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シビビイビイとピーピー豆(方言)

■ そうだら・・

東京に出て、初めて自分が方言を喋っていることを知った。

大学に入った4月早々、友達と話をしている時、何の気なしに「そうだら」と言ったら、友達がケラケラと笑い出し、「何だ、お前、その『そうだら』っていうのは」と言い、「『だら』だって」と更に笑いこけ、会う奴、会う奴に、「おい、あのさあ」と言いまわり、人をさんざん侮辱し、僕の尊厳を傷つけた。

この『だら』ということば(助動詞?)は、共通語では『でしょう』くらいに相当する。「そうだろう」「そうでしょう」といった推量・確認などのニュアンスで使われる。「今夜は雪だら」「それでいいだら」とかいった具合なのだが、そう言われてみると確かに汚い言葉のような気もしてくる。しかし、「そうでしょう」なんて言うのも何となく気障のように感じられて、当初、なかなか馴染めなかった記憶がある。

僕の生まれた静岡県東部は東京の文化圏であるし、テレビ等の影響も当然あって、自分は共通語を話しているという意識があったし、またほとんどこの『だら』以外は、確かに共通語を話しているのである(?)。そこに落とし穴があった。平然と、きわめて自然に『だら』と言い、甚だしき失笑を買って、小さな僕の胸は痛んだのであった。

■ 舌べら・・

しかし、盲点というものは意外なところに潜んでいるもので、結婚してからカミさんに「舌べらが痛い」と言うと、カミさんは、僕の痛いという訴えは無視して、「気になっていたんだけど、あなたのその『舌べら』というのは方言よ」と言う。

僕は上述のように『だら』以外は共通語をしゃべっているという認識と自信があったので、「そんなことはない。これは共通語だ」と痛い舌べらで反論すると、「共通語では『舌』か『べろ』なの。『舌べら』は方言!」と言って譲らない。

それでは辞書を見てみようということになり、1年に2,3回しか引かない日本国語大辞典を引っ張り出して引いてみると、確かに『舌』と『べろ』は名詞として載っている。『舌べら』はどうかと更に調査を進めると、あった。しかし、『舌べら』(名詞)とあり、その下に「方言」という二字が四角に囲まれて出ているではないか。

カミさんは鬼の首でも取ったように勝ち誇って「ほら見なさい。方言でしょ」と言うわけで、動かぬ証拠を突きつけられて惨めにも敗北を認めざるを得なかったし、何十年も『舌べら』が方言だと知らずにしゃべっていた自分の迂闊さに、僕の小さな胸はますます痛んだのであった。

■ 今日おれっちであそぶべえ・・

そんなこんなで殆ど標準化した僕の中にもわずかに「田舎」が残っているわけだが、子供の頃は身の周りに方言があふれていた。特にオバアチャンのそれが耳に焼き付いている。オバアチャンは、さきほどの『だら』を『ずら』と言い、自分のことを『おれ』と言っていたが、いま往時を懐かしみ、失われていく方言の一端を、思い出すままに、オバアチャンの語録風に列挙してみたい。静岡県東部地方の方言ということに一応なるだろう。懐かしい匂いに浸っていただけたら幸いである。

この芋はこわい
それ、こっちにほかしてくれ
すぐとんでこい
いいあんびゃあでござんす
靴がうっちゃらかしてある
ひゃあいいかげんにしな
ごいせえきってやくてゃあもにゃあ
ごぞうさかけやした
しゃつらにきい
ずでゃあやる気もにゃあ
お前、せってもなあ
おべえてろ
ちびがいなくてのうのうしい
あんましむてっこちすんな
まったくめぐらまってゃあやんだな
これ、こばにおいとけ
みりっこい
それ、どうずくじゃにゃあ

書きながら思い出したが、子供たちの間でも
おみゃあらばかじゃにゃあ
今日おれっちであそぶべえ
いちゃあじゃにゃあか
かててくりょう
などと使われていた。

きりなく挙げられるような気もしたが、改まって書いてみるとなかなか思い出せない。これくらいしか挙げられない自分がちょっと寂しかったりもするが、それでもこんな風に並べてみると子供時分の匂いがしてほのぼのと懐かしい。僕にとっては心地よいものなのだが、他の地方の人、あるいは標準語化された世代からみると、恐ろしく汚いことばに聞こえるのかもしれない。

しかし、いろんな人がいることが豊かさであるのと同様に、いろんなことばがあるのも豊かさである。衆議院なんかにはいろんなお国の人がいるわけで、みんなが方言で質問したり答弁したりすれば、国会中継なんかも見ていておもしろいのに、などと思ったりもする。

僕の『だら』をばかにした友達も、『舌べ』を指摘したカミさんも、きちんとした標準語をしゃべる、それゆえに貧困な人たちなのである。『だら』の底力は強く、今でもこの地方に根強く残っていて、学校に行き出してすぐ息子は『だら』を使い始めた。カミさんは眉をひそめたが、僕はこいつも東京に出てばかにされるに違いないなどと思いつつ、田舎の子として一つの豊かさを身につけたようにも思ったりした次第である。

■ かたす・・


蛇足になるが、東京にも方言があると知ったのも東京に出てからだった。4月、大学のテニス部に入った早々、先輩から「新入生募集の看板をかたしとけ」と言われ、「かたす」とは何か分からなかったのだが、新入部員の分際で先輩に対して聞き返すことも畏れ多いような気がして、反射的に「ハイ」と答えてしまった。

木にくくられているベニア一枚ほどの看板の前に立って、「かたす」とはどうすることか、「<たたす>の聞き違えか。でも看板は立っている」などと考えて20分近くうろうろした。しかたなく近くを通りかかった学生に「あの、すみません。『かたす』って何ですか」と聞くと、その学生は怪訝な顔をしながら「片づけるってことじゃないの」と教えてくれた。なんだそんなことかと、看板を取り外して部室に運んだが、田舎者の僕は東京の方言さえ知らないことに、感じなくてもいいコンプレックスを感じ、何だかますます自分が田舎者のように思われたりもしたのであった。


■ シビビイビイ と ピーピー豆・・

蛇足の蛇足になるが、オノマトペにも方言?があることを知ったのも東京に出てからだった。よく道端に小さなエンドウマメのような実をつける草があるが、この実の端を少し指で切って開いて中のマメを出し、口にくわえて吹くと音が出る。ご存知だろうか。

僕らは子供の頃からそれを『シビビイビイ』と呼んでいた。吹いたときの音がそんなふうに聞こえるからである。ところがそれを聞いた広島のやつが「何それ、変。」と笑いこける。「それじゃ何て言うんだ」と聞くと、「『ピーピー豆』だよ」と言う。「何だその『ピーピー豆』っていうのは。お菓子が下痢したみたいじゃないか」と笑うと、「『シビビイビイ』だって、下痢しているときのオナラみたいじゃないか」と応酬してくる。

コケコッコーとクックドゥドゥルドゥーの違いと同じで聞こえ方の違いだから、なじり合いは平行線をたどる。僕はシビビイビイの方が遙かに優れた表現だと確信しているのだが、たまたまそこに来た東京の奴が僕らの論争を聞き、「何だ、カラスナエンドウじゃないか」とあっさりバカにしたように言ってのけたのであって、僕らの白熱した論争は一気にしらけたのであった。所詮は田舎者の目クソ、鼻クソが笑い合っていたようなもので、僕は小さな胸をまたしても痛めたのであった。

蛇足が長くなってしまったが、ご自分のお生まれの土地の方言の豊かさを思い出していただければ幸いである。

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