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大江健三郎先生が亡くなった。

大江健三郎先生が亡くなった。

いつも描かれている「自分の木」の通りに、もし大江先生の魂が森に生まれ変わったら、きっと誰かいたずらな男の子が「自分の木」の根本で待ち構えていて、「お前の木はちいさい」とからかうのだろうか。

彼らはもしかしたら友人になれるかもしれないし、なれないかもしれない。魂の世界ではなにがあるのだろう。すぐ産まれなおそうと大江先生はなさるかもしれない。なにかの研究を始められて長居なさるかもしれない。

私は一介のファンとして、ただ大江先生の本を読むといつも語りかけられているような気がするのが不思議だった。
 いつもフィクションであることを忘れてつい大江先生のお話を聞いているような感覚に襲われていた。だからあれはフィクションでも、ノンフィクションでもなく、その境目にあるものなのかもしれない。

 大江先生の死後の評価は私の仕事ではないし、そもそもそんなに時間が経ってないから、これから様々な評価が出てくると思う。やや楽観的だがきっと作品は残るだろう、ただ私は大江先生の本を1970年代の若者だけでなく(私もその時は産まれていない)私より若い方に、より若い読者に読んで欲しいし、他人にも薦めて欲しい。

 私には大江先生がよく「死んだらどうなるか」というようなことを作中で気にかけていらっしゃるように思えた、「死んだらどうなるか」というようなものを書くと笑われるような年でもあるが、何人か身近で「死んだ」人を見るような年にはなった。
 ただ、「おそらくこうなるのだ」というようなことを私がもし知っていたとしても、ここで直接的に結果だけをインスタントに書くことはやめようと思う。おそらく誰も私のこの記事にそんなことは求めていないから。

 一つだけ気がかりがあるとすれば、「さようなら!私の本を!」の後「晩年様式美」では描かれていない、「すべての徴候」にさからったロバンソン小説はどうなったのか?どこかに描かれていないのだろうか。
 震災のショックの前には些細なことになったのかもしれない。その震災で東京も揺れたと聞く、そのゴタゴタでどこかに紛れてしまったのか、そしてもしも小説が生き物ならば、あの3・11で書き変わっていないだろうか。     
 一枚のノート紙の書きかけなどならどこかにまだあるかもしれない、私もそれを探しているのだ。

 だれかもっていないだろうか。

 思想が一見反対に見える友人すら大江先生の存在を知る人だった。


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