見出し画像

ウルトラマンとソープ通いのおじいさん


3分間という時間は短いようで長く、また長いようでいて短い。

真剣になればかなりのことが出来そうな気もするが、改めて何かしようとするのにはまた、あまりに短い中途半端な時間でしかない。
「地球が滅亡するまであと3分だとしたらあなたは何をして過ごすか」・・小学校の卒業文集なんかにはよくそんな問が全員の答とともに載せられたりしているが、あなたならどうするだろうか。ちなみにカミさんに聞いてみたところ、彼女は「紅茶でも飲むかしら」と呑気なことを言っていた。きっとお湯を沸かして紅茶を入れた頃には3分が経過し、彼女は紅茶を飲めずに終わるに違いない。

そう言えばちょっと前に同じような設定のCMがあった。

ウルトラマンがカップラーメンを食べようとお湯を入れるが、できあがったときには彼はもはや地上にはいられず、それを食べることが出来ないのである。ウルトラマンが何故地球上に3分しかいられないのか僕は知らないが、この3分間という微妙な時間設定を考えついた人は、恐らく滅茶に頭の良い人だったに違いない。カラータイマーが鳴りだしそれが段々速くなっていくと、純朴な少年だった僕の心臓はそれに呼応するように高鳴った。
実写のああいう形とか、特撮とか、人間が変身するとか、当時としてはいろいろ革命的に新しかったに違いないが、ウルトラマンの闘いにあれだけハラハラできたのは、この3分間という時間の制約のおかげではなかったかと最近思う。恐るべき3分間である。
もし、ウルトラマンが何の制約もなく無限の強さを誇ってしまっていたら、それはそれでカッコ良かったのかもしれないが、それ以上の何ものでもなかったに違いない。彼は時間の制約を与えられたことで、時代のヒーローになり得たのである。
無限の可能性や開放的で輝くような自由ばかりが謳歌されがちだし、それも確かに素晴らしいことだが、本当のドラマや感動はそれらが制限されたところに生まれる。

「制約がひとつの美を創造する」

こんなふうに言うと、ちょっと気障っぽかったりもするが、確かにそういうことがあるのだと思う。人であれ物であれ、制約のギリギリを必死で輝こうとすることが人を引きつけるからなのかもしれない。不完全な微妙なアンバランスの造形や、限られた命のドラマが時に僕らを魅了するように、制約された抑制の利いた美しさは、いつまでも僕らの好奇心を駆り立てて魅力を失わない。

女性の美しさにもそういうところがある。

多分顰蹙を買うに違いないが、例えば、OLの制服姿が美しく見えたり、喪服姿の女性が色っぽいなどと言われたりするのはそんな例の典型かもしれない。制服や喪服自体が持つ制約が美しさを作り出す。
女子高生は授業中に椅子の上でアグラをかいてみたりするが、制服を着ていながら、それは今の例の対極にある。寒くなるとスカートの下に長ズボンのジャージをはいたりするわけで、それは姿が似ているので「埴輪」と言うらしいが、およそ美的ではない。
スカートを超ミニにしているのに、その下にハーフパンツをはいていたりするのは、オジサン的には幻滅に等しい。「まあ、いやらしい」と思われるかもしれないが、それは決して助平根性なのではなく、異性として女性に望む「奥行き」の問題としてそうなのである。
きちっと膝をつけてそろえられた脚は美しい。それは多分、羞恥というフォームを自らに課した内面の美しさであろうと思う。その制約による奥行きが僕らに未知の魅惑的なものとして女性を意識させるのである。無論、勝手な男の妄想に過ぎない。これ以上書くとカミさんが眉間にシワを寄せそうなので話を移そう。

短歌や俳句もそうかもしれない。

わずか31文字、17文字の短詩形が詩として成立していることも、同じであろう。短い上に575(77)という形式まで背負っている。それでいて僕らを引きつけてやまない魅力がある。それは枠の制約を受けてことばを選び抜き、削ぎ落とす徹底した作業の結果として生み出される無限の抒情だと言っていい。
また例えば、「茶道」や「禅」なども制約されたフォームそのものである。人間の自然に枠を課し、ひとつひとつの動きにまで制約を与える。しかしその所作は洗練された美しさに高められ、張りつめた静謐な空気を作り出す。

                 ○

人間の命もまた、永遠ではない。

僕らが輝こうとするのは、あるいは僕らに死という避けられない制約があるからなのかもしれない。人間の存在自体が限定されたものなのである。

昨今、平均寿命は急激に伸び、人生は80年と言われるようになってきた。人生50年と言われていた時代もそんなに昔のことではない。それはいいことに違いない。しかし、一方で「間延び」も避けられない。
「青少年幼児化」が問題になっているが、それはそういう点から考えると、ある意味では当然の現象なのだと思う。現代は精神年齢を10歳割り引かなければいけないと言う人がいるが、「荒れる成人式」などを見ていると、確かにそうかもしれないと思ってしまう。「30歳までは好きなことをする」、それが今の常識になりつつある。いつまでも「自立できない大人」とか、あるいは「ニート」の問題も、一因としては、死という枠の緩みということが考えられていい。

死が差し迫った問題として意識されなくなったのであり、生き急ぐ必要もなくなったと言えようか。ゆったり生きられることはいいことだが、「死に向かって自分の生を律する気迫」が薄らいでしまうことは、社会的には決していい結果をもたらさない。「高さ」「美しさ」はそういう気迫によってもたらされるからである。
「小人閑居して不善を為す」と孔子は言った。時間がたくさんあれば、つい間延びして、パチンコへでも行きたくなってしまうのが人間というものである。限られた状況が僕らに自らを律する心を与える。ある意味で僕らは身を削ることで美しさに近づくのかもしれない

ちなみに早世した作家の享年を挙げてみたい。

中島敦33歳、太宰治39歳、樋口一葉24歳、小林多喜二30歳、梶井基次郎31歳、宮沢賢治37歳、中原中也30歳、石川啄木36歳、正岡子規35歳・・
僕は既に彼らより長くこの世に生きていて、しかも僕は何もなしえていない。こんな偉人を比較の対象にすること自体が間違っているわけだが、短い生の中で、なぜあれほどの偉業を為しえたのか不思議に思う時がある。同じように、僕があと30年生きたとして、その意味は何だろうかと、はたと思うときがある。

例えば、僕の親友は27歳で、結核で死んだ。僕が結婚した5ヶ月後である。その2年後僕らには子供が生まれた。僕は彼より既に30余年を余計に生きており、それは僕の家庭の年月と重なる。彼にはそういう生活がなかったと思うと同時に、僕が彼より余分に生きて何をなしたか、あるいは僕がこれから何を「高さ」として求めていこうとしているのか、僕にはいまだに分からない。
のらりくらりと生きている自分をのらりくらりと生きているなあとただ思うだけである。「死に向かって自分の生を律する気迫」とさっき書いたが、それは単に社会に対する批判ではなく、この親友の死を思うとき、僕は自分の問題としてそれを考えてみたりするわけである。

                 ○

このあいだ、のんのんと生きている僕にも、血尿が出るというちょっとした事件があった。教員の仕事は、一般にはそう思われないかもしれないが、激務であり、思い頭と体を引きずりながら、限界を超えているぞと思うことが何度もあり、いつか体に来るに違いないと思いながら、休む間もない毎日を続けていた。
だから真っ赤な尿が出たとき、「ああとうとう来たな」と思ったのである。過労で血の小便が出るとは他人事としては聞いたことがあったが、自分がそうなるとは思いもしなかった。しかし、病院に行ってみると、医者はそうとばかりは言えないと言葉を濁した。「痛みがなくこれだけの血尿が出る場合、まずはガンであることを覚悟しておいたほうがいい」と言われた。そう言われても、あまりに唐突だったせいか、また年度末の仕事にも追われて、僕にはさしたる実感がなかった。
しかしカミさんに話をすると、「そう」とその場はさりげなくしていたのだが、あとで洗い物をしている様子が変なのでのぞいてみると、泣いていた。僕のために涙を流してくれる人がいるんだと一瞬いとおしくなってみたりしたのであるが、わが家が死に近づいた瞬間だったのかもしれない。

幸い検査の結果、ガンではないことが分かり、過労とストレスによる本態性腎出血という病名をもらったが、いつか、入院、手術、死という道筋を、こうして自分がたどることになるかもしれない、それは他人事でなく、しかも不意にある日突然やってくる。そういうことを実感として思った。

些細な出来事ではあるが自分の身に起こって初めて分かることである。生徒の中には2年前から血尿が出続けている人もいる。原因が分からず、やがて透析が必要になるかもしれず、何年生きられるか保証はできないと医者から言われていると教えてくれた。そういう状況を生きている気持ちはどんなものだろう。僕には測り知れない。
C型肝炎で、肝硬変から肝臓癌になるのを必死で抑制している生徒もいる。病で数年後の失明を待つだけしかできない生徒もいる。同じ3月に婚約者を交通事故で失った生徒、生まれた子供が障害を背負っていた卒業生。骨肉腫になって死を前に最後の挨拶に訪ねて来た生徒もいた。何をどう言ってやればいいのか、僕にはまったく分からなかった。しかし、みんな投げ出さず、自分を必死で生きている。僕など疲れなどみみっちいことに違いない。

死ぬまでをどう生きるか

だから、死ぬまでをどう生きるかが僕らが生きるために与えられた宿題なのかもしれない。人間に命の制約がある以上、無限の自由や永遠の未来などあり得ない。しかし、だからこそ僕らの人生がひとつのドラマであり得るように、恐らく生きることは、自分に「ある制約を課す」ことである。より輝き、より良く生きるためのそれはひとつの正しい方法論ではないかと思ってみる。自分を削ぎ落とすところに、僕らが目指す本当の「高さ」とか「美しさ」があり、そこに至る「気迫」のために僕らはあえて自分を律する必要があるのである。

                 ○

ソープに通うおじいさん

ずいぶん堅い話になってしまったが、こんなことを書こうと思ったきっかけはラジオで偶然聞いた次のような話だった。心臓の病で酸素マスクをはずすと40分で死んでしまうおじいさんがいる。しかし、このおじいさんはソープが好きで、ソープ通いがやめられない。そこで酸素マスクをはずし40分以内で事を済ませて出てくるのだと言う。
臨終の時にも誰か呼んで欲しいかと聞かれ、ソープ嬢の○○チャンと答えたそうだ。全く見事というほかはない。考えてみればヨダレでもたらしていそうな、エロジジイの醜態でしかない話であるはずなのだが、そんな話が何だかとても美しい話のように聞こえてしまうのは、40分という制約を生きる彼の「気迫」が、僕らを引きつけてしまうからであろう。
死を前にギリギリまで自分の生をかける、恐るべき「気迫」と言わなければならない。

■長い話にお付き合いいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?