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空気人間は本当に空気になりたいのだろうか(エッセイ)


空気になりたいと、思うことはないだろうか?

私は常々、空気になりたいと思う。空気のような存在であるのならば、こんなに誰かの反応が怖いとかなんの話をすれば良いかとか、考えずに済むだろうかと。


無言になってしまったときに私のせいか?とか、余計なことを言ってしまって引かれるとか、そういうこともなくなるだろうか。


空気、空気、空気。私は空気だ、と言い聞かせる。

私は知ってしまったから。学生時代から、ずっと考えていた。

陽気で気が利いてよく喋る、そういう誰かとワイワイすることが好きな人と、私は違う。


学生時代の修学旅行、文化祭、合唱コンクール、体育祭、全部全部、私は「皆で楽しくワイワイしよう」という雰囲気が、楽しまないといけないような『空気感』が、どうにも苦手だった。


楽しくない私は、置いてけぼりだ。そんな風に思っていて、早く終わらないかと願っていた。文化祭は必ず部活で演奏等をしていたけれど、そういうイベントが苦手で、中学の頃は行事の直前に体調を崩すこともあった。


高校の頃、どうにも休むことが許されない部活に入り、私はなぜか滅多に風邪をひかない頑丈な身体になった。痛む胃を知らんふりして、何とか他の子の迷惑にならないよう、必死だった。


大学の頃、私はとあるサークルに入った。そのサークルでは合宿が新歓も含めると年4回もあり、ダラダラ練習するために集まるような合宿だった。私にとっては、身内しか来ないような定期的な形式的イベントのために、なぜ合宿に行かなければならないのかと、思っていた。

大会があるならまだわかる。高校の頃は辛かったが、大会で良い成績を残すために必死だった。あの頃は部活仲間から嫌われたりなんだりしても、勉強も他の仲間より数倍頑張りつつ部活に励んでいた自負がある。

部活内では誰よりも良い大学に入ったが、誰にも自分からは言わなかった。そういうところも、正直あまり好かれてはいなかったが、私は『自慢』だと思われてることを極端に恐れていた。


恐れが何も生まないことに気づくまでに、どれだけの時間が経っただろう。

憧れが苦しみを生むことに気づくまでに、どれだけ傷ついていただろう。


大学時代、サークルを1年で辞めてからは、私はあまり頑張らなくなった。そのせいで、バイト経験はあまりないし、正直仕事をうまくこなせる自信は未だにないけれど、無為に過ごした大学時代は、とても気楽で大切だった。


人が話す青春とは、かけ離れている私の生活。

あまり友達と遊んだり話したりはしないし、恋人なんているはずもない。


親友や恋人を諦めたのは何時頃だろう。

私は、パートナーは欲しいけれど、親友も恋人もいらないのだ。


心を許せる誰かをつくることは、諸刃の剣だと思っている。私は実家の家族以外に心を開くことは、もしかすると二度とないかもしれない。


その覚悟はできている。私は他人に対して、無色透明でいられればいいと思う。害はないけれど、いてもいなくても同じ。そのくらいの距離感で。


いざというときに頼り頼られる人は欲しいけれど、親友でなくてもいい。世間一般の親友が、何でも話せて毎週どこかに遊びに行って毎日連絡を取り合うような相手なら、私にはきっと向いていない。


泊まりの行事が大の苦手だ。そういう青春らしいイベントは、どれも私には向いていなかった。一人でいられる空間が何より大事で、それでいて独りでは生きられない。


誰の邪魔もしないから、誰かの傍にいたいと思う。なんでも話せたりスキンシップをしたりとか、そういう関係はいらないから、とりあえず傍にいて、居心地の良い空気感が欲しい。


私は誰より空気が読めない。

けれど、誰より空気が大切だと思っている。


空気になりたいと思う人へ、それで良いのではないだろうか。私は、空気でも良いから、そこにいても良いという居場所があれば、何者であってもかまわない。


私は、憧れのあの人にはなれないし、ならないけれど、自分にあるものはたくさんあると思っている。

ないものを欲しても仕方がない。楽しくないものを楽しいと思おうとしても苦しいだけ。あるものを数えて、私は私の『楽しい』を、一生守り続けたい。


無理に何者かにならなくても良い。

それが伝われば、それだけで良いと思っている。きっと。


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