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第1話:ある浮浪者のこと

浮浪者などという言葉を使って良いものかどうか分からないが、今の時期になると、僕はあるオジサンとの出会いをふと思い出す。

僕が東京に下宿していた頃のことで、まだ10代の頃であった。東京といっても府中という都心からはかなりはずれたところで、家並みや街の雰囲気も地方の小都市と何等変わらない平凡な街だった。
ただ、この府中には郊外だからだろうか、刑務所だの競馬場だの競艇場だの、そんな類のものがあったのであったが、実は僕の下宿はその多摩川競艇場の目と鼻の先にあって、休みの日など寝転がっているとモーターボートの音がビィーンビィーンと聞こえて来たりもした。
月に何日か開かれる競艇の日には、駅から競艇場の正門まで数百メートルの間に店々の縁台が並べられ、帰りの時刻ともなると酒を飲む人達や人垣を作って翌日のレースの予想に耳を傾ける人達、あるいはタクシーの相乗りの相手を探す人達など、実に雑多な人々がここに群れた。

もちろん、中には親切な、ごく普通のおじさんもいて、僕が駅の窓から競艇場の方を見ていると、そばに来てレースの方法だの各選手の勝負のかけ方だのを教えてくれたりする人もいたが、ここに集まる人々の印象は概してそれほど良いものではなく、大雑把に言えば、白いスーツにサングラスタイプか、疲れ切った表情をボロ服の上にのっけているタイプか、どちらかに類別できるような気がした。


ある競艇のあった日、そろそろ帰りの混雑も収まったころ、買い物に出掛けようとして電車に乗った。西武多摩川線という、是政と中央線の武蔵境駅とをつなぐ短い路線があり、是政のひとつ手前が競艇場前駅である。

電車はガラガラで一両に7、8人しか乗っていず悠々座ることが出来たが、電車が発車してしばらく経つと、むこうの車両から一人のオジサンがふらふらと歩いて来て、するするっと吸い込まれるように僕の隣に座ってしまった。
こんなにガラガラなのに、どうしてわざわざ隣に座るのかと訝しく思い、そのオジサンに目をやって、驚いた。とにかく汚い。ずっと洗濯していないような作業着を着、競艇の帰りに酒を飲んだせいもあろうが、どこかすえた匂いが漂っている。歯はまっ黄色で口臭がすごく、笑うと目尻の皺から垢が落ちて来そうなほど、うす黒い。

全くまいった。が、もう遅い。

オジサンは人懐こく僕に話し掛け、時々にこっと笑ったりする。僕は閉口しながら、それでも「ああ」とか「はい」とか「そうですね」などとその言葉に気のない相槌を打っていると、「私が中央大学の法学部にいたときに…」という言葉がオジサンの口から出て来た。

当時、中央の法学部は東大、京大に次ぐ法学部と位置づけられていたのであって、まさかこのオジサンが、嘘だろう、と思ったのだが、何を思ったかこのオジサン、Can you speak English? と突然言ったのを皮切りに、自分の身の上を英語でベラベラとしゃべり始めた。
電車が終点につくまで、20分程の間休むことなくである。


僕はあっけにとられて、それをただ黙って聞いていたのだが、そろそろ終点に着こうとするころ、オジサンは車両の向こう側の窓に目をやりながら、ふと「今日はいい天気だ」と日本語で言って、今度は顔を上げたまま大粒の涙をボロボロと流し始めた。幾度言っただろうか、口を開けば「今日はいい天気だ」と言い、またボロボロと涙を流した。

僕は訳の分からないまま、電車が駅に着いたのを良い潮に「じゃあ、オジサン元気で」と言って立ち去ろうとすると、オジサンは僕の手をつかんで「あなたはいい人だ。お願いだからもう少し僕のそばにいてくれ」と言う。
今日初めて会った人にいい人と言われる筋合いもないのだが、仕方なく言われるままにホームのベンチに腰を下ろし、更に10分ほどこのオジサンと一緒にいた。

結局僕はいたたまれずにオジサンを置き去りにすることになるのだが、その間オジサンはほとんど何もしゃべらずにいた。ただ、ぼそっぼそっと

 Something we must do.

と何度かつぶやいた。「生きて、我々は何をなさねばならないのか」ということなのだろうか。そのときオジサンが何を考えていたのか、僕には今でも定かには分からないが、いつまでも忘れられない“出会い”ではある。

(土竜のひとり言:第1話)


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