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怠ける亭主の哲学

(すみませんが、だらだら長い文章になってしまいました)

結婚したばかりの頃、僕はダイハツのミラという軽自動車に乗っていた。しかし、ラジオもカセットもCDもついていなかったので、カミさんに「ちょっと寂しいんだが」と訴えたところ、3000円の中古のラジオをつけてくれたのであって、以来、ラジオを通勤の友としていた。カセットやCDで気に入った音楽を何回も楽しむのもいいが、ラジオは新しい笑いや新鮮な情報を絶えず提供してくれる。実に楽しい通勤の同乗者と言うべきであった。

ラジオと言えば、僕らはオールナイトニッポンと共に育った世代である。なんだかどきどきしながら深夜放送に耳を傾けていた中学生時代を思い出したりもする。そういえば、結婚した当初も僕らにはテレビがなく、ラジオを聞きながら夜を過ごしていた。太川陽介と榊原郁恵のトークや連続ラジオドラマの展開など楽しみに二人で耳を澄まして聴いていたことを今でもよく覚えている。何もない結婚生活のスタートだったが、それはそれで楽しかった。そんな思い出が、ラジオと結びついて、ラジオを妙に懐かしい旧友のように思うのかもしれない。



いつだったか、ラジオを聴いていたら、鶴公がリスナーからのメールを紹介していた。リスナーからの便りといえば昔は葉書だったのに、今はもっぱらメールである。そのメールを紹介するときに鶴公は「メール」の上に「お」をかぶせるのだが、それがなんとも奇異な感じなのである。

例えば「それでは皆さんからのおメールを紹介しましょう。さて、○○市の○○さんからのおメールです」と言った具合で、書いてしまうとさほどでもないが、あの独特なダミ声と関西なまりの節回しに乗って耳に入ってくると何とも奇異な、いや~らしい感じがするのである。

鶴公だから生じる違和感かと一瞬は思ったわけだが、でも自分で何回かつぶやいてみても、おメールは不自然。お葉書は普通なのに、おメールはそれ自体が確かにおかしい。【お】は尊敬の意を表すことばであるが、どうもカタカナ、すなわち外来語とは馴染まないらしい。

おカステラ、おコップ、おパソコン、おバイク、おコート、おブック、おブラシ、おラケット・・。そういえばおさじとは言うが、おスプーンとは言わないし、お茶・お紅茶とは言っても、おティーとは言わない。日本人にとって外来語は所詮異物なのか、あるいはまた、外来語が日本の敬語文化を拒否しているようにも思われたりする。

ついでながら、「御」という接頭語は、例えばご希望お望みといった具合で、同じ意味の言葉でも、「希望」のような漢語に付くときは「ご」と読まれ、「望み」のような和語に付くときには「お」と読まれ、それが和語より漢語を格上とする日本人の意識を反映していると言われる。

言葉には微妙な相性があると言えそうである。

ある日、保健室の先生と話をしていたら、彼女が子パンダと事もなげに言ってのけた。彼女は若く、キュートな感じのする女性で、常識ある理知派である。しかし、子パンダと言って平然としており、「おかしいのではないか」と指摘すると、「そうですか?言いませんか?子パンダって?」と言っている。

そう言われて考えてみると、確かに理屈の上では何もおかしくない。例えば、子犬、子猫、子牛、子馬、・・と動物の前に【子】をつければ、その動物の子供を表すわけである。しかし、子パンダには何故か違和感がある。同じように、子キリン、子ライオン、子サイ、子ゴリラ、子マントヒヒ、子カバ、子コアラ・・も全く耳に心地よくない。何故だろうか。

さっきの漢字と片仮名という表記の違いが原因かとも思えるが、猫も馬も、ネコ・ウマという片仮名でおかしくないし、キリン、サイ、カバにも、それぞれ麟麟、犀、河馬という漢字がある。マントヒヒやコアラは確かにそう言えるかもしれないが、狼や虎だって漢字が一般的なのに、子狼とか子虎とは言わない。パンダにいたっては漢字文化の国、中国の動物であって、熊猫という立派な漢字が当てられているわけである。

恐らく結論的には、ごく単純に、ペットや家畜として長く常に日本人の身近にあった犬や牛に対する近親感がそういう言葉の結びつきを許してているということなのだろう。
しかし例えば、コジカ、コグマ、コザルなどは、同じ【コ】ではあっても、小鹿、小熊、小猿と【小】が使われるのであって、そんなことを考えてみると、なんだかもう少し不思議で微妙な発見をしたような気にもなる。とりあえず、ことばがそれぞれに持っている歴史的な相性のようなものを感じてみたりするわけなのである。

そんなわけで再び、ことばには相性があるという極めて感覚的な言い方を赦していただきたいのだが、そう言えば、僕らは学生のとき、ある講義で、二つの類義語を取り上げ、それと結びつく語を比較することで、その語の特性を考えるというレボートを課せられた。源氏物語の全編から二つのことばを拾い、何百枚ものカードを作ってひたすら分類したことを覚えている。

そんなことでなくても、身近に例は拾えるだろう。例えば、愛し合うとは言うが、恋し合うとは言わない。恋焦がれるとは言うが、愛焦がれるとは言わない。恋心は自然だが、愛心は不自然だし、愛を育てるとは言っても、恋を育てるとは言わない。がひとりで激しく感じるものであり、は二人で努力して育むものであるからである。

ことばの相性を考えてみると、一見似通った二つのことばが、確かに別の個性を持って屹立する存在であることがわかる。

そこで僕は、唐突に怠けるサボるの違いを考えてみようと思いついたのである。仕事を怠ける・仕事をサボるは両方とも普通に言いそうである。勉強を怠ける・勉強をサボるも成立する。ただ、授業を怠る授業をサボると言ってみた時に、ちょっとした違和感が生じる。授業をサボるは明らかに授業に出ないでふらふらすることだが、授業を怠けるはどういうことだろう、と引っ掛かる。授業をエスケープすることだけではなさそうだ。同じように学校をサボるは明らかに成立するが、学校を怠けると言った時、そこに微妙な違和感がある。

そこで例えば、勉強・授業・学校をひっくるめて「学業」と置き換え、学業を怠けると言ってみると、この方が何だかしっくりする。さっき挙げた仕事をサボる・仕事を怠けるの「仕事」も、前者はその日一日のWORKが甚だ具体的にイメージされるのに対して、後者からイメージされるのは、働くことそのもの、働くことそれ自体、言ってみれば、労働の概念なのである。

つまり、その日の授業や学校、仕事という具体的な事実から逃避することサボることであるとすれぱ、怠けるは、学ぶこと、働くことそのものを放擲するニュアンスを持っているということになる。したがって、怠けるサボるに対して、より抽象的な概念と結びつき、より根源的な態度なのであると、怠け者の僕は思うわけであるが、これを証明するために、もう少しだけ我慢して、この「目くそ」と「鼻くそ」を比較しているようなくだくだしい論にお付き合いいただきたい。

例えば、用事があるからサボる・デートをするからサボるは至って自然だが、用事があるから怠ける・デートをするから怠けるは不自然である。つまり、具体的な原因があって人はサボるのであるが、怠けるにはそうした具体的な原因が必ずしも必要ではない。

また、サボって遊ぶは、例えば、ゲームをしたり、ドライブをしたり、どこかで何かをするのだろうが、怠けて遊ぶの「遊ぶ」は、そういうPLAYではない。むしろ、怠けてゴロゴロする・怠けてグデグデするの方がことばの結びつきとして筋が通っている。

そう、だから怠けるは、現実になじまぬ精神の休息、休養なのである。したがって、サボるがすべきことからの逃避であるとすれば、怠けるは心の疲れへの癒しの希求であると言える。

かなり強引に怠けるの弁護の走っている自分を感じるわけだが、原義的にもサボるは、sabotageから来たことばで、もとは、故意に仕事の能率を落として経営者に損をさせる労働争議の戦術である。それに対して、は「心がゆるむ・心がとどまる」くらいが字義であろうか。

強引ついでにもうひとつ別の言い方を試みると、サボるは意志的な拒否の姿勢であるが、怠けるは、もっと言いようのない、やむにやまれぬ精神の衝動とでも言うべきものなのである。
そこで僕は、

不来方のお城の草に臥ころびて/空に吸はれし/十五のこころ

という啄木の歌や、あるいは寺山修司の

蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき

などという歌をふいと思い出したりするのであるが、仮に人生を怠けると言ったときの重さは、人生をサボるという言い方の軽薄さに対して、比較にもならない深さを持つ。我々は、わけもなく湧き起こる、生きるがゆえの疲れに、現実を捨て、生き根源に立ち返って怠けるものなのである。
蓋し、怠けることは根本的な問を問う精神なのである。僕らは、真剣に怠けることをもう一度考えてみる必要がありそうだ。


で、じゃあ、あなたのグータラは何なの?
とカミさんは言うのであるが、それは僕の「屁理屈」を黙って見逃すという思いやりに欠けた、浅い精神と言わなければならない。

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