プロフィール
大人しいのに活発という不思議な少女
生まれは秋田の由利本荘市。
昭和59年。海沿いの街で産声を上げました。
妄想全開で空想の世界に生きていた
祖父祖母、父母、妹という中で内弁慶だった私は、幼稚園の頃から絵を書いたりレゴをしたり、とにかく創作が好きで中でも指先を動かすことが好きな女の子でした。
オリジナルのきせかえ人形を作って服をデザインして着せてみたり、レゴで家を作ったり、折り紙で家具と部屋を作って人形遊びをしたり・・・
自分の頭の中を現実に表現できたとき、誰かに褒められなくても「おお、これはいい」と自画自賛&自己満足で事足りて、どんどん新しい作品を作っていました。
既製品をそのまま遊ぶ、ということは少なかったと思います。
授業中だろうが休み時間だろうが所構わず、とにかく頭の中は妄想や想像の世界出いっぱいで、それをひたすら書き出す日々。
常に面白い遊び方ないかな、とあれこれ考えては友達を巻き込み「大人しいけどなんだか面白い子」ということで、友達は意外と多く学校は楽しくて幸せな学生時代を送っていました。
真面目で物静かな健康優良児
一方で、体を動かすことも好きで塀の上を走り回って落ちたり、土日はアスレチック公園で一日遊んでいたり、しょっちゅう転んではエタノールを綿棒で湿らせて自分で膝の治療をするという(良い子は真似してはいけません)変わった子どもでした。
それでも、両親はじめ祖母が「女らしく」「長女だから」「〇〇しなさい」と私を型にはめることなく見守ってくれました。私の根拠のない自信、打たれてもめげない諦めの悪さは、この家族の支えがあったからだと思います。
否定されずすくすく育った18年間は、今振り返ってみてもありがたく貴重な時間です。
家族も多かったので、祖母、母ともに外食や出来合いのものは極力使わず、節約になるからと毎食丁寧にご飯を作ってくれました。
中でも、祖母は風邪に効くからとたんぽぽ酒をつけてくれたり、卵酒を作ってくれたり、今思えば野草や食材からの食養生を生活に取りいれてくれていました。
小さい頃は、苦いとか美味しくないとかでできれば飲みたくないと思っていましたが(笑
でもおかげさまで、幼稚園はそれなりに風邪を引いたりしましたが小学校は2年生からほとんど皆勤賞(2年生までは登校拒否気味だった)で、中学校は1回だけお休みしてあとは皆勤、高校生は皆勤賞の症状をいただきました。
パソコンとの出会い
小学校4年生の頃、親戚のお下がりでワープロをもらいそのメカニックなフォルムとキーボードにときめき、独学でブラインドタッチを習得しました。
絵を書くことと並行して機械を使っての表現も増え、高校生になってからはパソコンを買ってもらい、帰宅してほぼ毎日チャットに繰り出す日々。
パソコンとゲームに明け暮れる毎日
当時はDIONというサーバーを使っていたので、チャットはもっぱら「チャチャラ」
これは単なるチャットではなく3Dのアバターを使い天空のフィールドを自由に歩き、チャットで会話するというものでした。
いろんな年代の人と会話できるのが楽しくてブラインドタッチのスピードは自然に上がっていき、高校生の情報処理の授業で必ずブラインドタッチの速度を計測するのですがすぐ打ち終わってしまうので、いつもタイムキーパーを任されていました(笑
また、小学一年生の時に親戚からプレゼントされた灰色の初期ゲームボーイから始まり、PS、PS2とどんどんゲームにものめり込んでいきます。
その中でも一番好きだったのは、ワールドネバーランドと幻想水滸伝。
創作も、絵から漫画、小説と紙で表現するものは全てやりつくし、高校を卒業するときに決めた進路は「ゲームを作る専門学校に行く」でした。
実家を離れて自分探し
パソコンとクリエイティブどちらも関わった2年間。
実家を離れ、仙台の寮に入りました。
パソコン内部のことから、ゲームの作り方(シナリオからデザイン、プログラムまで)を学びましたが、それを仕事にしようとはどうしても思えず、無難な派遣の仕事に就職を決め茨城へ。
周りに活かされていた下積み時代
水戸駅で何気なく求人雑誌を見ていると、リラクゼーションサロンのスタッフ募集が目に止まりました。
これは・・・派遣よりおもしろそう!
と、思い立ったら吉日。
早速電話をして、リラクゼーション業界に足を踏み入れました。
全く知らない土地で始まったリラクゼーションのお仕事。
当時は親から「せっかく専門学校出たのに・・・」と言われたりもしましたが、この業界に興味を持ったきっかけは、高校生の時からあった肩こりです。
施術を受けたくても、当時地元にあったのは年配の方が行くような電気をかけるあん摩さんしかおらず、若い人が行くような今のようなリラクゼーションサロンはありませんでした。
私は施術を受けるのも好きなのですが、体格的に筋肉が細いこともあり、せっかく楽になりたくて受けに行ったのにもみ返しになって翌日辛くなることもしばしば。
その時はすっきりするのはいいけど、揉み返しがなかったもっといいのにな・・・
最初はそんな思いで関わりはじめたリラクゼーションの仕事でしたが、周りに友人がいない茨城の町で人と私をつないでくれたのは「もみほぐし」でした。
初めてのお客様でも施術を通して話が弾み、10時から22時、あるいは24時という通しの仕事でも全く苦にならずむしろ楽しい!の連続でした。
ケインコスギが好きだと言ったら本をプレゼントしてくれたお客様、秋田出身だというと遠くから来て頑張ってるね、と励ましてくれたお客様。
優しいお客様と、温かいスタッフに囲まれて幸せな環境で仕事ができる幸せ。
その頃は週1の休みでしたが、むしろ休みすらいらないと思っていました。
セラピストとしての限界に悩む
そうして1年も経つとどんどん新しい子が入り、また出ていき、実力のある先輩は店長になり独立してお店を離れていきます。
一時期50人ほどいたスタッフのランキングで、揉んだ時間と指名の時間と15位、10位と上位に上がっていく喜びはありましたが一方でもやもやした気持ちも膨らんでいきました。
お客様とのやり取りは楽しい。
新しい技術を覚えて、お客様が喜んでくれるのも嬉しい。
しかし、このままどんどん成果を出して店長などトップに立つというイメージがどうしてもわかないのです。
そんな時に、もみほぐしで出会った方と結婚。出産と「一般的な幸せ」の階段を登っていきました。
家族の大黒柱である父が倒れる
幸いにもすぐに子どもを授かりますが、長男が一歳の頃に父が脳梗塞で倒れ、実家に帰りたいと夫に相談すると「お金がないから無理」「お店があるから無理」と止められ衝撃を受けました。
うちの父は寡黙ですが言葉にユーモアがあり、穏やかで私達姉妹にも優しく接してくれました。
土日になると家族をラーメン屋さんに連れて行ってくれたり、あちこち車を走らせて出かけてくれたり。
圧倒的なリーダータイプではないけど、みんなが信頼して頼りにして、父も又それに答えて家族だけでなく町内の活動にも尽力し、よく色んな人から声がかかる人。
実家で過ごした日々が走馬灯のように頭をよぎります。
父が倒れたのは、好きなお酒やタバコもありますが(一度肝臓を悪くして入院した)家族を養うために朝は日の出とともに出勤し、夜も遅くまで働いてその合間の気分転換の缶コーヒーによる脳梗塞ではないか・・・という話でした。
そんな尊敬する父が倒れたのに、長女の私はこの茨城から動けないなんて・・・
父は倒れてからすぐ救急車が駆けつけてくれて病院に運ばれたので、右半身の麻痺のみで一命をとりとめました。
これで命を落としていたらどうなっていたか・・・今思い返してもゾッとするのと、動けない環境を選んでしまった自分への後悔と父への懺悔で今の私はいなかったかもしれません。
身動きが取れなくなり実家へ逃げ帰る
当時は自営業で夫が収入を握っていたので、一緒に買い出しに行き食費を買うときだけ出してもらう。というスタイルでした。
店と家としか往復しないんだから、使わないでしょ。店の支払いが先だ。と私の財布にはお金はありませんでした。
そんな中2人目が生まれ、唯一外部との連絡が取れていた携帯代が払えなくなり不通。
もう、これは限界だ。
子どもを抱えて僅かなへそくりを使い実家に逃げました。
その日は、実家からクリスマスプレゼントが届いて子どもたちと大喜びしていました。
昼すぎ、誰も家にいないのを良いことに「出るなら今!」と衝動が走り、気づいたら家を出ていました。
最低限の荷物と独身時代から飼っていた猫を車に詰め込んで、何も知らない子どもたちと車に乗り込み秋田の実家へ。
12月なのにノーマルタイヤで東北に向かうと、山形に入る頃には高速も猛烈な雪吹雪でホワイトアウト状態。
少しでも運転をミスると死ぬかもしれない・・・
後ろには子どもたち。猫も乗っている。
ラインをはみ出したら対向車にぶつかる、カーブでスリップしたら山から転げ落ちる。
そんな極限状態でも、心はどこか冷ややかで一種の静けさのようなものがありました。
ここで死んだらそれまでの人生だったんだ。
無心で車を走らせていると、目の前に大きな止まれの表示が。
「この先は危険なので、高速降りて下道でお願いしまーす」
吹雪で高速が閉鎖され、私は生かされました。
変わらない環境と消耗していく心
向こうの親の説得もあり、数ヶ月で帰宅。
少しは自由がきくかもしれないと思ったけれど、結局変わりませんでした。
どんどん自分が自分じゃなくなっていく焦燥感、不安感。
子どもを授かれたのは幸せ。
だけど、私が私じゃなくなっていく・・・
どこで間違ったんだろう。なにがいけなかったんだろう。
夫より3歩下がる控えめな妻、自分の母のようになれると思ったけど生活は下降していくし、このままついていっていいのだろうか。
お母さんだから、子どもがいるうちは自分のことは後回し。
「これは一体、誰の人生なんだろう」と思いながら、あの小さい頃のようなワクワクした創作意欲も全くわかず、ただ淡々と24時間をこなしている毎日が続きました。
自分の人生を生きる
そこで起きた大震災。
秋田の被害はそれほどではありませんでしたが、東北が大打撃を受けて生活が遮断され、全てが止まりました。
Twitterやテレビで流れる被害を、ただ見るだけで何も出来ない自分。
あのときと同じ。
お父さんが倒れた時、動けなくて何もできなかった。
もっと私に動ける力があれば・・・
この時から、ぼんやりしていた心に火が灯り始めました。
そんな生活が6年ほど続き、3人目を妊娠。
つわりが酷くずっと体調が優れない中産まれた子を抱いて、ふっと「私このまま死んだら後悔する。まだ何もやれてない!」と生きる力が急に高鳴ってくるのを感じました。
もう、誰がなんと言おうと自分の人生を生きる。
起業の第一歩
そこからは、自分をどんどん表に露出していきました。
3人目が1歳半を過ぎたときに子どもを預け、午前はエステ、午後はアパレル、空いた日はリラクゼーションと掛け持ちで働き始めました。
掛け持ちは意外にも楽しく、自分が社会に必要とされていること、また自由に使えるお金があるありがたさを感じることができました。
少しずつ自分に時間とお金を使えるようになって、創作意欲、やりたいことややってみたいことが次々浮かんでくるようになり「起業」という道を目指すようになります。
店舗を持たないセラピスト
まず最初に開業届けを出し、好きな本のせどりを中心にネット書店からスタート。
それと並行して、カイロ、整体、レイキ、アロマなどたくさんのアプローチ法を知り、体験し、落とし込むことで単なる指圧だけではなく体と対話する大切さを知っていきました。
当時車がなかった私は、移動手段はほとんど電車で施術のときは大きい簡易ベットをえっちらおっちら運びながら行っていました。
次男もよく仕事についてきてくれて、子育てサロンなど子どもがいても良い場所での仕事のときはほとんど一緒だったように思います。
それもまた、一人で活動していた私には頼もしく支えにもなっていました。
一番深い気づきを与えてくれたのは、鍼灸師であり占術も行う男性のセラピストさんでした。
体だけのアプローチではなく、心もケアする。
そして一方的なものではなく、お客様自身も自分の体を知り、気付き、自分の力に気づくことで体は向上していく。
その鍼灸師さんの施術スタイルが、今までの「施術だけでアプローチする」という概念を崩してくれました。
体のツボや経絡、環境を作る家相や漢方、食養生なども元をたどると陰陽五行にたどり着くということに気づき、易経やより深い知識を得るために古書なども読み漁るようになり「若いのにおじいさんみたいなの読んでるね」と珍しがられるのですが、そのきっかけをくれた人です。
子育てで気付かされた心と体のつながり
次男が産まれ、育てていく中でどうしても理解できないところがありました。
それは後に発達障害というところに繋がるのですが、周りに相談できる人もいなく、家族の理解もないモヤモヤを解消したくて「子育て」とつくセミナーやブログなどを読んでいた時。
「アンガーマネジメント」でイライラがなくなる?という記事を見つけ、これだ!と思った私は「アンガーマネジメントキッズインストラクター」の講座を受講しに東京に向かいました。
そこで知った、「怒りは悪ではない」ということ。
それぞれ価値観があって、自己防衛本能があるから自分を守ろうとするから怒りに繋がるのだ。
体の表面じゃなく、もっと内側を知りたい。
そんな時に水戸で開催するという「子育てが楽になるマヤ暦のおはなし会」があるということを知り、そこに参加してマヤ暦の凄さを知りました。
マヤにも紋章同志の相性はありますが、良い悪いという概念がなく、全ては0である。が基本にあります。
全ては学び、全ては必然なこと。
この考え方が腑に落ちて「心と土台と資質すべてを見ていく」という今のスタイルになっていきました。
ミシンが使えたのでネコ型のホットパックを作って販売したり、親子向けにいかこんの講座を開催したり。
女性では珍しいね、と言われた易の見立てを初めたりしました。
そのホットパックに興味を持ち、易の見立てにも応募してくれた女性に声をかけられつくばで初めてのイベントを開催しました。
当時打ち出そうとしていた、アンガーマネジメントと体のケアの体験イベント。
これがきっかけで、つくばで定期的にイベントを開催することになります。
たくさんイベントに参加する中で、出会った方に引っ張ってもらい、今までの掛け持ちの仕事を少しずつ手放していきました。
自分らしく在るように
起業もし、自分の基盤が少しできた頃、子どもを連れて離婚。
その時に、色々と手助けをし、時には笑わせ、支えてくれたのが今の夫です。
もう結婚はいやだ。夫はいらない。
と言ったとき、「俺が嫁になる」と言い放ちました。
※ですので、ここからあえて『嫁くん』と呼びます。
「結婚が嫌だったらハピネスはどう?俺とハピネスしない?」と持ちかけてきた嫁くんと、子ども3人を連れて再婚することになりました。
当時は起業していても売上が今一つで貯金を切り崩していたという嫁くんですが、家族ができたことできちんと「お金をいただく」ことができるようになり、生活はだんだん豊かになっていきました。
光熱費が払えない、ご飯は白米だけ、子どもの服はいつもお下がりでサイズが合ってなくて、靴は実家に帰ると「新しい靴買いなよ・・・」と親からお金を渡されるほどボロボロに履きつぶしていた前の生活。
私がやりたいことがある、と言っても「お金がないから無理」「お店優先でしょ」と挑戦するチャンスも与えられず、何かの拍子でそういうチャンスが巡ってきてもちょっと失敗しただけで責任を問われ、確実に一回で結果を出さなくてはいけないというプレッシャーが常につきまとっていた日々。
嫁くんは、私が言うのもなんですが自分のことは後回しでも「助けて!」と言われたら県外でも駆けつけ、親身になって話を聞き自分ができることを全力で相手に与えます。
子どもたち3人とは血はつながってませんが、普段は友達のように、でもやはりここぞというときには父の威厳を持って接してくれました。
子供のことで今でも忘れられないのが、次男に対する前夫の態度です。
長男のことはとても可愛がっていたのですが、次男に対して「自分に顔が似てて自分を見ているみたいだ」「子どもに思えない。犬とか猫とかペットの感覚に近い」「申し訳ないけど、長男みたいに可愛いと思えない」と言う発言があったこと。
それでも、「母親である私が愛情を注げばいいんだ。この子たちは何があっても離さない。私が守る」と気張っていたのもあって、だんだん夫婦のつながりが疎遠になっていったところもあります。
でも嫁くんは子どもたち一人ひとりを見てくれて、一人の人間として尊重してくれて、それは私にとって今まで背負ってきた「母親が子どもを守らなくてはいけない」という責任から解き放たれた瞬間でもありました。
そして「俺が嫁になる」の宣言どおり、私の活動ややりたいと言ったことを応援してくれ、失敗してもコケても責めることはなく、私がやり直したり立て直したりするのを見守ってくれています。
それは、私が実家で受けてきた「家族」の支えに近く、そんな環境があるからこそ子どもがいても、主婦でも、創作意欲をもって活動出来ているのだと思います。
やりたいは諦めなくていい
個人プレーな二人が出会い、家族になると毎日本当にドタバタにぎやかですが、やりたいことにチャレンジすることを応援してくれる夫、個性豊かな4人の子どもと暮らす日々は素直に「生きるって楽しいな」と思わせてくれる大切な時間です。
私は今までに、大きな病気をしたこともないし、4人の妊娠出産もギリギリまで仕事して、産後すぐ体重も落ち、体重も体型も高校生の頃からほとんど変わっていません。
体に不調がなかったので、もしかしたらセラピストとしては欠陥だったのかもしれません。
なぜなら、ほとんどのセラピストは体が弱かったのが克服したとか、痛みがなくなったとか、完治したとかそういった体験がきっかけで施術者の道に行くからです。
よく施術で子育てサロンなどを回ったりしていた頃や、子どもが4人いるんですという話をすると「どうしたら体型を維持できるの?」と言われるのですが、本当に特別なことはしていなく、ただやっていることといえば「よく体と相談する」ことです。
薬膳のお話でよく言うのですが、何にしても「バランス」が大事。
どれだけ良いものでも食べ過ぎれば毒になる。
先に上げたように、私の実家では普段は家でゆっくり食べること、なるべく自然のものを食べることを主軸にしてきました。
たまに外食もいいですが、やはり普段の食事が大切で、ここが基礎となり体が作られます。
それを実感したのは自分が子どもを持った時でした。
子どもが4人いるとそれだけ感染率が上がり、多いところでは子ども一人でも毎週なにかしら病院にかかっているという家庭もあるようですが、うちはほとんど病院にはかかりません。
そもそも子どもも抵抗力が高い。体温が高い。
いくら丈夫に産んでもらっても、その後の食生活や生活習慣でそれは消耗してしまい本来の体の動きができなくなってしまいます。
小さい頃の食事を続けていた私は、どうやらそれが自然に維持できていたようで、その食事で育った子どもたちもやはり自然治癒力が高く、病気に負けない体を保ち続けることが出来ています。
心と体、そして自分に軸を当てること
いままでに集めた膨大な資料を、書き出し、まとめ、読み返しながら実際のお客様の身体と照らし合わせてアドバイスをしたり提案したり、提供するメニューが増えました。
それにより、なかなか施術に来られない人も毎日の食生活で体調が好転したり、資質の鑑定によってストレスが軽減して活動の幅が広がったりという嬉しい話も聞かれるようになりました。
また、子育て中のママさんの起業や女性の起業家さんが苦手とするデジタル部分を依頼されることも増えて来ました。
心と資質は非常に結び付きが強いので、言葉だけでは理解しにくいという方には資質からのアドバイスを入れることで自分で気づきがあったり、思考がクリアになったりということがあります。
食事のこと、普段の生活スタイル、抱えているストレスのこと、深い悩みの場合は今までの人生のことを総合的に振り返ることもあります。
そういったアナログな部分を大切にしつつ、加速させるデジタル部分も自分が歯車となって活かすことができる。
わかっていても自分ひとりではどうにもできなかったり状況は様々ですが、一人でどうにもできないことが少しでも減るように、デジタル技術も使ってサポートしている毎日です。
完。
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ちゅうちゅう🐭
茨城県水戸市にて2007年から個人事業に従事、2015年に独立。2021年にsoratobunezumi合同会社で法人化 4人の子育てをしながら泥臭く歩いてきたから分かることを発信/ 肩書なくつながるコミュニティスペース「本拠地」と「本拠地ギルド」の生みの親