第95話:裸足
まったくの愚話と思って読んでいただきたい。
若い頃、と言っても40歳くらいまで僕は素足でいた。素足と書くと何か恰好良いが、要するにハダシである。無論、ハダシでペタペタ歩いているわけではない。ちゃんとサンダルは履いている。
僕は別に何とも感じないのだが、真冬でもハダシにサンダルなので、周囲の人から「あんたを見てると寒くなる」と疎外された。「よく平気ね」と変人扱いも受けるが、別段気にもしなかった。
ヒートテックとレッグウォーマーと湯たんぽがなければ生きていけない今の僕にとって信じられない過去ではある。
夏も無論ハダシなのだが、困ったことが起こる。
生徒も暑いのでハダシになってしまうのだが、それがだらしないということで、みんなで注意しようと教員間の打ち合わせで話がまとまる。
「だらしない」ところの僕は小さくなってその場を切り抜けるのだが、決まった以上、生徒には言わざるを得ない。「ハダシはイカン」と。
しかし自分がハダシなので説得力に欠ける。「ハダシはイカンそうだ」などという無責任な注意の仕方になる。生徒も「先生だけには言われたくない」と言う。その権利はないと。そのとおりである。
いつごろからハダシでいたのか記憶の糸をたぐってみると、小学校のころ、運動をするのにハダシになるのが好きだった。リレーでも走り幅跳びでも、ハダシだった。
学生時代、大学にもやはりサンダルにハダシで通っていた。
就職しても、幸か不孝か、最初に勤めた学校は住んでいた職員住宅から歩いて3分の距離にあり、これは冬でも頑張れる距離であった。
かといって別にハダシで頑張ろうとかハダシを貫こうとか、そういうポリシーがあるわけでもなかった。
翌日の授業準備で毎日3時ころまで起きていて、それでよく遅刻をした。朝の打ち合わせの時僕がいないと、女性の先輩が「土屋さーん。あ・さ・よ~ん」と電話をくれたので、それに起こされて「しまった。またやった」と家を飛び出していたのである。
なまじ学校まで近いので頑張ればSHRに間に合ってしまう。生徒に遅刻するなというためには自分が遅刻していてはいけない。それで、大急ぎでズボンをはきかえ、すっ飛んでいくことになる。靴下なんぞ悠長にはいている暇がなかった。
以来、その習慣がすっかり身について、結婚して遅刻の心配がなくなってからもハダシでいることになった。僕の名前を知らないでも、「ハダシの人」と言ってもらえれば、僕に行き着くことができた。
ハダシでいて何か良いことがあるのかと聞かれても、別に良いことは浮かばない。ただ、僕のハダシを非難する人には、靴下をはいていて何か良いことがあるのかと反論してみたくはなった。
たまに靴下をはいていると奇異の目で見られ、「あー!今日は履いてる!」などと叫ばれるので、「なら、履かない!」と意地になる。
そう、ハダシは単なる意地として、変更し難いものとして固定されていく。そして、それを裏付ける論理が作られる。
老子の「無用を以て用と為す」を借りて「人生において無意味が大きな意味を持つことがあるという逆説が成り立つ」とか。
「裸の王様」を持ち出して「実は僕は靴下を履いていないのではなく心のきれいな人にしか見えない靴下なのである」とか。
世の中に存在する固定化したものは、案外そんな「こじつけ」の論理の上に成り立っていないか、一度疑ってみてもいいかもしれない。
そんな僕がハダシをやめたのは、定時制高校に勤務した時、当時30歳を過ぎていた元暴走族の生徒で、その頃は会社に勤務し係長を務めていた生徒に
「先生よ、俺ら、仕事はハダシでやらねーぜ」
と言われたからであった。
粉砕されたと言っていい。
■土竜のひとりごと:第95話
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