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第164話:呼ばれること

「先生」と呼ばれるようになって40年近い年月が経とうとしているが、「先生」と呼ばれることにいまだに馴染めないでいる。

まともな先生はそんなことは感じないのだろうが、僕のように、およそ「先生」と呼ばれるにふさわしくない劣等教員にとっては、この呼称は何だか面映ゆい、重い、違和感の塊のような呼ばれ方なのである。

「先生」とは本来「先に生まれた者」なのであって、「後から生まれた者」である「後生」の対になる語である。そう「先生」と呼ばれることに抵抗感のある僕は思っているのだが、しかし、これはいつまでたっても先生らしくなれない自分への言い訳なのかもしれない。

一方で「先生」というのは呼ぶ側にとっては、非常に呼びやすい呼称であるらしい。「先生」と呼んでおけば、とりあえず相手を敬っているように錯覚させられる。
いや、まさか高校生諸君はそんな政治家にすり寄る腹黒い大人のような考えは持っていないのではないかと思うが、とりあえず「先生」と呼んでおけば、恋人の呼び方について悩むような人であっても、黒板の前に立っているこの人をどう呼ぶかなどということについて悩む必要がない。

そこに何の労力も必要としないのである。いやむしろ、もっと単純に、尊敬の念の有無にかかわらず、サルをサルと呼ぶように教員を「先生」と呼ぶことは、何の疑問もない単なる習慣となっているにすぎないのかもしれない。

しかし、その「習慣」が困った事態を引き起こすことがある。

これが学校の中に留まるものであれば、それを甘んじて受けたいとも思うが、先日も鎌倉に遠足に出かけたところ、一般の人もたくさん乗り合わせている電車の中で大きな声で「先生」と呼びかけられてしまう。
小町通りで試食を漁っている生徒の横をこっそり過ぎようとしているのに、発見されて「あっ、先生!これ買って」などと叫ばれると、思わず他人のふりをしたくなる。
学校の外では間違っても「先生」とは呼ばれたくない。

三島大社に家族で初詣に出かけたことがあったが、人でごった返しているスクランブル交差点の対角に授業を受け持っている5人くらいの女子生徒が僕を発見し、青信号になったとたんに「せんせーえっ!」と大声で叫びながらこっちに走ってきたのだが、僕は透明人間になりたくなった。カミさんもどう反応してよいか戸惑っていた。

定時制の生徒は結構に過激であったので、さらに衝撃も強いものがあった。
修学旅行で大阪に行った時には道を歩きながら大声でエロ話をし、こともあろうに「なっ、先生」などと時々、こちらを振り向いて同意を求めてきたりする。とても同意できない。
休日にバイクで千本浜に出かけたところ、卒業生がスイカ割りをしていた。防波堤の上からほのぼのと見ていると、スイカ割りはいつかスイカのぶつけ合いになり、辺りは散乱したスイカでぐちゃぐちゃになっていく。
そんな時、一人が僕を見つける。そこにいた数人が、大声で「先生!」と呼びながらこちらに向かって走ってくる。浜辺にいた人が一斉にこちらを見る。それはほとんどいたたまれない状況なのである。

病院に行っても受付にかつての教え子がいて「先生」と呼ばれてしまう。
日帰り温泉施設に行くと、受付に教え子のお母さんがいて、そのたびごとに「あら、先生」と大きな声で言われるのだが、「先生」と呼ばれることから解放されたくて温泉に来ているのにと思ってしまう。

かつて横浜の喫茶店で結婚前のカミさんと待ち合わせをしていると、水を運んできたウエイトレスに「あら、先生じゃないですか」と言われて仰天したこともあった。大学に進学してウエイトレスのバイトをしていた卒業生であった。なんということだろう。

卒業生ならまだいいが、地元の祭に結婚前のカミさんを呼び喫茶店に入ったところ、水を運んで来たのはバイトが禁止されているはずの現役の女子高生だった。カミさんに目をやってにやにやしながら「先生」と呼ばれた時の僕の驚きを想像していただきたい。

かように「先生」という呼称は、僕にとって甚だ難儀なものなのである。


唐突に話は変わるが、ここからが本論である。
ある先生の話をしたい。若干配慮したい点もあり、ここでは「恵子先生」という偽名を使いたい。
その先生は「恵子先生」と呼ばれ、僕とは違い、生徒からも慕われ、職員からも尊敬されていた方で「先生」という呼称がまさにふさわしい方だった。

何か困ったときには、恵子先生の所に行くと何でも相談の相手になってくれた。「そうよね」とよく話を聞いてくれたし、たいしたことでなくても「すばらしいじゃないの」とほめてくれた。だから恵子先生と話すとゆったりした気持ちになって何だか元気になってくる。僕らにとってはお母さんのような存在だった。

その恵子先生が乳癌を患って退職された。惜しまれたが、やむない。僕はその後幾度かお宅にお邪魔したが、「今が一番のんきよ」と平穏な生活を楽しんでいたようだった。
うかがってもお留守のことがあったりして、しばらくご無沙汰してしまったが、そんなある日、「危篤なので会いに来て欲しい」という連絡を受け病院に駆けつけた。

ご主人とお会いしたが、癌が再発し、内臓の殆どが癌におかされている。ここ一日二日の状態であると言う。会わせていただいたが見るからに辛そうである。
それでも「恵子先生、がんばってください」と声をかけると、苦しい息の下で「ありがと」と一言返事をしてくださった。

それが僕が先生の声を聞いた最後だった。
それは同時にご主人にとっても妻の声を聞いた最後であったらしい。

その翌日も病院に立ち寄り「恵子先生」と声をかけると、体を動かして僕の言葉に応えようとされたが、言葉にはならなかった。
そしてその翌日に恵子先生は還らぬ人となってしまった。

後日、四十九日の法要の際、ご主人が僕に酒をつぎながら「実は先生に私は少し嫉妬を感じています」と冗談半分に言われた。
それは夫としての自分の声に反応しなかった恵子先生が、僕の言葉には意識を取り戻して応じようとしたということであった。

その時には僕も何故なのかよくわからなかったのだが、後々よく考えてみると、あれは僕の声に応じたのではなく、「先生」という呼びかけに応じたのであろうと思うに至った。
恵子先生の中に眠る教師としてのプロ意識が死の淵にある意識をよみがえらせたに違いない。

「先生」と呼ばれることの意味が僕の中で永久に不確定であることに変わりはないが、人から何と呼ばれるか、その責任とともに人が生きていることを感じさせられた出来事である。


■土竜のひとりごと:第164話

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