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美しい村

美しい村

堀辰雄 1934

私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚になった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった。

高原の避暑地「K村」(軽井沢)を訪れた。或る女友達との別離を小説に書くつもりであるが、様々な苦しみに捕われたまま、村を歩き回る毎日に、小説の構想は浮かんでは消えてゆく。生まれては発展する。だが、しばらくすると興味を失う。思い出が呼び覚まされては、そっと消えてゆく。夏が近づいてきたある日のこと。窓から見える中庭の向こうに、突然、一輪の向日葵が咲きでもしたかのように眩しい少女が立っているのが見えた。黄色い麦藁帽子をかぶった、背の高い痩せぎすなその少女は、「私」の視線に気づき、好奇心いっぱいの眼差しで「私」の方を見つめた・・・・・。

毎朝決まった時間に絵具箱をぶら下げて出かけていく少女。次第に「私」と打ち解け、腕を組んで歩くまでに親しくなる、この向日葵のように眩しい少女の名前は「矢野綾子」。のちに「堀辰雄」の婚約者となり『風立ちぬ』のヒロインとなる女性である。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」
美しい自然に囲まれた高原の風景の中での「私」と「お前(節子)」の物語の始まり。


「どっちへ向いて行くんだか、私にはちっとも分らないわ」彼女はいくらか上ずったような声で言った。「実は僕にも分らなくなっちゃったのさ……」

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