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ワークショップができること

今日で35日目になるのかな。目が覚めると外は本降りで身体がのっそり動き出した。作り置きのパンをトースターで温め直して残っていたサラダを挟んで食べた。パン作りは楽しい。
ワークショップをやると楽しさの向こう側に行きたいなと思うことがあるのだけどそこから先にはどう進むのかまだよくわかっていない。

ここ十何年かの間に演劇のワークショップから始まって、いろんなワークショップを目にするようになった。技術を学ぶレッスンやものを作る講座、娯楽に対価をはらうことはずいぶん浸透しているけど、まだまだ人と触れ合うための体験に対価を払うような文化には至ってはいないなと思う。もっともだと思う。なぜなら私たちの世代は体験を実体験する機会に恵まれていた世代だから。でもいまのこどもたちはその体験をする機会が日常と切り離されていることにハッとする。事件や事故が起きるたびに不特定多数の大人と触れ合う機会だったり、危険だと思われる遊具などがどんどん社会から排除されてしまったのだ。
そして、体験の場を選ぶのは大人たちだ。大人たちの価値観にあうもの、対価をはらってもよいと判断できるものには喜んで参加する。
子供たちが自らの意思で選んで参加するにはハードルが高いことはいつの時代も変わらない。

だから、大人たちがさまざまな非日常の場を安全に提供していくことが必要になっているのだと思う。
演劇や他の文化的な活動体験はスポーツやなにかの技術を得る前の土台となる人の力を養うことができる。もちろん、演劇自体を学ぶことで得られる技術もある。演劇に携わっている以上選択肢として演劇が選ばれるような未来を夢見る。

演劇は相手について考えることでもあり、自分の生き方とも折り合いをつけていく方法が凝縮されている。自分で考えて、自分で自分の物語を作り出して、実行していく力とも言える。誰かほかのひとがいて、じぶんもいる。相手に対するリスペクトと同時に自分へのリスペクト。そして、その背景からいままで演劇に取り組んできた人たちに対する敬意も生まれてくるから面白い。ひとについてかんがえたり、ひとと一緒になにか行動すること自体が楽しくなったらどんなところでも生きていける。

ひととつきあうことはめんどうくさいし疲れることも多い。でもどう考えてみても仙人のような生活でもしない限り、一人で生きていくことは不可能だ。そして、こどもに仙人になりなさい、という親こそ少ないと思う。友達ができて、家族をもって、幸せになってもらいたいと思う人が一般的だと思う。その幸せのかたちがある一定のテンプレートになっていることが窮屈だなとおもう。

人の数だけ幸せのカタチはある。どんな幸せな物語を作り上げるかを夢見ること。まずは夢見ること、想像すること。夢の数だけ幸せのカタチがあることに気づき、人が夢見た種類の豊富さが、人の豊かさじゃないのかなと思う。
行き詰まってしまった時代に新しい未来を切り開くことができるように、未来と今に寄り添って生きていきたい。


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