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笑いについて

高3の担任だった先生は熊本の人だったが、大学受験で東京に行く時に電車から富士山を見ると受験に落ちるというジンクスがあったので必死で見ないようにしたという話をしてくれた。
今ではそんなジンクスも生きてはいなかろうが、もうかれこれ40年以上前に聞いた話だし、その先生が高校生だった時のことだと考えると、さらに40年を加えるくらい前のことになり、当然新幹線などなかったわけだから、九州の人にとって富士山は遠い遠い存在であり、それゆえに神秘的な存在であったことが、そうしたジンクスを生む背景にはあったのだろう。

他郷の人によく、富士山が近くにあっていいねと言われるが、確かに、見る場所、見る時によって様々な姿を見せるので、その時々に魅力を感じることはあるにはあるが、それでも家の窓を開ければ富士山があるという環境にあっては、富士山はすっかり日常化してしまって、人が羨ましがるほどの魅力や神秘を感じる対象ではない。

近くにいるとその魅力は分からない。例えばそれは、カミさんがもはや魅力や神秘でないのと同じである。

くだらぬ話だが、友人に「お前は女子高生と一緒にいられていいなあ」と言われることがあるが、これも全く同じ意味で、彼女らの存在は魅力でも神秘でもあり得ない。JKというブランドが世間の人にどれだけの意味を持って認知されているか知らないが、学校の中には常に400人くらいがごちゃごちゃいるわけだし、年齢差から言えば孫であってもおかしくない存在で、互いにもはや「圏外」であることが共有されているから、何の波風も起こらない。
戯れに「俺と結婚しよう」と暴言を吐いたとしても、このクソジジイが何を言うかと不愉快な顔でもするならまだしも、「OKで~すよ」と軽く乗ってこられるとかえって「圏外」であることが寂しく意識される。セクハラにもならない。

最近、ハラスメントばやりで、セクハラ、パワハラ、モラハラとか50種類以上あるらしく、常にこれに該当しないようにハラハラしていなければならなくなった。
部活の女子生徒に「お前たちはバカだねえ」と言うと、「今のパワハラだよね」とお互い顔を見合わせ、テニスボールをぶつけると「あっ、体罰だ。次のアンケートに書いちゃお」と言われる。むろん彼女らは「圏外」でしかないジジイをからかって遊んでいるにすぎない。そういう意味では「圏外」というのは、彼女らにとって僕が「圏内」であることによって成立していることになる。

これが「圏内」でない場合には通じない。例えば「圏内」にいない女子高生に「結婚しよう」と言ったら、まず間違いなく首になるだろう。ジジイの不審者である。
ある時、部活の女子生徒が廊下を歩いていたので、ふざけてボンと肩でタックルを食らわせたら、「何、この人」みたいな茫然とした顔をされたのだが、どうしたことかとよく見ると、似てはいたがその生徒ではなかった。慌てて人違いであった事情を話し平謝りに誤って許してもらえたが、突然、知らないジジイがタックルを仕掛けてきたら、それは相手にとってセクハラを通り越した犯罪であろう。

話は変わるが、少し前にテレビで綾小路きみまろが自らの苦境を語っているのを聞いた。コロナで公演数が激減したのもそうだが、それよりも中高年をいじり倒して笑いを取る、その芸風が容姿容貌をネタにして傷つけるものだという批判を多く浴びるようになり、その芸風を続けていいものかどうかを悩んでいるという話だった。
そうなんだ、そんなところまでハラスメントヒステリーが進行しているんだと思ったのだが、皆さんはどう思われるだろう。

入試評論を読んでいたら、木村覚の『笑いの哲学』が採られていてそんな話題が書かれていた。英哲学者ホップスは「他人の欠陥を笑うのは愚であり、小心者の証」とした。その考え方は当然、差別や偏見を正す公正さの重視の発想(ポリティカル・コレクトネス)につながり、それが芸人の笑いの否定も導くのだが、筆者は仏哲学者ベルクソンの考え方を引用しながら「個人を直接笑うのではなく、また優でも劣でも無縁に社会において「ぎこちない」と感じられるものをタイプとして笑うものだ」とし、その笑いを擁護していた。

なるほどそうだろうと思う。世の男たちがカミさんの愚痴をネタに盛り上がるのもそういう「型」の在り方を共有しているところに成り立っている笑いに違いない。綾小路きみまろの笑いも特定の個人への批判ではなく、中高年のブヨブヨや無節操という「型」を笑いにしていると考えられる。他の芸人も作り上げた自分の「キャラ」を笑いにしているのだろう。

そういう笑いへの批判は、逆に一律な価値観に従って笑いを膠着させる柔軟さを欠いた「ぎこちない」振る舞いに相当すると言えるかもしれない。あるいは彼の笑いの「圏外」にいるために、そのネタを自分の「圏外」に置くことができないのだと言い換えられるかもしれない。笑いは、その人の「圏内」にいなければ成り立たない。
悪質、低俗な笑いは論外だが、すべてを組織のシステムの枠に入れてヒステリックに否定する人は、笑いに否定された人だと言わなければならない。

「圏内」であることと「圏外」であることの微妙な往来、バランス感覚が持てないことが、むしろ現代の問題点なのだろう。

例えば、マラソン大会の練習をしていた女子生徒が
「先生も走れば」と言うので、
「走ったら死んじゃう」と言うと、
「タバコやめれば」と言う。
「タバコをやめたら今日を生きられない」と言うと
「死んじゃうよ」と言うので
「死んだらお線香でもあげにきて」と言うと、
「じゃあ、お線香の代わりに煙草に火をつけて供えてあげますよ」と言う。
内容的には甚だ危険な話だが、このやり取りは決してブラックではない。

言葉は関係性の上にあって初めて理解される。それが「圏内」にあるということである。相手が傷つかない笑いは柔軟な営みであると言える。

そのバランス感覚を教えるのが僕らの役割かも知れないと最近思う。
ある時、入部してまだ日が浅い1年生が練習途中に早退したいと言ってきたので、
「なんだ、彼氏とデートか?」と言ったら、
隣にいた先輩の部員が
「先生、ちょーっと、まだ早い。まだ、気をつけないと訴えられちゃう」
と忠告してくれた。
そういう忠告ができるのは、日ごろの僕の崇高な指導の賜物であろう。

強引にJKに話を戻すと、3月、卒業したての女子生徒が三人で学校に遊びに来たので、
「いよいよ卒業だね。JKブランドを捨てるのは惜しい?」と聞いてみた。
「う~ん、そんな気もしないでもないです」と言い、
「でもこれからはJDで頑張りまーす」と言った。
でも、三人のうち一人は
「私は浪人だから、JDにはなれないんです」と言いながら、
「でも浪人だから、JRで頑張りまーす」と言っていた。
埒もない。JR=女子浪人というブランドが立ち上がるのかどうかわからなが、少なくとも、そういう受け答えは「圏内」と「圏外」ということをちゃんと弁えた成長した姿だと思った。
これも僕の素晴らしい指導の賜物であるにちがいない。

※くだらぬ話でした。ユーモアと思ってお許しください。

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