第51話:顔
愚話である。
当然の話だが、人間の顔というのは年を取るに連れて次第に変化して行く。大概の場合、両者は一致して進んで行くものだが、中にはこの一致が微妙にズレて行く人がいて、顔が年齢の速度以上に老けて行く人、あるいは逆に、いわゆる童顔で顔が年齢について行かない人もいる。
大概の人は若く見られた方がいいと考えるだろう。
例えば、日本には吉永小百合という永遠なる美女がいて、いつまでも若々しい。涼しい目もと、整った顔立ち、豊かな髪、透き通った瞳。見ていると思わず時を忘れ、うっとりしてしまう美貌である。淡い青磁のような気品の中に温かそうなあどけなさが宿っている。優しい微笑みと凛として人を寄せ付けようとしない硬質感の微妙なバランス。失われかけている何かがそこにあるような、それは不思議な魅惑に満ちた美しさであり「この人だったら、ちょっと付き合ってあげてもいいかな」と僕は思ったりする。
この人がトイレにいくのだろうかという美人が確かに昔はいたもので、吉永小百合はそういう範疇に属する美人であろうと僕は考える。最近の高校生は吉永小百合を知らないので困ってしまう。
ただ逆に、世の中には年齢不相応に自分が若く見られることを悩みとする人も割に多く、学生時代、ある友人がパチンコをしていたところ警察官に補導されて「高校生と間違われた」といたく憤慨していたなんてこともあった。
ウチのカミさんも今でこそそれなりの歳に見えるが、若い頃はそうした例の典型であって、自分が年齢相応に見られないことを日ごと僕に訴えた。当時カミさんは既に30歳を超えていたが、カミさんの話によるとその不一致は尋常なものではないらしく、中学生くらいに見られるらしかった。
結婚していると言ったら、「まあ随分お若い奥さん」と驚かれたとか、服を買いに行ったら「その色はちょっと大人向きだから」と店員に言われたとか、公園で「車をそこに止めていいですか」とオジサンに聞いたら「車に乗って来たの?」と怪訝な顔をされたとか、そんな訴えが尽きなかった。
しかし、カミさんも次第にこれに慣れて来て、「今日はセールスマンが来たのだけれど短パンにTシャツで出て行ったら、たぶん、中学生と間違えたのかな。お母さんいる?って言われちゃった。でも説明するの面倒臭いから、母は今いませんって言ってやったわ。嘘じゃないものね」などと言ってのけるようにもなった。
三十路を迎えて中学生と間違われるのも妙な話だが、カミさんの開き直りもなかなかに妙な具合ではある。まさに“母は強し”と言ったところだろうか。
僕も自慢ではないが若く見られる。
最近、テニスの試合の引率で一緒になった別の学校の先生に「僕はもう定年退職したから」と言ったら、驚いた顔で「先生はそんなお歳なんですか?」と言うので、「40代後半に見えるでしょう」と言うと、「本当にそのくらいだと思っていました」と言った。
・・ということを生徒に自慢げに話したら、生徒は「先生、そういうのをお世辞って言うんだよ」と教えてくれた。
この間も、出版社の教材の営業で、まだうら若い女性がやって来て、話をしながら「僕はもう定年退職したから」と言ったら、驚いた顔で「先生はそんなお歳なんですか?もっとずっとお若いと思っていました」と言うので、「40代後半に見えるでしょう」と言うと、「本当にそのくらいだと思っていました」と言った。
・・ということを生徒に自慢げに話をすると、生徒は「先生ねぇ、そういうのをセールストークって言うんだよ」と教えてくれた。
悔しまぎれに「僕は20代くらいのとき一緒にいた昔の知り合いに会うと、全然変わってないって言われるんだ」と言うと、生徒に「20代からそんなに老けていたんだね」と同情された。
開き直って強く生きるしかない・・。
顔は親にもらったものでどうにもならないと言えばそうも言えるが、リンカーンは「男は40歳になったら自分の顔に責任を持て」と言ったそうであり、またアメリカのある女史は「30歳までは神様の授けてくれた顔。30歳を過ぎたら自分で稼いだ顔」と言ったそうである。
顔はその人の人生の年輪がそこに刻まれるものだというわけだ。
「いい顔」を創って行きたいものである。
(土竜のひとりごと:第51話)
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