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第101話:叱ると怒る

親が教師であるという状況は子供にとって微妙なものなのかもしれない。子供にとって息苦しいらしい。
1年間で300人くらいの生徒を直接相手にするわけで、3年サイクルで担当するとしても10年もやっていれば単純計算で1000人位の生徒を見ることになるわけだから、変に目が肥えてしまう。
この生徒のここがいいとか、ここはまずいとか、そういうものも頭に記憶されていくし、下手をすると将来と現在の結びつきまでが見えてしまったりして、そういう生きた生のサンプルが頭の中に否応なく蓄積されていくのである。
そういう目で子供を見る・・。それがプラスなはずはない。

僕ごときはいい加減な教員で、できるだけ子供のことはカミさんにまかせ、時々子供の尻を撫でまわして「セクハラオヤジ」と言われ、休日はわざとグデグデ過ごして邪魔にされているのだが、そんな僕でも、やはりひょっこりと忌避すべき教師根性が顔を出すときがある。

いつだったか小学生の息子がちょっとした悪さをしたので叱ったのだが、何故、どういう点で悪いのかということから始まって、「悪い」とはどういうことなのかを説明し、それをしてしまう原因を指摘し、果ては将来的な心配にまで言及、そして、だからどうあればよいのかまで、誘導尋問を交えながら理路整然と話をした。

これが教員的な叱り方、「説諭」というやつなのだろう。自分ではそんなに長く話をしたつもりもなかったが、カミさんは「2時間話してたわよ」というわけで、すっかりしょげて早々に寝てしまった子供の寝顔を見ながら、自己満足に浸ってコンコンとしゃべっていた自分を反省してみたりしたのである。

教員は「怒る」のではなく「叱る」のだとよく言われるが、それはそうであって、でもそうでもない。

それで僕はある先輩の教員が話していたことを思い出したのだが、その人がやはり高校生の息子さんを叱っていたら、突然その子が泣き出したのだそうである。
何故突然泣き出したのか怪訝に思って聞いてみると、それは反省して泣いたのでもなく、叱られたことに悔しくて泣いたのでもなかった。

その子は次のように言ったそうだ。

お父さんの言うことはもっともで、確かにそうなのであって、正しすぎて僕には一切反論できる余地はない。
ただ自分はどんどん追い詰められて、自分が本当に悪い人間に思えてくる

「俺はそのとき反省したよ」
と、その先輩は言い、言葉を継いで
「オヤジというやつはもっとムチャクチャでなけりゃいかん」
と、しみじみ語ってくれた。
「ばかやろう」と怒鳴って、ガツンと頭に一発食らわせて終わる。それはある意味極めて感情的で昨今の風潮とは相容れないものかもしれないが、その方がさっぱりしていて、かえって伝わるものがあるということなのだろう。
本人も悪いことをしていることは知っているのだから、それ以上言っても逆効果になる時も多い。

また、普段飲んだくれて、ろくでもないオヤジにムチャクチャな怒り方をされれば腹が立つわけで、怒られて自分が悪いことは承知しながら、そこに

「なに言ってんだ、このくそオヤジ」

という批判の余地がある。簡単に言えば子供の逃げ道があるわけで、それが大切だということになろうと思う。
どんな場合でも逃げ道を完全にふさいでしまったら子供の心の行き場がない。
人間はナマモノだからナマモノ同士、整然とした道徳や理論では統べ得ないものがある。


不完全であることが大事なのだ。


■土竜のひとりごと:第101話

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