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第43話:自分という死角

愚話である。

学生時代、僕はテニスをしていたのだが、年に4回の合宿、遠征などを合わせるとそれなりの日々を、仲間と共同生活していたことになる。懐かしいテニス漬けの日々であり、同じ釜のメシを食った何にも替え難い友を得られたことに感謝したいと思っている。

しかし、共同生活とはまた普段には分からないそれぞれの人となりが露呈されるもので、彼らのそれも「一生の仲間」という高級な表現に甚だそぐわない、およそ人間的な側面であった。

例えばオナラをプープーと垂れ流しにし、メシをドンブリ5杯も食べて銭湯で貧血を起こす、消灯後部屋を抜け出して素振りをし、失敗して大きなコブを作って来る、打ち上げで飲むと道の真ん中でパンツを下ろしてしまう、そんな奴ら。
とても書ききれないが、思わず首を傾げたくなるような悪習・奇行に満ち溢れていた。

中でも彼らの夜は凄まじく、なかなか静寂に夜は更けてはくれなかった。
無論、合宿の消灯時刻は正確に守られ、それを乱す者もいなかったが、ただその言い方には「故意に」という副詞が冠せられる必要があり、疲れて熟睡したいと思う時には誰よりも先に自分を眠りに落としてしまわなければならなかった。

灯りが消されたと同時に誰かがイビキをかきはじめ、眠ったばかりなのにいきなり「おはよう、おはよう」と朝の挨拶をする奴。寝苦しそうにバタンバタンと何回も寝返りを打つ音。
イビキが止んで一瞬静寂が甦ったかと思うと、思わぬ奇行に眠りが妨げられたりもする。ある時は、寝ぼけて突然立ち上がり壁にガリガリと爪を立ててよじ登ろうとした奴がいたのであって、その音に起こされた一同、あっけに取られてその行為に見入ったこともあった。

特にリーグ戦前に組まれる一週間の合宿では、試合を意識してピリピリしているのか、コリコリ・ギコギコという歯ぎしり、ウーンという唸り声で静寂は賑わう。その日の練習でミスジャッジをケチョンケチョンに責められた奴が「4オール、ファイナルゲーム」などと夢の中で審判をしていたりもする。
かく言う僕もよく唸ったようで、ガースカとイビキをかいていた奴に「お前はうるさい」と文句を言われたりもした。自分でも眠りの浅い時には「今オレは唸っている」と自覚する時もあり、「こいつウルセー」などと罵声を浴びせている声が聞こえて来たりもした。「この野郎」とも思うが、それで起きる元気もない。試合の夢を見、負けてはならんと思いながら必死で戦っていたことになるのだろう。
懐かしくも切ない日々ではあった。

今は唸ることはないらしいがカミさんの話によると時に歯ぎしりをし、寝汗をかくようである。「またコリコリやってたから、さすってあげたらムニャムニャ言ってたわよ」とか「不思議よね。あんなに汗かいてるのにミノムシみたいにしっかり布団にくるまってるんだから」とか平気で言うのだが、それは僕の小さな胸が日々の疲れとストレスで張り裂けそうになっている証拠ではあるまいか。その点良く考えて、月の小遣いにも御配慮をお願いしたいところである。


当然であってまた不思議なことに、人間という奴は、自分が眠っている時の姿を自分で知ることが出来ない。
言わばそれは完全な盲点と言って良い。しかし、その無意識な盲点こそがその人の人間としての評価の要因となったりもする。指揮者は自分の後ろ姿を大切にすると言うが、無意識な自分は、他人に観察され、むしろ他人の方がよく知っているものである。

例えば僕は「そうだね」とか語尾に「ね」を付けたり、「えー」と前置きするのが癖らしく、不届きな生徒はその数を授業中に数え、授業が終わると「先生、今日は387回ね」などと報告に来たりもする。
そんなに多いかとも思ってみるが、コロナ休校の時、動画の講義を作って編集してみると、10秒に1回くらいの割合で言っていた。それは驚くべきことなのである。

自分には見えない自分がいることを僕らは認識ずる必要があるのだと思う。
人の家でトイレがその判断基準となるように、いかに美人であろうとも、どこぞでうっかり鼻クソをホジっている姿なぞ見掛けられてしまったら、これはもう古典で言うところの「すさまじ」以外の何ものでもない。


数年前、地区の組長という役をおおせつかり、月1回の組長会に列席していた。
ある時、80歳くらいのジイサンの補聴器がピーッと鳴り始めた。何かの拍子にボリュームのツマミが最大になってしまったらしい。
一瞬「何だろう」と皆静まったのだが、それと分かって、別の70歳程のジイサンが
「ジイサン、あんたのそれだよ」と注意することになる。
しかし、オジイサンは耳が悪いから補聴器をしているのであって、その補聴器が発している異常な音が聞こえない。「あんたのそれだよ」という注意にも無関心である。
そこで同じジイサンがもう一度ジイサンの耳元で声を高めて同じ注意すると、今度は
「オレじゃねえ」
と、実は自分のせいなのに、やけに自信たっぷりに否定したりもする。何が「オレじゃねえ」のかジイサンには分かっているのだろうかという疑問さえ頭に浮かんで来る。
いかにも田舎の寄り合いらしくほのぼのとしていて結構かと思うが、とりあえず自分について正しき認識を持つことは、かくも難しいことなのである。

結婚してから寝言でうっかり妻以外の女性や、夫以外の男性の名など口走らないよう、僕らは「見えない、知らない自分」について「嗜む」習練を積まなくてはならないのだと思う次第である。

(土竜のひとりごと:第43話)


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