第54話:電話
30年も前に自分が書いた文章を見返していたら、H2(1990)頃のものにこんなふうに書かれていた。
30数年も前のことであり、この頃はまだごく特定の人がショルダーフォンを使っていただけの時代であって、ケータイやスマホが当たり前の時代からすれば、「何を言っているか」とせせら笑われてしまう内容だろう。
いつでもそうだが、ちょっと振り返ると、時代の変化の速さを思わずにいられない。
この後、ポケベル時代があり、携帯電話が普及するのは5年後くらいの90年代後半、携帯電話がケータイと表記されるようになり、2000年に入ると写メができるようになり、やがてガラケーからスマホへ、そして様々なアプリが使えるようになり、今はゲームから決済に至るまで、もはやパソコンを携帯している状態になっている。
ひょっとしたら、そのうちこれらの全ての機能がスマートウオッチのような腕時計型に小型化されていくかもしれない。
ひょっとしたら、その時計とどこぞのAIに繋がれて、あらゆる判断のデータを瞬時に提示してくれ、働かなくてもいい時代が来るかもしれない。
あるいはひょっとしたら、人間の脳にチップが埋め込まれ、何か呟いたり、ちょっと考えたりすれば、それだけで夢が実現されるようになるかもしれない。
あるいは人間の体自体が機械に改造されて、空を飛んだり、脳と繋がれた世界と交信している世界になっているかもしれない。
そんな近未来。
30年前に想像した電車の中の光景がお笑い種のように実現しているのであれば、30年後、そんな近未来像が当然の世の中になっていてもおかしくはない。
語呂がいいので雑な言い方をすると、その30年前の30年前弱の昭和60年代に「電話」が普及し始めた。
でも明治生まれの僕のオジイチャンはとうとう一度も電話に触れたことがなかった。オジイチャンに言わせれば正体不明の黒い棒から声が聞こえたり、それに向かって話をするなどということ自体が、既にとんでもない異常だったのかもしれない。
おじいちゃんがもし今の世に生き返ったとしたら、きっと腰を抜かすに違いない。
目覚ましい科学の進歩だ。
ただ言葉を弄するつもりはないが、「目覚ましい」は多分「目が覚めるほど」という語感。現代では「目が覚めるほど素晴らしい」というニュアンスで使われることがほとんどだが、古典の「めざまし」は「気に食わない・不愉快」などというマイナスのニュアンスを強く持っている。
例えば、源氏物語で帝の愛を一身に受けてしまった桐壷更衣は、帝の寵愛を狙う周りの女性たちから「めざましきもの」として貶め嫉まれるのである。
「目覚ましい」テクノロジーの進歩にも、そういう側面があるのではないかという疑念をいつも僕らは傍らに置いておく必要がある。
今、AIの進化がものすごい。
もうきっといろいろなケースで知らぬ間にAIのお世話になっているのだと思うが、30年前の30年前、オジイチャンにとって電話がブラックボックスだったのと同じように、その30年後の30年後の今、僕にとってAIは全くのブラックボックスでしかない。
例えばこれから30年後、世界はどう変わっているのだろう。
30年後っていうと、僕は93歳なんだなあと思ってみたりする。
もうこの世にはいなかろうと思うが、そう言えば、オジイチャンが亡くなったのは93歳だった。
偶然の一致にすぎないが、30年のサイクルで一世代が繰り返されているのだろうかと思ってみたりもし、その30年のサイクルの繰り返しの中で社会的な知恵や経験は「時代遅れ」となり、「いきもの」としても追いついていけない変化にさらされていると思ってみたりもした。
全くの蛇足だが、今日は授業で、中国古代の許由という隠者が帝堯から天下を譲ると言われ、耳が汚れたとして川で耳を洗ったという伝説の話をした。
「君たちは権力者から天下を譲ると言われたら天下をもらうか?」と聞こうとして総理大臣の名前を失念し「名前、何だっけ?」と生徒に聞いた。
ロッキード事件は大雑把に言えば50年前。科学の急激な進歩も怖いが、政治はいつまでで旧態依然であり続けるのかと考えると、それも怖い。この変化の時代の先を読めるのだろうかと思う。
ちなみに生徒たちは異口同音に「もらいたくない」と答えていた。若者がスマホに惹かれ、政治を見捨てている象徴的な答えのような気がした。
(土竜のひとりごと:第54話)
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