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パチンコと光源氏と見果てぬ夢 

今ではほとんどパチンコ屋に足を運ぶことはないのだが、ついこの間、何だかふとそんな気になってフラッと立ち寄ってみた。

人気の台はすごい人で入り込むスペースがなかったので、どうせ暇つぶしだと思い閑散とした列の台に座って打ち始めた。初めての台でどこにどう打てばいいかもわからないまま打っていると、5分くらいで当たりが来て、そこから1時間くらい、壊れた?と思うくらいずっと出っ放し状態。一瞬で11箱が積み上がり10万円強をわけなく手に入れた。

金のない僕には全くラッキーなことだったが、同時に、こんなに簡単に金が手に入ることが、金のない生活の中で馴染まない仕事に薄給を得ている僕には「お金とは何?」みたいな何だか妙な違和感も起こさせた。
と言っても別にそれが虚しいことだと気取るわけでもなく、勿論、カミさんに内緒で自分のへそくりにしたのであって、僕とは煩悩の「ちっちゃい」塊でしかない。


30代の一時期、パチンコにハマったことがあった。「パチンコは悪い人のすること」みたいに今の真面目な生徒は言うが、そうでもないだろう。でも、確かに人間の「ちっちゃさ」を巧妙に弄ぶ遊びではあって、勝っている時には平常心を保つ理性が働くのに、負ければ負けるほど熱くなり徐々にそれが奪われていく。

例えば、これはと思う台に座りしばらく打ち込む。小一時間打つが、出ない。やめようと思う一方で「せめて1回当てたい」という意識が動く。が、しばらく打っても当たりは来ない。が、「5連チャンすれば元は取れる」などという甘い夢想が暴走していく。

さらに打ち続けると、今まで回っていた台がピタッと回らなくなり、リーチも来なくなる。と、次第に自分が崩れていく。「こういう台は出ない。やめるべきだ」と思うが、分かっていながら「これだけ打ち込んだんだから」という未練と淡い期待が災いしてやめられない。

そんな時に隣の台に人が座り、いきなり当たりを出したりすれば自失状態に陥ってしまう。「オレはこんなに打ち込んだのに、何?」と怒りが込み上げ、「オレだって」という気持ちと「負けを取り返さねば」という意識がムラムラと頭を持ち上げ、更に打ち、そして更に金を使い、最後に惨めなオケラになって、虚しくパチンコ屋を後にするのである。

なまじ出た時もまた難しい。例えば、早々に当たりを引いて3箱出る。やめれば確実に勝ちなのだが人間とはさもしいものである。「これを足がかりにもうひと勝負」と思ってしまう。10箱、15箱積んだかつての経験が脳裡にちらついて誘惑する。「とりあえず一箱」が、つい2箱目に手が伸びる。よせばいいのに、結局またずるずると打ち込んで最後の一箱になってしまう。

しまいに「えーい、打っちまえ。この台と心中だ」と、既に何時間も打ってストレスを溜め思考能力の低下した脳が叫ぶ。その叫びに従って打っていると、案の定その一箱もわけなく飲み込まれ、「やめればよかった」という深い後悔を胸に惨めなオケラになって虚しく店を後にするのである。

いつかもそんなふうに台にしがみついて打っていると、かつての教え子と遭遇した。曰く「先生、むきになっちゃダメ。店が出す気ないんだから頑張ったって出るわけない。小さく勝って小さく負ける。勝負の鉄則だよ」と諭してくれる。

そのとおりだと僕の理性も知っている。大きく勝った経験が勝負を大きくさせ大きな負けを作る。38連チャンした人がその翌日20万円負けたという話も聞く。
「ここまでだよ」と神様が教えてくれれば、こんな罠に翻弄されることもないのだが人間は得てしてそれができない。

それは、既にお分かりのことと思うが、パチンコに限った話ではない。


古典に「見果つ」という動詞がある。
と、パチンコを打ちながらも一応国語の教員である僕は思ってみる。耳慣れないかもしれないが「見果てぬ夢」と言えば、「ああ」と思っていただけるかもしれない。「見果つ」は「すべて見終える」という意味だが、この言葉は平安貴族が出家を決意する際によく登場し、出家にはこの世の全てを「見果つ」ことがその条件として語られる。現世に未練があっては極楽往生は叶わない。

貴族は多く在俗のまま後世を祈るのであり、出家はむしろ人生の最後における貴族の「習慣」と言えるものであったかもしれない。華やかな生活との訣別にどれ程の覚悟を必要としたか僕は知らないが、それでも公から退き、自由を制約され、世を捨てるのだから、相当な決意は必要だったと推測できる。

源氏物語で光源氏は幾度も人生に見切りをつけたくなるような失意や不如意に出会い、そのたびに出家を思うが、なかなか踏み切ることができない。愛妻、紫の上をはじめ、現世への思いが断ち切れないためである。


未練を断ち切ることは難しい。人生もパチンコも同義である。ただ、光源氏の捨て切れないものを持つゆえに迷う姿は、むしろ人間らしいと見えたりもする。欲に駆られてパチンコ台にしがみついている僕もそういう意味では「美しい」かもしれない。全てが見えてしまったら、それはそれでおもしろくはないに違いないと言ったら、それは凡人の言い訳であろうか。

僕も還暦を過ぎ、人生の見える位置にひょっとしたら立っているのかもしれない。でも人生など見えるどころではない。むしろ混迷を深めている。
バイクを買い戻して日本一周したい、山を買って小屋を建ててひっそり暮らしたい、10万円のへそくりがばれないようにしたい、・・僕は、どうしたって、いつまで経っても、ちっちゃい、ちっちゃい煩悩のかたまりでしかない。

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