見出し画像

あがる

人間は誰しも「あがる」ものである。今では結婚式も少なくなったがスピーチであがり、「おめでとう」と挨拶をしたはいいが二の句が継げなくなって冷や汗をかいている場面など、昔はよく目にしたものだ。
片思いの異性を前にしどろもどろになった経験のある方もおありだろう。

そういう状況に陥るとにっちもさっちも行かなくなり、なんとかせねばと思うのだが、そう思えば思うほどかえってそれが仇となり、ますます泥沼にはまって行ってしまったりもする。

かく言う僕も大の「あがり症」で、高校時代、指名されて英文を読ませれたりすると必ず声がうわずっていたし、こうして人前で喋ることを商売にするようになっても、結婚式でスピーチなど頼まれたりすると、一週間程前から明けても暮れてもそのことばかり考えるようになり、当日は自分の順番が来るまでは御馳走もろくろく喉を通らない始末。
一度、講演会なるものの講師を頼まれて話をしたことがあったが、そのときも3カ月前から緊張し続けていたのであって、つくづくとおのれの小心さを呪ったりしてみる次第なのである。
以後そういう依頼もないので、余程ひどい講演だったのだろうと思い出すたびに赤面する思いでいる。


話は変わるが、かなり以前のこと、夏の高校野球の地方大会で自分の学校の応援に行ったのだが、前の試合がまだ終わっていなくて、スタンドに腰を掛けてなんとなくその試合を見ていたことがあった。

9回の表だったと思う。1点差で勝っていた先攻チームが2アウトでちょっとしたチャンスを迎えた。だめ押しの追加点が欲しかったのだろう。キャッチャーの打順で監督はピンチヒッターを送った。
結局それは凡打に終わり点は入らなかったのだが、次の9回裏、守備についたそのチームのキャッチャーは当然選手交替となり新しい選手が出て来た。

控えの選手で試合経験が少なかったのか、あがってしまったらしい。普通では考えられないことだが、とにかくピッチャーの投げる球がミットの中に収まらない。前に横に、ポロポロとこぼしている。

ヒットがあったのかフォアボールがあったのかランナーが出、いいように盗塁され、いつしか同点となり、そして最後もサヨナラのランナーを3塁に置いてパスボール。逆点され、あっけなく試合は終了となった。
とうとうそのキャッチャーは、その回、一球もピッチャーの球を捕球できず、恐らく勝っていたはずの試合を自分ひとりで負けさせてしまったことになる。

「かわいそうに、寝られなかろうに」と思うと同時に、「そうなんだよな」と何だかつくづくと思ったりしたことをよく覚えている。


僕も中学から大学まで10年間、テニスの現役選手として過ごした。小心者であったので、このキャッチャーの気持ちが痛いほどよく分かる。特に高校時代には試合のたびにあがって、それだけで試合に負けた。

自分の力を出し切って負けたのなら、相手が強かったのだと納得も行くのだが、萎縮して自分の力を出し切れず、恰好よく言えば、自分に負けていた。そういう試合はひどく後味が悪いもので苦々しい思いで毎日を過ごしていたことを思い出す。

大学時代には、あがったために試合を落とすということはさほどなくなったが、それでも集中力を高めるためにできるだけのことはした。
テニスの雑誌に「勝とうと思うと自分を見失う。常に『負けない』と自分に言い聞かせることが大切だ」と書いてあれば、愚直なまでにそれを実行したし、先輩から「心を労すより頭を使え」(配球やゲームの組み立てを考えることで心の動揺を意識の外に追い出せ)と言われ、練習ではカウントによる配球や配球によるポイントの取り方など徹底的にたたきこまれた。
試合の前にはウォームアップで出た汗を水道の水で洗い、最後に水を両手に汲んで、しばらくその透明の水を見詰めながら自分の心を整理した。そして「よし!」と小さく言って試合に向かったのである。

笑われるかもしれないが、自分の心をコントロールするためにそれだけの努力が必要だったことになる。


高校の教員となってからは監督としてテニス部の生徒を見るようになっている。
昔に比べると、概してあがる生徒は少なくなって来た。ただ大きな試合や最後の試合となると、高校生では、やはり気持ちは微妙に揺れ動き、多かれ少なかれ誰でもが動揺する。
真面目に練習する生徒ほど却って試合で力を出せなかったりもするものだ。

昔はそうした気持ちの動揺を克服させようと練習を厳しくし、精神を鍛えることに重きを置く傾向があった。練習量を増やし、鍛練のための練習も取り入れ、ギリギリまで追い込むことで強くなろうとした。

今はどちらかと言えばリラックスさせることで重圧を感じさせないようしどうする。例えば、「テニスのゲームっていうけど、ゲームって『遊び』なんじゃない?楽しんでやればいい」ということになる。

どちらが正しいのかは分からない。


ただ、いずれにしろ選手は懸命である。思いどおりに試合が出来ず、負けて帰って来ると涙を流す。そういう生徒を毎年のように見て来た。テニスだけでなく、受験も同じだが。



敗者にかける言葉は難しい・・。

でも、その涙を見ながら僕はいつも何だかとても羨ましい気持ちになる。

「あがる」のは自分に自信がなく、他者からの評価を気にするところに生まれる精神の作用であるとよく言われる。自分に自信がある人、他人からどう思われようと一向に意に介さない人には無縁の精神世界である。

でも完全な自信を身につけている人は存在しないだろうし、大舞台に立って平静でいられる人もそうはいない。

むしろ僕はいろいろな選手を見て来て、あがるのは、選手が大切な守るものをもっているからであるような気がする。それが何なのか、自分への責任であるのか、テニスをしてきた自分との価値であるのか・・、わからない。
しかし、それは単純に勝った負けたということでは片付けられない何かであることは確かである。

人は捨て身になったとき、失うものがなくなったとき本当に強くなれると言われる。どうなってもいいと思うなら何も恐れる必要はないのである。しかし、失うものをもっている人、それを守ろうとしてもがく人は、僕は、美しいのだと思う。こんなことを言うときっと叱られるに違いないが、オトメが美しく、オバサンが強いのと似ている。

どちらが正しいという問題ではない。あのキヤッチャーは自分を守ろうとして失敗し、チームを敗北させてしまった。確かに辛いことだが、その挫折感が僕にはとても大切な美しいことだと思われたりするのである。


敗けは敗けではない・・。


ただそういう、ひょっとしたら「キレイゴト」が、負けて涙する選手に必ずしも通じるわではない。
どういう言葉をかければいいか、いつも考える。
考えて、考えて、よくわからない。
あのキャッチャーはどんな大人になっているだろうか?あの後、どんな言葉をかけられてきたのだろうか。

そんなことが、ふと気になる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?