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コーヒー・ハウス

コーヒー・ハウス
都市の生活史-18世紀ロンドン
小林章夫(イギリス文学者)
1984年

「さまざまな意見の人たちが、コーヒーの香りと紫煙の中で、政治を論じ、権力を批判する。」
17〜18世紀にイギリスで繁栄を見せたコーヒー・ハウス。そこは多くの市民が集う情報交換の場所でした。政治を論じ、権力を批判する「市井サロン」であり、そこから新聞などの近代ジャーナリズムが育まれていきました。喫茶店の原型、欧州カフェ文化の先駆であるコーヒー・ハウスが英国、そして世界へ与えた多大な影響を、多数の資料から読み解いています。イギリス人というと紅茶のイメージが強いのですが、それはインドを植民地化した以降のことで、元来はコーヒーの国でした。英国初のコーヒー・ハウスがオックスフォードにオープンしたのは1650年。その2年後にはロンドン初のコーヒー・ハウスが開店。18世紀初めにはイギリス全土で2000店にも達したといいます。政治議論の場として文学者が集い、ジャーナリズムを育みました。また、経済活動の中心であった王立取引所周辺のコーヒー・ハウスでは、商人たちが商売の情報交換を行なっていました。店内で巻きたばこが販売され、実際の取引や船舶の競売まで行なっていたといいます。コーヒー・ハウスには貴族や政治家に加え、ニセ医師や詐欺師までが集いました。ここが陰謀の温床となるのを恐れたイギリス当局は、スパイを送り込み人々の同行に目を光らせました。
1688年頃、エドワード・ロイドがロンドンのタワー・ストリートにコーヒー・ハウスを開店します。貿易商や船員などが屯するようになり、ロイドは顧客の為に最新の海軍ニュースを発行するサービスを始めました。店は繁盛すると同時に手狭になり、ロンバード・ストリートへ移転すると、つぎは次第に保険引き受け業者が集まるようになりました。小さなコーヒー・ハウスから始まったこの会社、世界最大の保険会社ロイズです。ロイズの建物の一階には鐘(ルーティンベル)が置かれており、海難事故の発生を報せる役割を果たしていました。タイタニック号沈没(1912)の際にも、この鐘は鳴らされました。

急速な経済構造の改革と、反対派に対する厳しい弾圧を国民に強いた後、ポーランドに侵攻して第二次世界大戦を起こしたソビエト連邦。このソビエト連邦からコーヒー・ハウスを無くしてしまったスターリン(1879〜1953)は、市井のサロンの可能性をよく理解していたと言えます。その証拠に、コーヒー・サロンが残されたバルト三国では、やがてそこが陰謀の場へと発展していったのでした。

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