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第189話:男女平等

最近セブンイレブンのトイレについて考える。

朝は勤務時間に間に合わせなくてはいけないので気ぜわしい。セブンイレブンのトイレに立ち寄ると、大概の店で二つあるトイレが男女兼用女性専用に分けられていて、男女兼用が空いていないと男である僕は女性専用を使うわけにはいかない。

すぐに空けば何とも思わないのだが時間のかかる人もいる。5分待っても出てこないケースもある。朝の5分はそれなりにシビアな時間である。お店の人に「女性専用を使ってはダメか」と問うても当然「ダメ」と言われる。
諦めることが多いが「もれちゃう」みたいな緊急事態の時は許されるのだろうか?

イベントなどでは女子トイレの前に大行列ができるから、それなりに女性への配慮はしなくてはならないとはわかっているのだが、女性専用は空いているのに5分待った末に男女兼用から出てきたのが女性だったりすると、どうしても疑問符が頭に点灯してしまう。
男女兼用が二つあればいいのではないか?と。はたまた、男性用女性用を一つずつ設けるのが「男女平等」というものではないのか?と。

都市部に行くと電車に女性専用車両というのがある。これは痴漢行為を働く悪しき男がいるから止むを得ないのだろうとは思う。ちなみに男性専用車両というのはない。あったら不気味?。それを選んで乗る男はどんな男だろうかと考えてしまうが、逆説的に痴漢の冤罪を防ぐためには男性専用車両もあっていい。
痴漢をしていないことを証明するのは至難の業で「この人、痴漢」と女性に腕を掴まれた瞬間に有罪は確定してしまう。かつて退職間近の同僚は「俺は電車の中では常に両手をあげて万歳している」と言っていた。退職金を一瞬でフイにしないためである。
果たして女性専用車両とは男女平等なのか?

一概に男女平等と言っても複雑な問題を抱えている。


男女はその「差異」による「区別」が必要なのは、それはそれでひとつの正しい認識だろう。
例えば、男女雇用機会均等法が僕が就職して間もない頃の1985年にできた。働く女性にとって権利が認められるのは大切なことであるが、その時の職場での説明は「均等法の施行により、これからは通勤距離も勤務形態もすべて男性並みにする」、つまり女性に対するこれまでの「配慮」はやめるというものだった。うろ覚えの不確かな記憶ではあるが「改悪だろう」と思った記憶がある。
男女平等の理念とは何?
「男と同じ」という発想の視点自体にも疑問符がつく。

差別があるのは紛れもない。
最近では医大の合格が性別によって操作されていることが問題になった。女性は出産や育児があり、医者として働ける時間や期間に制約があって、多忙を極める現場としては看過できない現実的な問題だという理由である。
それは男女という枠を超えて働き方という視点で考えてみなければならないのだろう。

相撲も男女平等について考える視点をくれた。

例えば数年前、京都舞鶴市で行われた大相撲春巡業での挨拶中に突然倒れた市長の救命措置で駆け上がった女性に、日本相撲協会側が「女性は土俵から下りてください」とアナウンスをしたことが大きな波紋を呼んだ。
なんと愚かなことだろうと思うがこれがなんと2019年のことである。

それは論外だが、それ以前にこんなこともあった。平成2年(1990)女性初の内閣官房長官が土俵で優勝力士に総理大臣杯を渡すことを希望したが、相撲協会は認めなかった。
女性差別ではなく土俵は裸にまわしを締めて土俵に上がる力士にとって神聖な場であり「そうした伝統を守りたい」という説明だった。

その時「そういう世界もあっていい」という言葉があって、その言葉は妙に説得力のある生の言葉のような気がして記憶に残っているのだが、この「そういう世界もあっていい」という言葉について女性がどう考えるのだろうか聞いてみたい気もする。

宗教上、女人禁制の場所もある。
伝統、慣習とは何だろう?

例えば、僕の高校の母校は旧制中学が前身であったため、校歌には「男子をのこ気噴いぶき吹きあかれ」というフレーズがある。これは現代にそぐわない伝統として変えるべきものだろうか?
かつて生徒会が問題提起したことがあったとも聞くが、今の生徒は「別に構わない」という反応である。


性差が消滅
しつつあるという現状もあるか?
「男」が草食化して「男子」となり、大人の「女性」が自分たちの呼称をあえて「女子」として少女化することで「女」であることから自分たちを解放しようとしているかに見えもする。


男と女とは何だろうか?

男女平等ということについて考えるとき、そこを棚上げできないような気もする。さらにここにジェンダーフリーの問題が加わる。
男女の「差異」を超えて「人間」という枠で考える発想が求められるわけだが、その時、どうしても切り捨てられない個体、身体としての「差異」をどうすればいいのか?


考え方が進めば、それを保証する「仕組み」は常に更新されなければならない。
問い続けるしかない。でも、そのイタチごっこのように思われることも、その議論が「根本」を問うことにつながれば、価値のあるイタチごっこになるだろう。

多分、その時、大事になる感覚は、どんな高邁な理念も一律に作動しえないということである気がする。平等とか自由とかという正しい理念も、一律の枠にはめ込んで終わりにならない。
自由・平等は決して実現されない理念であるゆえに、探し続けるしかない。


セブンイレブンのトイレで、それが空くのを待ちながら僕はそんなことを考えてみる。
一方では、イベントの会場で混雑する女子トイレを避けて、いとも平然と男子トイレに入って用を足すオバサンもいる。
性同一性障害の男性が女性トイレを使いたいという要望は女性によって忌避されるべき大問題となる。

愚かなことを口走るが、いっそのこと文明を捨てて、男も女もみんな裸で「野糞」すれば「平等」は達成できるかもしれない。
でも、それを覗こうとする「男」がいて、それを恥ずかしむ「女」がいる。
だから「配慮」が生まれ、守るための「制度」が生まれる。


「社会」とは、それ自体が「迷路」であるかもしれない。


■土竜のひとりごと:第189話

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