょっと意地悪な聞き方だけど、誘導に引っかかって「西から東」と思った人はいない?当たり前のことなんだけど、当たり前だからかえって間違えられないと思うと動揺したりしてしまう?

何故そんな現象が起きるのかというと、現代は夜になってもこうこうと灯りがついていて何の不自由を感じることもないから。昨今では24時間営業の店舗も当たり前のように増えてきて「眠らない街」は盛り場だけではなくなってきている。

でも、灯りが乏しかった昔は闇を照らす月は大切なものだったことは容易に想像できるよね。満月の時はまるで昼間のように明るく、月のない夜は一歩先が見えないくらいに暗い。月の光に敏感にならざるを得なかった。だから、僕らは闇を失うと同時に月の存在も失ってしまった。

ちょうどラブレターがケータイの普及とともにその存在を忘れられ、そこにあった「一人想う恋」の概念が消えつつあるように、月は君たちにとって遠い存在になり、月に寄せる思いは勿論、月の出る方角すらも分からなくなってしまったということになる。

そこで今回は純粋に月の基本、面倒臭位かもしれないけど。

まず、月の変化で大事なのは満ち欠けをするということ。
当たり前?

月の光は太陽の反射だから月が地球と太陽の間にある時は見えない。これが新月の状態。月の位置が月が地球の周りを回ることでズレると地球からは月が光を受けて見え始め、段々に光を受けて見える部分が大きくなっていく。そして、ちょうど月が地球の反対側に行くと地球からは月が太陽の光をすべて受けている状態に見えるのが満月。更に月が回っていくと、それまでとは逆に、反対側が欠けていくように見え、最後に新月の状態に戻るということになる。

だから、振り出しは新月だけど、これはまだ見えない。
次第に光を持ち、目に見え始めるのは三日月として夕暮れの西の空に現れる頃。
それが段々に太っていく。
ちょうど半月になった状態を弓にたとえて上弦の月と言う。
更に太り、満月望(もち)と言う。
その後、今度は反対側が欠けていき再び半月の状態を迎える。
西の空に沈む形で、今度は弓の弦が下を向くので下弦の月と言う。
そして次第に細り最後になくなってしまう。
この周期が太陰暦の1ヶ月。

月がちょうど地球の周りを一周したのであって、この日数が29.4日。太陽暦の1カ月より短いので誤差も大きい。太陽暦でも4年に一度閏年があって余分な一日を設けて調整するように、閏月といって一か月余分にある年もある。

現在でも月の初めの日をついたちと言うけど、これは「月が現れる」ことを月立ちと言ったから。自然界に何かがふっと現れることを古文では「立つ」と言う。「風立ちぬ」とか。
月の最後の日は月が籠ってなくなってしまうので月籠りついたちと比べると馴染みは薄いかもしれないが、これが縮まってつごもり。大晦日は大つごもり。樋ロ一葉の小説にある。
ついでに英語のMONTHMOONからきているらしい。

もう一つ大事な月の変化は、同時刻に同じ空にあるのではないということ。
昼間も月が出ているよね。
昼に昇って夜中に沈んでしまうものもあれば、夜中に昇って昼間沈む月もある。月は夜の空ばかりにあるのではない。

これは地球が一日一回りする間に月も地球の周りを動いているから。
僕らが地球に乗っかって一周し再び同じ位置で空を見上げると12°位置をずらしている。何故かというと、月は約30日かけて地球の周りを一周するから360°÷30日だ。面倒臭い?
だから僕らが昨日と同じ時刻に空を見上げても、月はそこにはない。月が先に行ってしまうということは、僕らから見ると月の出る時間が遅く見える。12°のズレは単純に計算すると、48分。それだけ毎日ズレて行く。

満月、15日を基準にするとわかりやすい。大雑把にこの時、月は夕方の18:00に東の空に昇って朝の6:00に西の空に沈む。
翌日の16日には前日より月の出は遅くなる。十六夜と書いていざよいと読むけど、月がまるで出てくるのを躊躇しているように見えるというので、ためらうという意味のいざよふを当てたところから来ている。
一日一日、月の名前が変化していくのがおもしろい。
翌日になるとまた遅くなる。なかなか出てこないので待ち遠しい。縁に立って待つ。だから立待の月
翌日になると、立っているのもくたびれるので座って待つ。居待の月
翌日は座って待つのもしんどいので、寝転がって待つ。これを寝待の月とか臥待の月などと呼ぶ。これが19日の月ということになるが、夜の9時過ぎに昇ってくる計算になる。
20日の月を夜が更けてから昇るので、更待月と言ったりもする。
月の出が遅くなれば、当然月が沈むのも遅くなるわけで、月は朝になってもまだその姿を空にとどめていることになる。それが有明の月

こんなふうに拾っていくと日本人は月をいろいろな名前で呼び表していたことがわかると思う。夕月・弓張り月・おぼろ月・田毎の月とか、他にもまだたくさんのことばがあるけど、そうした名前の多さはいかに日本人が月と親しんできたかをよく表している。
不思議なことに星には月ほど関心がなかった?けど、「雪月花」と言って、月は日本人にとって美の代表だった。

それから、月は単に美しいだけではなく、夜を彩るものとして生活感情と密接に結びついてもいた。
例えば、夜は基本的には男と女が逢う時間。昔の結婚形態は「通い婚」と言って女の家に男が通うかたちであったから、女にとって「恋」は「待つこと」と同義だった。
来ぬ人を待つ、その切ない気持ちが月と重ねられる。ずーっと待って結局、有明の月を見ることになってしまうこともあった。あるいは逆に、有明の月は、逢瀬を遂げて、その後朝(きぬぎぬ)に恋しい人と二人で眺めた思いの深い月であることもあったかもしれない。
例えばそんなふうに月は人々の心に息づいてきた。

そんな月のことを頭に置いて古典を読んでみるといいと思う。

例えば、大鏡に花山天皇が陰謀によって出家させられてしまう記述がある(2024の大河ドラマ「光る君へ」の一場面にもあった)。
花山天皇は前年妃を失ってから出家に傾く気持ちはあったのだが、それに乗じて一条天皇を帝位につけるために藤原兼通、道兼親子が花山天皇を引きずりおろそうとする。

出家の日、その明け方、天皇が宮中から出ようとしたときにも有明の月がこうこうと照っていた。

「明るいなあ」と花山天皇はつぶやくのだけれど、それは表面的には秘密裏に行おうとしている出家に不都合だということなのだが、明らかにそこには「自分は本当に出家してしまうのか」という天皇の迷いがある。
まだ19歳、亡き妃の思い出や現世への未練を断ち切ることは難しい。その迷いをこうこうと月が照らす。

一方、なんとか出家させてしまいたい道兼は、嘘をついたり、嘘泣きまでして天皇を出家に導こうとする。その道兼の上にもこうこうと月が照っている。6月22日。季節は夏。夏の夜は短い。その明け方に照る月は彼の焦りを誘う。夜が明けてしまえば、たくらみは失敗してしまう。

同じ月を見ながら、両者の思いは全く別の方向を向いている・・。

面白かった?
全然?精も魂も尽きた?
そう。月は消えてなくなっちゃうから「尽き」が語源だという説がある。
じゃあ、チャイムが鳴ったので消えるね。


■土竜のひとりごと:第125話



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?