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第90話:窓際族的思考

30代半ばくらいだったろうか、悪い同僚に感化されて堅実で実直な僕もパチンコにのめり込んでしまった一時期があった。
わずかにあった貯金もパチンコをするたびに減り続け、給料日に小遣いをもらった直後にパチンコに行き、すべてを台に飲まれて1カ月を大変苦しい状態で過ごしたりした。
煙草代もないのでカミさんの見ていないスキを狙って財布から500円を失敬しようとして見付かったり、「150円貸して」と9歳の息子に借金したり、ともかく苦しかったのである。

金がない惨めさを痛感しながら、しかしこういう状態も慣れて来るとなかなか味なもので何だかステキであったりした。
パチンコ屋の前を通っても心揺らぐことはないし、いくら缶コーヒー中毒の僕であっても金がなければ自動販売機の前でいたずらな葛藤をしなくても平然と諦めることが出来る。

言わば、“ない”という状態が、図らずも心の平穏をもたらしてくれるのである。

唐突に話題が変わるが、僕が乗った車の1台目の自称「ベンツ」はダイハツのミラという仮の名を持つ車だった。18万円で買ったのだが、高速で90キロを超えるとハンドルがガタガタ振動し、それ以上スピードを上げようものなら車体が壊れそうなほどガタピシと鳴った。
僕の2台目の自称「ベンツ」はホンダのトゥデイという仮の名を持つ白い車だった。この車は30万円したせいか第1号より多少性能が良く、その状態を迎えるのは時速100キロであった。
その次に乗ったのは、やはりホンダのトゥデイという仮の名を持つ3台目の自称「ベンツ」だった。この車はラジオも時計もないが、僕史上初めてエアコンがついた車だったのであって、エンジンの性能もそれなりに良く、先の状態を迎えるのは115キロくらいであった。

そういう状態なので高速を走る時には何車線あろうがとにかく一番左の走行車線にはりつき85~90キロくらいで走る。当然のことながらほとんどの車に追い越され自分が追い抜くことはほとんどない。
たまに70キロくらいで走っている車があると「おっせーな」とぶつぶつ言いながら追い越すことはあるが、基本的にはたぶん追い越していく車に「おっせーな」と思われているに違いない。
速く走ろうとしても速く走れないのだから仕方ない。マイペースで行くよりほかないのである。しかし、劣等感など感じたことはない。抜かれるたびに“どうぞお先に”と思う。
要するにゆったりとした大きな気持ちなのであり、むしろそれは、金のないことと同じように、非常に心地よい諦めの状態だったのである。

ところが、カミさんがマツダのデミオという名の「BMW」を買った。
オーディオは勿論、エアコンもついている。窓だって自動で開く。ABSもエアバックもついているスグレモノである。スピードだって果てしなくせる。
家族で出掛ける時にはこの車を使うのだが、高速を走るとついつい前の車を抜きたくなる。スピードが出るので抜けるのである。でも、いくら抜かしてもその前にはまた車がいるのであって、速いスピードで走れば走るほど抜かさなければならない車は多くなり、車線を出たり入ったりして苛々したり、なまじスピードを出して緊張したりもするのである。

だから性能が良いことが必ずしも良いとは言えない。

そんなふうに、ベンツ(と勝手に自称している軽自動車)を愛する僕は思うのであるが、あるいは短絡的な論理だとか、単なる嫉妬だと勘ぐられる諸氏もおられるだろう。
しかしそれは普遍的な真実なのである。

たとえば、車のスピードが出せるのと同じように、科学技術が進歩しできなかったことができるようになったために、できなければ諦めて受け入れるしかなかった状況に、かえって人間は苦しめられたりする。
たとえば原発、たとえば生命倫理の問題、たとえばAI、・・。

人の生き方で言えば、能力が高ければ幸せであるかと言えば、必ずしもそうではない。現代の競争社会を生き抜くために能力は求められるものなのかもしれないが、そうやって日本はくたびれているかに見える。
能力を重視する社会に競争はつきものだが、競争は実績や能力を伸ばしても心を蝕みがちである。いつまでたっても経済成長の幻影や学歴社会の虚から脱し得ず成熟できない日本の喘ぎが聞こえて来るようである。
上を目指すと言うが、上とは何だ。能力って何だ。豊かさって何だ。それを問わない競争や暴走は疲れを誘う。

ハーレーをゆっくり走らせているオジイサンはメチャクチャ粋で魅力的だが、それは速く走ろうと思えば走れるのに、走らない。
“俺はこうだぜ”って。そこには自分いて、自分の世界がある。

流れの中に止まっていると、自分の前をたくさんの人が足早に過ぎて行く。

この流れに乗り遅れてはいけないという衝動に駆られるが、この流れに乗りたくないという衝動に駆られることも多い。流れに乗ってしまったら自分を見失ってしまうような気がする時がある。

そういう時は、構わず追い越されることにしている。それに動じない自分でありたい。人は走っているときには見えないものが多い。
似たような意味で人生における強者には見えないものが多くある。その見えないものを見ていたい気がする。

以上、無気力で、こよなく窓際族であることを愛する僕の詭弁でしかない。


(土竜のひとりごと:第90話)

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